第十五話 王都へ届く噂
翌朝、侯爵家の西棟は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。
まだ陽が高くなる前だというのに、裏門のあたりでは小さな人だかりができている。表門のように華やかな出入りはない場所だ。いつもなら納入の荷や使用人の往来があるくらいで、街の者が足を止めることなどほとんどない。
だが今日は違った。
門番が困った顔で順を整え、エルザが人の流れを見ながら短く指示を飛ばしている。
「一度に入れるのは二組までです」
「待てる方は壁際へ。具合の悪い方から先に」
「騒がないで。ここは市でする順番待ちではありません」
強い声ではないのに、誰も逆らわない。
レティシアは西棟の部屋の窓からその様子を見て、思わず息を止めた。
多い。
想像していたより、ずっと。
母親に手を引かれた子ども。咳き込む老人。顔色の悪い若い女。付き添いに背負われた男までいる。全員が今にも倒れそうというわけではない。けれど“教会で待つだけでは不安だ”と感じている顔だった。
昨夜のうちに、ここまで広がったのか。
いや、正確には違うのだろう。
広がるきっかけが、昨夜はっきり形になっただけだ。貧民街でのことも、教会を追われた噂も、侯爵家で上級聖女と揉めた話も、ばらばらのまま街のどこかに漂っていた。それが今、一本の流れとして人を動かし始めている。
「レティシア様」
エルザが部屋へ入ってくる。
「門前に九組です。そのうち、急を要しそうなのは三組」
「九……」
思わず声が漏れた。
ユリウスの様子も見なければならない。昨夜から受け入れたトーマと老人もまだ落ち着いたとは言い切れない。その上で新たに九組。
一人では到底追いつかない。
「侯爵様のお言葉通り、人を増やしました」
エルザは落ち着いて言った。
「文字の読める下男を一人、記録補助に。運び役を二人。布の洗い分けは下働きの娘たちに任せています。門番にも、具合の悪い順に通すよう伝えました」
「ありがとうございます」
「礼より先に優先順位を決めましょう」
まっすぐな口調だった。
だがそこに冷たさはない。
回すための言葉だ。
レティシアはすぐに机へ向かい、紙を広げる。
「まず、今いる人の確認を」
「トーマ坊やは夜中に二度少量の水を飲めました。今朝も一度。吐いてはいません」
「よかった」
「老人は咳で眠りが浅かったですが、熱は昨日より強くありません」
「ユリウス様は?」
エルザの表情がわずかに緩む。
「朝、侯爵夫人のお呼びかけに目を開けられたそうです」
レティシアは顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。声はまだ弱いようですが、水も昨夜より飲めたと」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
まだ安心できる段階ではない。けれど、確実に昨日より前へ進んでいる。
「では、新しく来た方のうち、呼吸が苦しい人と、ぐったりしている子どもから」
「承知しました」
エルザが出ていくと、入れ替わるように若い下男が入ってきた。昨日侯爵がつけると言っていた記録補助だろう。真面目そうな顔で、緊張のあまり背筋が棒のようになっている。
「マティアスと申します」
「レティシアです。文字は早く書けますか」
「人並みには」
「十分です。では、名前、年頃、いつから悪いか、水が飲めているか、吐いたか、息苦しさがあるか。この順で聞いて書いてください」
「は、はい」
「わからなければ勝手に埋めないで、空けておいて」
「はい!」
返事が大きすぎて、奥の寝台でうとうとしていた老人が少し身じろぎした。レティシアは慌てて指を唇に当てる。マティアスは真っ赤になって何度もうなずいた。
最初に入ってきたのは、若い母親と、七歳ほどの娘だった。
娘は高熱というほどではないが顔色が悪く、腹を押さえている。母親は部屋へ入るなり、レティシアを見て深く頭を下げた。
「お願いします、偽――いえ、レティシア様」
呼び直したその一瞬に、レティシアは小さく目を瞬いた。
母親は恥ずかしそうに言う。
「街じゃいろんな呼ばれ方をしてて……でも、ここに来た人は、ちゃんと見てもらえるって」
「順番に見ます。慌てなくて大丈夫です」
そう答えながら、レティシアは娘の手を取る。
冷たすぎない。
目は合う。
問いかけにも頷ける。
まずは落ち着いて話が聞ける相手だ。
その後も、ひとり、またひとりと人が入れ替わる。
軽い者は家で気をつけることを伝え、様子を見るように返す。少し危ない者は部屋で休ませ、飲めるなら少しずつ水を取らせる。咳の強い老人には空気をこもらせないことを繰り返し伝え、付き添いに布の替え方を教える。
すべてを救えるわけではない。
すぐに良くなるわけでもない。
それでも、“待って祈るだけ”ではない時間がここにはある。
そしてそのこと自体が、人をさらに呼び寄せていた。
昼を過ぎる頃には、レティシアの手元の紙は何枚にも増えていた。
マティアスの筆先もだいぶ落ち着き、聞き取りにも慣れてくる。下働きの娘たちは布を洗って干し、運び役の二人は湯と水を往復している。セラでさえ、自分の子のそばにつきながら、後から来た母親へ「一度にたくさん飲ませない方がいいみたい」と小声で教えていた。
人の手が、少しずつ場を作り始めていた。
その最中だった。
廊下の向こうで、急ぎ足とは違う、よく整った足音が響いた。
使用人たちのそれではない。
もっと無駄がなく、迷いもない歩き方。
エルザがすぐに姿を見せる。
だがその表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「レティシア様」
「どうしました」
「王都からの使者が参りました」
部屋の空気が一瞬止まる。
マティアスの筆も、布を畳む娘の手も止まった。
「……王都?」
「はい。王城勤めの文官だそうです。侯爵様へ親書を届けに来られたとか」
レティシアの喉がわずかに詰まる。
侯爵家に王都から使者が来ること自体は、珍しくないのかもしれない。だがこのタイミングで、というのが引っかかった。
「わたしに関係がある、と?」
「断定はできません」
そう言いながらも、エルザの顔は“おそらく関係がある”と語っていた。
「ですが、使者の方が口にしたそうです。“奇跡の届かぬ病に、別の手を差し出した娘の噂”について確認したい、と」
部屋のどこかで誰かが息を呑んだ。
王都へ届いた。
もう、そこまで行ったのだ。
地方の貧民街で始まった小さな違和感が。
教会で蔑まれていた“偽物聖女”の名が。
侯爵家で起きた、窓を開け、水を飲ませ、布を替えたというだけの変化が。
それら全部が、噂として王都まで届いてしまった。
セラが不安げに言う。
「悪いこと、なんでしょうか」
レティシアはすぐに答えられなかった。
良いとも悪いとも決めつけられない。
王都が興味を持つということは、それだけ話が大きくなったということだ。味方になるかもしれないし、もっと面倒な火種になるかもしれない。教会が先回りして、こちらを危険な存在だと吹き込んでいる可能性だってある。
エルザが続ける。
「侯爵様は、ひとまず通常通り続けよとのことです。こちらは止めなくていいと」
「……そうですか」
「ただし、後ほどお呼びがかかるかもしれません」
「わかりました」
エルザが去ったあとも、部屋のざわめきはすぐには戻らなかった。
王都。
その響きは、今ここにいる街の者たちにとって遠い世界だ。だが遠いからこそ、その一言で不安も期待も一気に膨らむ。
咳をしていた老人が、かすれた声で言った。
「やっぱり、本物ってことじゃないのか」
すると付き添いの少年が首を振る。
「違うだろ。本物とか偽物とかじゃなくて……」
言いかけて、うまい言葉が見つからないのか黙る。
その沈黙の続きを、セラが小さく埋めた。
「見てくれる人、なんだよ」
レティシアはその言葉に、少しだけ目を伏せた。
本物でも偽物でもなく、見てくれる人。
それだけで十分だと思う一方で、世の中はそれだけでは済ませてくれないのだろう。
王都は名を求める。
立場を求める。
誰の許しで何をしているのかを問う。
教会も同じだ。
聖印のない施療師など、曖昧なままでは許されない。
けれど今、目の前にいる人々にとって大切なのはそんなことではない。
レティシアは顔を上げる。
「次の方を」
その一言で、止まっていた空気がまた動き出した。
呼ばれたのは、赤子を抱えた夫婦だった。父親の靴は泥だらけで、母親はほとんど眠れていない顔をしている。遠くから来たのだろう。
「どこから来ましたか」
「北門の外れです」
「遠かったですね」
「でも……」
父親は言葉を選ぶように口を開く。
「王都にまで噂が行ったって聞いて、なら本当に助かる人がいるんじゃないかって」
レティシアはその言葉に、胸の奥が重くなるのを感じた。
噂が人を運んでくる。
期待も一緒に。
だが期待は、助けにもなるし重荷にもなる。
前世でも、助かると信じられた患者を救えなかった夜があった。目の前の人の願いに、自分の手が届かなかったことは一度ではない。この世界でも、きっと同じだ。
全部は救えない。
それでも、見ないふりだけはしない。
そのために、今ここにいる。
午後の終わり、ようやく一息つく間ができた頃、再びエルザが現れた。
「侯爵様がお呼びです」
「今ですか」
「はい。王都からの使者が、あなたにも会いたいと」
マティアスが露骨に青ざめる。
セラも不安そうにレティシアを見る。
レティシアは机の上の紙へ視線を落とした。まだ記録途中の名がある。水を飲めた量も、夕方の様子も、続きは誰かに頼まなければならない。
「マティアス」
「は、はい」
「この続き、聞き取れるところまでお願いします。無理に判断しないで、わからないところは空けて」
「わかりました」
「セラさん、トーマくんの様子を見ながら、変化があったらこの子に」
下働きの娘を指すと、彼女は力強く頷いた。
「任せてください」
レティシアは深く息を吸う。
ついに来た。
侯爵家の中だけでは済まなくなった。
地方教会との衝突でも、街の噂でも終わらない場所へ、話が届いてしまったのだ。
廊下へ出ると、屋敷の空気が少し違って感じられた。使用人たちはいつもより声を潜め、けれど視線だけは鋭く動く。誰もが知っているのだろう。王都から使者が来て、その話の中心に、今まさに自分たちのそばを歩く娘がいることを。
“偽物聖女”。
“聖印のない施療師”。
そして王都へ届いた噂の中心。
どの名もまだ定まらない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
後戻りは、もうできない。
客間の前へ着くと、エルザが静かに扉を開いた。
中には侯爵アルベルトと侯爵夫人マリア。そして見慣れぬ男が一人いた。三十代半ばほどだろうか。王都風の端正な衣服を着て、胸元には見覚えのない意匠の留め具がある。目は細く穏やかそうに見えるが、その実、かなり多くを見逃さない類の人間だとわかった。
男はレティシアが入るなり、礼儀正しく一礼した。
「はじめまして、レティシア嬢」
その声音は柔らかい。
だが、柔らかいだけではない。
「私は王都政務局付文官、ルシアン・ベルナールと申します」
政務局。
教会ではない。
その一点だけで、レティシアの胸の中にあった緊張が少し違う形に変わる。
ルシアンは続けた。
「本日は侯爵閣下へ別件の書簡をお届けする用向きでしたが、こちらの領で興味深い噂を耳にしまして」
彼の目が、まっすぐレティシアを見る。
「奇跡ではなく、観察と手当てで人を救う娘がいる、と」
部屋の空気が静まり返る。
レティシアは自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
噂は、ただ届いただけではなかった。
王都はもう、その中身に興味を持っている。
ルシアンは穏やかな微笑みを崩さないまま、次の言葉を置いた。
「少々、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
その問いは丁寧だった。
だがレティシアには、それが新しい扉の開く音のように聞こえた。
この先へ進めば、もう地方の一教会だけを相手にしていた頃には戻れない。
それでも彼女は、静かに息を整え、まっすぐ男を見返した。
「……はい」
王都へ届いた噂は、ここで終わりではない。
むしろ、ここから形を持ち始めるのだと、そう思いながら。




