第十四話 聖印のない施療師
侯爵家の一室が整えられるまでに、それほど時間はかからなかった。
裏門近くの小部屋では手狭すぎると判断されたのだろう。案内されたのは、屋敷の西棟の端にある、もともと客人の休憩や衣装の直しに使われていた部屋だった。表の広間ほど豪奢ではないが、窓が二つあり、風が通る。隣には水場があり、廊下を挟んで小さな物置もある。
今のレティシアにとっては、それだけで十分すぎた。
侍女たちが動き、古い長椅子は簡易の寝台へ変えられ、机には紙とインク壺が置かれる。桶、布、湯を冷ますための陶器の瓶、小さな火鉢まで運び込まれた。足りないものばかりだが、何もない場所に比べれば雲泥の差だ。
部屋の入口に立ち、レティシアはしばらく何も言えなかった。
施療所。
侯爵はそう呼ぶことを許した。
けれどレティシアには、その響きがまだ自分のものに思えない。教会を追われた“偽物聖女”が、貴族の屋敷の中に人を診る場所を与えられるなど、少し前の自分なら冗談だと笑っただろう。
「レティシア様」
侍女頭が声をかけてくる。
年の頃は四十を少し越えたあたりか。背筋の伸びた、無駄のない物腰の女だ。名前をエルザという。
「必要なものは、ひとまず揃えました。追加で求める物があれば、わたくしを通してください」
「ありがとうございます」
「ただし」
エルザは淡々と続けた。
「ここは侯爵家の中です。誰でも好きに出入りさせることはできません。街の者を受け入れる場合は、まず門番とわたくしに知らせを」
「わかっています」
「それから、坊ちゃまのご容態が優先であることもお忘れなく」
その言い方に棘はなかった。
ただ、順序を確認しているだけだ。
レティシアはうなずく。
「もちろんです」
エルザはそれでよしとしたのか、少しだけ表情を和らげた。
「では、先ほどの母子はこちらへ運びます。寝台は窓際にひとつ、奥へもうひとつ用意しました」
「助かります」
「……ひとつ、お尋ねしても?」
「はい」
「本当に聖印はお持ちでないのですか」
レティシアは一瞬、返答に詰まった。
聖印。
教会から正式に施療を許された者に与えられる印だ。地方教会で雑務と下働き同然の扱いを受けていたレティシアには、与えられなかったものでもある。
「持っていません」
そう答えると、エルザはまっすぐレティシアを見た。
「それでも、坊ちゃまは水を飲まれた」
「……はい」
「でしたら、今はそれで十分です」
短い言葉だった。
だがその中にあったのは、信仰ではなく評価だった。
できたか、できないか。
それだけを見る者の言葉だ。
エルザが去るとほどなくして、セラとトーマが運ばれてきた。母子ともに緊張しきっていたが、先ほどの裏門前のような切迫した混乱は少しだけ薄れている。横になれる場所があるだけで、人はこれほど違うのかとレティシアは改めて思う。
「ここで休んでください」
セラはおそるおそる部屋を見回した。
「こんな立派なところ……本当に、私たちが……?」
「立派でも何でもありません」
レティシアは首を振る。
「今は、その子が少しでも楽になる方が先です」
トーマは薄く目を開けていたが、焦点が定まっていない。湯冷ましをほんの少しずつ与えながら、様子を見ていくしかない。
その時、廊下の外で控えめな足音が止まった。
「入ってもよろしいですか」
若い少女の声だった。
「どうぞ」
扉の隙間から顔を出したのは、見覚えのある見習い修道女――ではなく、侯爵家の下働きらしい娘だった。年は十四、五ほど。両腕に布の束を抱えている。
「厨房から、古いけど使える布を持ってこいって言われて……」
「ありがとう」
受け取ると、娘はレティシアをじっと見た。
好奇心に満ちた目だった。
「あの……」
「何?」
「本当に、聖女様じゃないんですか」
セラがびくりとする。
レティシアは少しだけ考えてから答えた。
「聖女ではないわ」
「でも、みんな“偽物聖女”って……」
「そう呼ぶ人もいるね」
娘はますます不思議そうな顔をする。
「じゃあ、何なんです?」
その問いに、レティシアは言葉を失った。
何だろう。
前世では診療所の医師だった。
この世界では、教会で奇跡の足りなさばかりを見せつけられた出来損ない。
今は、侯爵家の一室で、人の顔色と呼吸と水の量を見ている。
どれも本当で、どれも少しずつ違う。
「……施療師、でしょうか」
自分でも確信のないまま口にすると、娘は目を瞬いた。
「でも、聖印がないんですよね」
「ないわね」
「じゃあ、聖印のない施療師?」
無邪気な言い方だった。
けれどその呼び名は、不思議なくらいしっくりきた。
偽物聖女。
そう蔑まれてきた名とは違う。
奇跡の外側で、それでも人を診ようとする自分を、そのまま指しているように思えた。
娘は勝手に納得したらしく、こくこくとうなずく。
「なるほど……」
「なるほど、なの?」
「はい。なんか、そういう感じです」
あまりにも素直な返事に、思わずレティシアは少し笑ってしまった。
セラも、緊張した顔のまま小さく息をこぼす。
娘はほっとしたように笑うと、布の追加が必要ならまた持ってくると言って部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、レティシアは胸の奥をそっと押さえる。
聖印のない施療師。
名乗るにはまだ大きすぎる気もする。けれど、奇跡の有無だけでは測れない自分の立ち位置を、初めて言葉にできた気がした。
その日の夕方には、部屋はますます慌ただしくなった。
ユリウスの様子を見に行って戻り、トーマの様子を書き留め、必要な布と水を確認する。それだけでも休む間はない。セラには飲ませ方と拭き方を繰り返し教え、侍女たちには湯を冷ます順番や使った布を分けることを頼む。
すると、夕暮れ前にまた扉が叩かれた。
「レティシア様」
門番の声だった。
「街から、もう一人……」
レティシアは顔を上げる。
「どんな方ですか」
「年寄りの男です。咳が止まらず、教会では順番を待てと言われたと」
セラが不安げに目を向ける。
レティシアも一瞬、目を閉じた。
早い。
思っていた以上に早い。
今日一日で、もう二人目だ。
侯爵家の中に施療の場ができたことは、意図して広めたわけではない。だが、助けを求める人の耳に届く速度は、教会が情報を抑える速度より速いのかもしれない。
「通してください」
そう言ってから、レティシアはエルザの言葉を思い出し、すぐに付け加える。
「いえ、待ってください。まずエルザさんへ報告を」
「すでに伝えてあります」
「……ありがとうございます」
門番はほっとした顔で去っていった。
セラがぽつりと言う。
「増えるんですね」
「そうね」
「あなた一人で見られるんですか」
見られない、と思った。
少なくとも、このままでは。
前世の小さな診療所でさえ、一人では回らなかった。受付がいて、看護師がいて、薬を整える者がいて、やっと回る。今の自分には、そのどれも足りない。
だが、できないからと門前で帰せば、この場はすぐ意味を失う。
「一人では無理です」
正直に言うと、セラは驚いたように目を見開いた。
「え……」
「だから、手を借ります」
レティシアは机の上の紙を引き寄せた。
必要なものを書き出す。
水を運ぶ者。
布を洗う者。
飲めた量を記録する者。
人の出入りを整える者。
そして、簡単な指示を覚えて繰り返せる者。
奇跡は一人の力として語られやすい。
けれど、目の前の現場は違う。
一人が全てを背負うのではなく、できることを分けることでしか回らない。
「セラさん」
「は、はい」
「あなたにもやってもらうことがあります」
「私に?」
「トーマくんがいつ、どれくらい飲めたかを覚えてください。無理なら、紙に印をつけるだけでもいい」
「紙に……」
「できますか」
セラは戸惑いながらも、ゆっくりとうなずいた。
「やります」
「ありがとう」
そこへ、咳き込みながら老人が通されてきた。
背を丸めた痩せた男で、外套の胸元を押さえて苦しそうにしている。付き添いの少年がひとりいた。孫だろうか。目に強い警戒と期待が混ざっている。
「ここが……その……」
老人が咳の合間に言う。
「偽物聖女の……」
レティシアは少しだけ苦笑した。
「そう呼ばれることもあります」
少年が口を開く。
「でも、じいちゃんは違うって言ってました」
「違う?」
「偽物っていうなら、見もしないで帰す方がよっぽど偽物だって」
老人が気まずそうに孫の頭を軽く叩く。
「よせ」
「だって本当だろ」
そのやりとりに、セラがかすかに笑った。
部屋の空気がほんの少し和らぐ。
レティシアは老人を椅子へ座らせ、咳の様子、息の苦しさ、熱の有無を見ていく。すぐにできることと、今は様子を見るしかないことを分けながら、指示を出していく。
その途中、何度か廊下の向こうで足が止まる気配がした。使用人たちだろう。皆、気になっているのだ。
侯爵家の一室で、聖印もない娘が人を診ている。
それは本来、あってはならないことなのかもしれない。
だが実際には、その“あってはならないこと”の周りに、人が集まり始めている。
夜更け近く、ようやく少しだけ人の出入りが落ち着いた頃だった。
レティシアが記録をまとめていると、扉が二度叩かれた。
「入るぞ」
侯爵だった。
エルザを伴い、部屋の中を静かに見渡す。窓際の寝台に眠るトーマ。椅子にもたれて目を閉じる老人。紙に印をつける練習をしているセラ。洗った布を仕分ける下働きの娘。
そのどれもが、侯爵家のいつもの光景ではない。
「……ずいぶん様になってきたな」
侯爵はそう言った。
褒め言葉かどうかはわからない。だが否定でもない。
「まだ全然です」
レティシアは紙から顔を上げた。
「人手も足りませんし、わたしも知らないことが多いです」
「知らないこと?」
「はい。どう回せば無理が少ないか、どこまで受けるべきか、全部手探りです」
侯爵は少し黙り、それから机の上の紙を見た。
「これは君がつけているのか」
「記録です」
「見ればわかる」
淡々とした返しに、レティシアは少しだけ肩をすくめる。
侯爵は紙の端へ指を伸ばした。
「飲水、嘔吐、呼吸、反応……」
「変化を見るためです。昨日より悪いのか、少し持ち直したのか、勘だけで決めないように」
「教会は、こういうものを残さないのか」
「少なくとも、わたしのいた場所ではほとんど」
侯爵は短く息を吐く。
「見えぬものを語る者ほど、見えるものを雑に扱うか」
その言葉には、エヴェリーナやマルグスへの冷えた評価がにじんでいた。
レティシアは答えなかった。
侯爵はひととおり部屋を見回し、最後に言う。
「明日、もう少し人を回す」
「え?」
「侍女だけでは足りん。文字の読める下男を一人、物運びの早い者を二人。出入りの整理に門番もつける」
レティシアは思わず立ち上がった。
「そんなにしていただけるんですか」
「勘違いするな」
侯爵は冷静に言う。
「これは慈善ではない。君が倒れれば、ユリウスも困る。屋敷の中が無秩序になるのも困る。回る形にするだけだ」
「……それでも、ありがとうございます」
侯爵は小さく顎を引いた。
「それと、明日には教会も次を打ってくるだろう」
その一言に、部屋の空気が少し張る。
「次、ですか」
「聖印のない娘が施療まがいのことをしている。向こうから見れば格好の攻め口だ」
まさに今、レティシアがこの部屋で直面している問題だった。
教会が“偽物聖女”という蔑称で責めるだけならまだいい。だが“聖印のない施療師”という事実そのものを罪として扱われれば、侯爵家でさえかばいきれない局面が来るかもしれない。
侯爵はレティシアの顔を見る。
「それでも続けるか」
問いは短かった。
だが、その重みは十分にわかった。
ここでやめるなら、今ならまだ戻れる。
教会と正面からぶつかる前に、侯爵家の厚意に守られたまま、身を引くこともできる。
けれどレティシアの視線の先には、窓際で眠るトーマがいた。椅子で咳を抑える老人がいた。別室にはユリウスがいる。明日になれば、また誰かが門を叩くかもしれない。
「続けます」
迷いはなかった。
侯爵はそれを聞くと、ほんのわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれないし、ただ呆れただけかもしれない。
「なら、せめて潰れないようにやれ」
「はい」
侯爵は背を向ける。
扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「聖印があるかどうかより、明日も人が来るかどうかの方が、世間にはわかりやすい」
そう言って去っていった。
エルザが最後に一礼し、静かに扉を閉める。
部屋には再び、紙をめくる音と寝息と、遠くの夜の気配だけが残った。
レティシアは机に手をつき、しばらく動かなかった。
聖印のない施療師。
その言葉は、教会にとっては罪の名だろう。
だがここにいる人々にとっては、明日も扉を叩くための目印になり始めている。
それなら、自分はどちらを選ぶのか。
もう答えは出ていた。
レティシアは紙を取り、新しく一行目を書きつける。
本日来訪者、二名。
夜間観察、継続。
人手、要追加。
その文字はまだ整っていない。
けれど、確かに前へ進んでいた。




