第十三話 教会が恐れたのは死ではなく疑いだった
裏門の前に立つ女は、今にも膝から崩れ落ちそうだった。
痩せた腕に抱かれた子どもは五つか六つほどに見える。薄い布にくるまれてはいるが、その布は夜気を防ぐには心もとなく、子どもの身体は熱ではなく、別の危うさを帯びているように思えた。
ぐったりしている。
目も閉じたまま。
唇はかさつき、頬はこけ、呼吸はかすかだ。
レティシアは門を開けさせると、まず女に落ち着いた声で言った。
「名前は」
「わ、私はセラといいます」
「この子は?」
「トーマ……息子です」
「いつからこんな様子ですか」
「三日……いえ、ちゃんとおかしくなったのは二日前で……その前から食べる量が減って……昨日は吐いて……今日は水もあまり……」
途中から、言葉が崩れていく。
女は混乱しきっていた。
無理もない。ここへ来るまでにどれだけ迷い、どれだけ祈るような気持ちで門を叩いたのか。
レティシアはすぐに子どもの額や頬、首筋に手を当てた。
熱はある。
だが、ユリウスの時のような“こもった熱”とは少し違う。身体全体が弱り、乾き、力を失っている感じが強い。口元には吐いた跡がうっすら残り、胸は小さく上下している。
「ここで立ったままでは駄目です」
レティシアは侍女へ振り向いた。
「使っていない控えの部屋はありますか」
「裏口近くの小部屋なら……」
「そこを借ります。湯冷ましと乾いた布を。急いで」
侍女は一瞬迷った。
ここは侯爵家だ。外から来た身元も定かでない母子を、すぐ中へ通していい立場ではない。だがその迷いは短かった。
「かしこまりました!」
彼女は走っていく。
セラが目を潤ませた。
「本当に……入れてくれるんですか」
「今はその子が先です」
レティシアはそれだけ言って、母子を小部屋へ案内した。
裏門近くの部屋は、来客を通すような場所ではなく、物の仮置きにも使われるような簡素な造りだった。だが風は通るし、寝かせるための長椅子もある。閉めきった門前に立たせておくよりずっといい。
トーマを横にさせ、レティシアは小さく息を吐いた。
見なければならない。
何が起きているのかを。
「セラさん。吐いたのは何回ですか」
「昨日に二回、今朝に一回です」
「お腹を下したりは?」
「少し……昨日から……」
「おしっこは」
セラは記憶を探るように眉を寄せる。
「朝から……一度だけだったかもしれません」
レティシアは唇を引き結んだ。
はっきり病名を断じることはできない。
けれど、見えている状態は十分に危うい。
吐いて、飲めず、弱っている。
こういう時に必要なのは、奇跡の演出ではなく、ひとつひとつ状態を戻すことだ。
運ばれてきた湯冷ましを受け取り、まずは布を湿らせて唇を整える。いきなり飲ませすぎない。口元が少しでも水分に慣れるように、少しずつ。
トーマのまぶたがわずかに震えた。
「……おかあ、さん」
「トーマ!」
セラが泣きそうな声を上げる。
「静かに」
レティシアは優しく制した。
「起きたなら、少しずつ飲めるかもしれません」
匙にほんの少しだけ水を取る。唇へ運ぶ。最初は口の端からこぼれたが、二度、三度と繰り返すうちに、小さく喉が動いた。
セラが両手で口元を押さえる。
「飲んだ……」
「まだ少しです」
「でも……」
「はい。少しでも進んでいます」
その時、廊下の向こうが急に騒がしくなった。
複数の足音。
抑えた声。
そして、よく通る、張りつめた女の声。
「ですから、確認が必要だと言っているのです」
レティシアは顔を上げた。
嫌な予感が、今度ははっきりと形になる。
扉がノックもなく開いた。
現れたのは、教会の修道女が二人。そしてその後ろに、司祭マルグスがいた。
地方教会で、レティシアに処分を下した男だ。
彼は小部屋へ足を踏み入れるなり、あからさまに顔をしかめた。
「……やはりここにいたか」
セラがびくりと身体をすくめる。
修道女たちも、部屋の中の親子とレティシアを見て、露骨に警戒をにじませていた。
レティシアは立ち上がる。
「何のご用でしょう」
「それは、こちらの台詞だ」
マルグスは冷ややかに言った。
「侯爵家に身を寄せ、今度は門前の病人まで勝手に引き入れる。教会の監督を離れた娘が、どこまで好き勝手をすれば気が済む?」
セラが怯えてレティシアを見る。
この女は教会から咎められるような存在なのか、と。
その視線の意味を感じながら、レティシアは答えた。
「助けを求めてきた親子です。立たせたままにしておけませんでした」
「助ける?」
マルグスの口元が歪む。
「君が? 本当に自分のしていることが救いだと思っているのか」
「少なくとも、水も飲めぬ子を門前で帰すよりはましです」
「口が減らないな」
修道女の一人が、苛立ちを隠さず言った。
「司祭様、この方が噂の……」
「ええ、そうですとも」
もう一人が、まるで汚れたものでも見るような目でレティシアを見る。
「奇跡を疑わせる女です」
セラの顔色が変わる。
トーマを抱く腕に力が入った。
だがレティシアは、そこで気づいた。
彼女たちの声には怒りだけではない、別のものが混じっている。
焦りだ。
もし本当にただの愚かな娘だと思っているなら、ここまで急いで押しかける必要はない。侯爵家の裏門に病人が来た、その程度で司祭自らが動くはずがない。
教会は知ったのだ。
侯爵家で起きたことを。
ユリウスが水を飲んだことを。
上級聖女エヴェリーナの奇跡が届かなかったところへ、レティシアのやり方が割り込んだことを。
そして、それが“噂”として広がり始めたことを。
マルグスはセラに向き直った。
「あなた、勘違いしてはいけませんよ」
急に声を柔らかくする。
「この娘は教会から正式な務めを許された者ではありません。聖女でもなく、施療師でもなく、ただ規律を乱して追い出された身です」
セラの顔から血の気が引く。
「そ、そんな……」
「子を思う気持ちはわかります。だからこそ、怪しげな者に任せてはならない。病を前にして民が頼るべきは、正しい祈りと正しい教えです」
レティシアはそこで、はっきり理解した。
教会が恐れているのは、死ではない。
疑いだ。
“正しい祈り”だけでは足りないのではないか。
“正しい教え”と呼ばれるものの外にも、助かる道があるのではないか。
その疑いが民のあいだに生まれることを、彼らは何より恐れている。
レティシアはセラのそばへ戻り、トーマの顔を見た。
少年の唇はまだ乾いている。
喉は少し動いたが、これで安心できる状態ではない。
ここで言い争っている時間はない。
「司祭様」
レティシアは落ち着いて言った。
「この子は今、飲めるかどうかの瀬戸際です」
「だからこそ教会へ連れていく」
「移動させるより先に、ここで少しでも落ち着かせる方がいいです」
「君に決める権利はない」
「では、誰にあるんですか」
思わず声が鋭くなる。
「この子を抱いてここまで来た母親ですか。それとも、今この子の顔色も見ずに“規律”を語っているあなたですか」
小部屋が静まり返った。
マルグスの表情が硬くなる。
修道女たちは青ざめた。
この場にいる誰もが、その言葉が踏み込みすぎているとわかっただろう。だがレティシアはもう引けなかった。
セラが震える声で言う。
「司祭様……」
全員の視線が彼女に集まる。
母親は、子どもを抱く腕を強くしたまま、必死に言葉をつなぐ。
「私……教会にも行きました」
マルグスの眉がぴくりと動く。
「昨日、行ったんです。けど、熱が出ている者が多いから順番を待てって……水を飲ませて寝かせて祈れって……」
「それは適切な――」
「でも、どんどん飲めなくなったんです!」
セラの声が裏返る。
「このまま死ぬかもしれないって思って、だから……だから、ここへ……!」
修道女たちが気まずそうに目を伏せた。
マルグスは顔色を変えずに言う。
「混み合う時はある。皆が苦しいのです。特別扱いはできません」
「わかってます……でも……」
セラの視線がレティシアへ揺れる。
「この人なら、“見る”って聞いたんです」
その一言は、小さかった。
けれど決定的だった。
見る。
たったそれだけの言葉が、教会の言う“正しさ”を揺るがす。
奇跡や加護のような遠いものではなく、今ここにいる子の顔色、乾いた唇、飲めるかどうかを、ちゃんと見る。
民がそれを求め始めたらどうなるか。
教会は知っているのだ。
だから焦る。
だから潰しに来る。
マルグスが低く言う。
「侯爵家の権威を借りて、ずいぶんと上手く立ち回っているようだな、レティシア」
「借りていません。頼られたから動いただけです」
「君のような娘が勝手を続ければ、民は何を信じればよいかわからなくなる」
「信じる前に、助からなければ意味がありません」
「……っ」
マルグスの頬がぴくりと引きつった。
その時だった。
「その通りだ」
低く、よく通る男の声がした。
振り返ると、小部屋の入口に侯爵アルベルトが立っていた。後ろには侍女頭と護衛が控えている。
誰も気づかなかったのか、あるいは途中から聞いていたのか。
マルグスが一瞬だけ目を見開いたが、すぐに恭しく頭を下げた。
「これは、侯爵閣下。教会として、少々確認を――」
「確認?」
侯爵は部屋へ入ってくる。
その視線は、まずセラとトーマに向けられ、次にレティシア、最後にマルグスへ向いた。
「病人を前にして、ずいぶん長く言葉を交わしていたようだが」
「規律の問題です」
「命より先に来る規律か?」
マルグスは返答に詰まった。
侯爵は続ける。
「この屋敷に来た者をどう扱うかは、私が決める。教会の顔色で門前の親子を追い返すつもりはない」
「しかし閣下、それでは民に誤解を――」
「誤解とは何だ」
侯爵の声が冷える。
「聖女の奇跡だけでは足りぬ時がある、と民が知ることか」
マルグスは沈黙した。
それが何より雄弁だった。
侯爵はレティシアを見た。
「続けろ」
短い命令だった。
けれど十分だった。
レティシアは一礼し、すぐセラへ向き直る。
「今は少しずつ飲ませます。吐いたら無理に続けない。落ち着いたらまた少し。身体を冷やしすぎないようにして、汚れた布は替える。ここで今夜だけでも見ます」
セラは涙をこぼしながら何度も頷いた。
「お願いします……お願いします……」
修道女たちが不安そうにマルグスを見る。
だが司祭は、もう強く押せないと悟ったらしい。侯爵の前でこれ以上踏み込めば、問題が大きくなる。
それでも彼は、最後にレティシアへ低く言った。
「君は自分が何を崩しているのかわかっていない」
「いいえ」
レティシアは答えた。
「崩れているのは、最初から足りなかったものです」
マルグスの目が険しくなる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「参りましょう」
彼は修道女たちを促し、小部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、張りつめていた空気がようやくほどけた。
セラはその場にへたり込みそうになりながら、必死にトーマを抱えている。
侯爵は短く息を吐いた。
「面倒は増えるな」
それは愚痴のようでもあり、状況確認のようでもあった。
レティシアは正直に答える。
「はい」
「だが、今のやり取りでよくわかった」
「何が、でしょう」
侯爵は扉の向こうを見やる。
「教会が守りたいものは、民の安心だけではないということだ」
レティシアは何も言わなかった。
言う必要がなかった。
侯爵はもう見てしまったのだ。
教会が最も嫌がる瞬間を。
民が“奇跡以外の方法”を知り、それを求め始める瞬間を。
「レティシア」
「はい」
「屋敷の一室を正式に使わせる」
セラが目を見開く。
侍女頭も驚いた顔をした。
「裏門近くでは狭すぎる。出入りを管理し、余計な混乱を避けるためにも場所がいる。必要なものをまとめろ」
レティシアは一瞬言葉を失った。
それは、ただ親子一組を助けるという話ではない。
ここを拠点に、助けを求める者を受け入れる形になる。
つまり――。
「……施療所、ですか」
侯爵は少しだけ目を細める。
「大げさな名だな。だが、そう呼びたければ呼べ」
セラがその言葉を聞いて、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「ありがとうございます……」
侯爵は彼女には答えず、侍女頭へ指示を出す。
「信頼できる者をつけろ。水、布、記録用の紙、簡単な寝台も用意しろ。騒ぎを広げすぎるな。ただし、隠すな」
「承知しました」
レティシアの胸の奥で、静かに、しかし大きく何かが動いた。
噂はもう止まらない。
ならば、曖昧なまま飲み込まれる前に、形にしてしまう。
“偽物聖女”の名のもとに、人を助ける場を。
教会が恐れたのは、死ではなく疑いだった。
ならばその疑いは、もう消えない。
一度見えてしまった事実は、祈りだけでは覆せないのだから。
レティシアはトーマの口元へ再び匙を運ぶ。
小さな喉が、かすかに動く。
その確かな反応を見つめながら、彼女は次に来る嵐を思った。
教会は必ず、もっと強く出てくる。
だがこちらにも、もう守るべきものができてしまった。
ただの評判ではない。
ただの逆転でもない。
ここに運ばれてくる、一人ひとりの命だ。
その重さがある限り、もう後戻りはできない。




