表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/25

第十三話 教会が恐れたのは死ではなく疑いだった

裏門の前に立つ女は、今にも膝から崩れ落ちそうだった。


痩せた腕に抱かれた子どもは五つか六つほどに見える。薄い布にくるまれてはいるが、その布は夜気を防ぐには心もとなく、子どもの身体は熱ではなく、別の危うさを帯びているように思えた。


ぐったりしている。


目も閉じたまま。


唇はかさつき、頬はこけ、呼吸はかすかだ。


レティシアは門を開けさせると、まず女に落ち着いた声で言った。


「名前は」


「わ、私はセラといいます」


「この子は?」


「トーマ……息子です」


「いつからこんな様子ですか」


「三日……いえ、ちゃんとおかしくなったのは二日前で……その前から食べる量が減って……昨日は吐いて……今日は水もあまり……」


途中から、言葉が崩れていく。


女は混乱しきっていた。


無理もない。ここへ来るまでにどれだけ迷い、どれだけ祈るような気持ちで門を叩いたのか。


レティシアはすぐに子どもの額や頬、首筋に手を当てた。


熱はある。


だが、ユリウスの時のような“こもった熱”とは少し違う。身体全体が弱り、乾き、力を失っている感じが強い。口元には吐いた跡がうっすら残り、胸は小さく上下している。


「ここで立ったままでは駄目です」


レティシアは侍女へ振り向いた。


「使っていない控えの部屋はありますか」


「裏口近くの小部屋なら……」


「そこを借ります。湯冷ましと乾いた布を。急いで」


侍女は一瞬迷った。


ここは侯爵家だ。外から来た身元も定かでない母子を、すぐ中へ通していい立場ではない。だがその迷いは短かった。


「かしこまりました!」


彼女は走っていく。


セラが目を潤ませた。


「本当に……入れてくれるんですか」


「今はその子が先です」


レティシアはそれだけ言って、母子を小部屋へ案内した。


裏門近くの部屋は、来客を通すような場所ではなく、物の仮置きにも使われるような簡素な造りだった。だが風は通るし、寝かせるための長椅子もある。閉めきった門前に立たせておくよりずっといい。


トーマを横にさせ、レティシアは小さく息を吐いた。


見なければならない。


何が起きているのかを。


「セラさん。吐いたのは何回ですか」


「昨日に二回、今朝に一回です」


「お腹を下したりは?」


「少し……昨日から……」


「おしっこは」


セラは記憶を探るように眉を寄せる。


「朝から……一度だけだったかもしれません」


レティシアは唇を引き結んだ。


はっきり病名を断じることはできない。


けれど、見えている状態は十分に危うい。


吐いて、飲めず、弱っている。


こういう時に必要なのは、奇跡の演出ではなく、ひとつひとつ状態を戻すことだ。


運ばれてきた湯冷ましを受け取り、まずは布を湿らせて唇を整える。いきなり飲ませすぎない。口元が少しでも水分に慣れるように、少しずつ。


トーマのまぶたがわずかに震えた。


「……おかあ、さん」


「トーマ!」


セラが泣きそうな声を上げる。


「静かに」


レティシアは優しく制した。


「起きたなら、少しずつ飲めるかもしれません」


匙にほんの少しだけ水を取る。唇へ運ぶ。最初は口の端からこぼれたが、二度、三度と繰り返すうちに、小さく喉が動いた。


セラが両手で口元を押さえる。


「飲んだ……」


「まだ少しです」


「でも……」


「はい。少しでも進んでいます」


その時、廊下の向こうが急に騒がしくなった。


複数の足音。


抑えた声。


そして、よく通る、張りつめた女の声。


「ですから、確認が必要だと言っているのです」


レティシアは顔を上げた。


嫌な予感が、今度ははっきりと形になる。


扉がノックもなく開いた。


現れたのは、教会の修道女が二人。そしてその後ろに、司祭マルグスがいた。


地方教会で、レティシアに処分を下した男だ。


彼は小部屋へ足を踏み入れるなり、あからさまに顔をしかめた。


「……やはりここにいたか」


セラがびくりと身体をすくめる。


修道女たちも、部屋の中の親子とレティシアを見て、露骨に警戒をにじませていた。


レティシアは立ち上がる。


「何のご用でしょう」


「それは、こちらの台詞だ」


マルグスは冷ややかに言った。


「侯爵家に身を寄せ、今度は門前の病人まで勝手に引き入れる。教会の監督を離れた娘が、どこまで好き勝手をすれば気が済む?」


セラが怯えてレティシアを見る。


この女は教会から咎められるような存在なのか、と。


その視線の意味を感じながら、レティシアは答えた。


「助けを求めてきた親子です。立たせたままにしておけませんでした」


「助ける?」


マルグスの口元が歪む。


「君が? 本当に自分のしていることが救いだと思っているのか」


「少なくとも、水も飲めぬ子を門前で帰すよりはましです」


「口が減らないな」


修道女の一人が、苛立ちを隠さず言った。


「司祭様、この方が噂の……」


「ええ、そうですとも」


もう一人が、まるで汚れたものでも見るような目でレティシアを見る。


「奇跡を疑わせる女です」


セラの顔色が変わる。


トーマを抱く腕に力が入った。


だがレティシアは、そこで気づいた。


彼女たちの声には怒りだけではない、別のものが混じっている。


焦りだ。


もし本当にただの愚かな娘だと思っているなら、ここまで急いで押しかける必要はない。侯爵家の裏門に病人が来た、その程度で司祭自らが動くはずがない。


教会は知ったのだ。


侯爵家で起きたことを。


ユリウスが水を飲んだことを。


上級聖女エヴェリーナの奇跡が届かなかったところへ、レティシアのやり方が割り込んだことを。


そして、それが“噂”として広がり始めたことを。


マルグスはセラに向き直った。


「あなた、勘違いしてはいけませんよ」


急に声を柔らかくする。


「この娘は教会から正式な務めを許された者ではありません。聖女でもなく、施療師でもなく、ただ規律を乱して追い出された身です」


セラの顔から血の気が引く。


「そ、そんな……」


「子を思う気持ちはわかります。だからこそ、怪しげな者に任せてはならない。病を前にして民が頼るべきは、正しい祈りと正しい教えです」


レティシアはそこで、はっきり理解した。


教会が恐れているのは、死ではない。


疑いだ。


“正しい祈り”だけでは足りないのではないか。


“正しい教え”と呼ばれるものの外にも、助かる道があるのではないか。


その疑いが民のあいだに生まれることを、彼らは何より恐れている。


レティシアはセラのそばへ戻り、トーマの顔を見た。


少年の唇はまだ乾いている。


喉は少し動いたが、これで安心できる状態ではない。


ここで言い争っている時間はない。


「司祭様」


レティシアは落ち着いて言った。


「この子は今、飲めるかどうかの瀬戸際です」


「だからこそ教会へ連れていく」


「移動させるより先に、ここで少しでも落ち着かせる方がいいです」


「君に決める権利はない」


「では、誰にあるんですか」


思わず声が鋭くなる。


「この子を抱いてここまで来た母親ですか。それとも、今この子の顔色も見ずに“規律”を語っているあなたですか」


小部屋が静まり返った。


マルグスの表情が硬くなる。


修道女たちは青ざめた。


この場にいる誰もが、その言葉が踏み込みすぎているとわかっただろう。だがレティシアはもう引けなかった。


セラが震える声で言う。


「司祭様……」


全員の視線が彼女に集まる。


母親は、子どもを抱く腕を強くしたまま、必死に言葉をつなぐ。


「私……教会にも行きました」


マルグスの眉がぴくりと動く。


「昨日、行ったんです。けど、熱が出ている者が多いから順番を待てって……水を飲ませて寝かせて祈れって……」


「それは適切な――」


「でも、どんどん飲めなくなったんです!」


セラの声が裏返る。


「このまま死ぬかもしれないって思って、だから……だから、ここへ……!」


修道女たちが気まずそうに目を伏せた。


マルグスは顔色を変えずに言う。


「混み合う時はある。皆が苦しいのです。特別扱いはできません」


「わかってます……でも……」


セラの視線がレティシアへ揺れる。


「この人なら、“見る”って聞いたんです」


その一言は、小さかった。


けれど決定的だった。


見る。


たったそれだけの言葉が、教会の言う“正しさ”を揺るがす。


奇跡や加護のような遠いものではなく、今ここにいる子の顔色、乾いた唇、飲めるかどうかを、ちゃんと見る。


民がそれを求め始めたらどうなるか。


教会は知っているのだ。


だから焦る。


だから潰しに来る。


マルグスが低く言う。


「侯爵家の権威を借りて、ずいぶんと上手く立ち回っているようだな、レティシア」


「借りていません。頼られたから動いただけです」


「君のような娘が勝手を続ければ、民は何を信じればよいかわからなくなる」


「信じる前に、助からなければ意味がありません」


「……っ」


マルグスの頬がぴくりと引きつった。


その時だった。


「その通りだ」


低く、よく通る男の声がした。


振り返ると、小部屋の入口に侯爵アルベルトが立っていた。後ろには侍女頭と護衛が控えている。


誰も気づかなかったのか、あるいは途中から聞いていたのか。


マルグスが一瞬だけ目を見開いたが、すぐに恭しく頭を下げた。


「これは、侯爵閣下。教会として、少々確認を――」


「確認?」


侯爵は部屋へ入ってくる。


その視線は、まずセラとトーマに向けられ、次にレティシア、最後にマルグスへ向いた。


「病人を前にして、ずいぶん長く言葉を交わしていたようだが」


「規律の問題です」


「命より先に来る規律か?」


マルグスは返答に詰まった。


侯爵は続ける。


「この屋敷に来た者をどう扱うかは、私が決める。教会の顔色で門前の親子を追い返すつもりはない」


「しかし閣下、それでは民に誤解を――」


「誤解とは何だ」


侯爵の声が冷える。


「聖女の奇跡だけでは足りぬ時がある、と民が知ることか」


マルグスは沈黙した。


それが何より雄弁だった。


侯爵はレティシアを見た。


「続けろ」


短い命令だった。


けれど十分だった。


レティシアは一礼し、すぐセラへ向き直る。


「今は少しずつ飲ませます。吐いたら無理に続けない。落ち着いたらまた少し。身体を冷やしすぎないようにして、汚れた布は替える。ここで今夜だけでも見ます」


セラは涙をこぼしながら何度も頷いた。


「お願いします……お願いします……」


修道女たちが不安そうにマルグスを見る。


だが司祭は、もう強く押せないと悟ったらしい。侯爵の前でこれ以上踏み込めば、問題が大きくなる。


それでも彼は、最後にレティシアへ低く言った。


「君は自分が何を崩しているのかわかっていない」


「いいえ」


レティシアは答えた。


「崩れているのは、最初から足りなかったものです」


マルグスの目が険しくなる。


けれど、それ以上は何も言わなかった。


「参りましょう」


彼は修道女たちを促し、小部屋を出ていく。


扉が閉まったあと、張りつめていた空気がようやくほどけた。


セラはその場にへたり込みそうになりながら、必死にトーマを抱えている。


侯爵は短く息を吐いた。


「面倒は増えるな」


それは愚痴のようでもあり、状況確認のようでもあった。


レティシアは正直に答える。


「はい」


「だが、今のやり取りでよくわかった」


「何が、でしょう」


侯爵は扉の向こうを見やる。


「教会が守りたいものは、民の安心だけではないということだ」


レティシアは何も言わなかった。


言う必要がなかった。


侯爵はもう見てしまったのだ。


教会が最も嫌がる瞬間を。


民が“奇跡以外の方法”を知り、それを求め始める瞬間を。


「レティシア」


「はい」


「屋敷の一室を正式に使わせる」


セラが目を見開く。


侍女頭も驚いた顔をした。


「裏門近くでは狭すぎる。出入りを管理し、余計な混乱を避けるためにも場所がいる。必要なものをまとめろ」


レティシアは一瞬言葉を失った。


それは、ただ親子一組を助けるという話ではない。


ここを拠点に、助けを求める者を受け入れる形になる。


つまり――。


「……施療所、ですか」


侯爵は少しだけ目を細める。


「大げさな名だな。だが、そう呼びたければ呼べ」


セラがその言葉を聞いて、ぼろぼろと涙を流し始めた。


「ありがとうございます……」


侯爵は彼女には答えず、侍女頭へ指示を出す。


「信頼できる者をつけろ。水、布、記録用の紙、簡単な寝台も用意しろ。騒ぎを広げすぎるな。ただし、隠すな」


「承知しました」


レティシアの胸の奥で、静かに、しかし大きく何かが動いた。


噂はもう止まらない。


ならば、曖昧なまま飲み込まれる前に、形にしてしまう。


“偽物聖女”の名のもとに、人を助ける場を。


教会が恐れたのは、死ではなく疑いだった。


ならばその疑いは、もう消えない。


一度見えてしまった事実は、祈りだけでは覆せないのだから。


レティシアはトーマの口元へ再び匙を運ぶ。


小さな喉が、かすかに動く。


その確かな反応を見つめながら、彼女は次に来る嵐を思った。


教会は必ず、もっと強く出てくる。


だがこちらにも、もう守るべきものができてしまった。


ただの評判ではない。


ただの逆転でもない。


ここに運ばれてくる、一人ひとりの命だ。


その重さがある限り、もう後戻りはできない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ