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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第十二話 “偽物”の名は屋敷の外まで届く

ユリウスが眠りについたのは、日が傾き始めた頃だった。


熱はまだ高い。


けれど先ほどまでの、ただ苦しさに飲み込まれているだけの顔ではない。薄く汗をかき、乾いた唇にも少しだけ潤いが戻っている。水を飲めた量は多くない。それでも、飲めなかった状態からは確かに進んでいた。


レティシアは寝台の脇の小机に置いた紙へ、今日の様子を書き込んだ。


昼過ぎ、窓を開ける。


香炉を下げる。


掛け布を一枚減らす。


水を匙で少量ずつ。三度、喉が動く。


夕刻、呼びかけに反応あり。「みず」と発語。


汗あり。寝間着を交換。


前世では当たり前のようにしていた記録だ。


だがこの世界では、それ自体が珍しいらしい。侍女たちは最初こそ不思議そうにしていたが、今ではレティシアが紙に向かうたび、今日の変化を思い返して口にしてくれるようになった。


「先ほどより、息が落ち着いています」


「汗をかいたあと、お顔の赤みが少し引きました」


「この時間は、さっきより手が熱くありません」


曖昧だった“なんとなく”が、言葉になっていく。


それだけで人は、状況に飲まれにくくなる。


侯爵夫人マリアは寝台の向こう側で、息子の手をそっと包んでいた。泣き崩れることも、祈りだけにすがることもなく、今はちゃんと見ている。


「レティシア」


夫人が小声で呼ぶ。


「はい」


「ありがとう、では足りないわね」


レティシアが顔を上げると、夫人は少しだけ困ったように笑った。


「あなたが来なければ、わたくしは今も、閉め切った部屋で奇跡だけを待っていたでしょう」


「……まだ、先はわかりません」


「ええ。それでもよ」


夫人の声は静かだが、確かだった。


「わたくしは今日、自分の目で変化を見たの。あの子が水を欲しがるのを聞いた。息の仕方が変わるのを見た。それをなかったことにはできないわ」


レティシアは答えに迷い、ただうなずいた。


その時、部屋の外で小走りの足音が止まった。


扉の向こうで、侍女が控えめに声をかける。


「奥様。厨房より申し上げます。坊ちゃまに出す湯冷ましの件で確認をと」


「入って」


若い侍女が盆を手に入ってくる。だがその顔は、どこか上気していた。緊張だけではない。何かを聞いてきた者の顔だ。


「どうしたの?」


夫人が問うと、侍女は視線を泳がせた。


「それが……下の者たちのあいだで、少し噂になっておりまして」


レティシアはいやな予感がした。


「噂?」


「はい。坊ちゃまが、昼よりお水を飲めるようになったことを、そば仕えの者が厨房で話したようで……。そこから、旦那様が上級聖女様ではなく別の方をお残しになった、と」


夫人の眉が寄る。


「口が軽いわね」


「申し訳ありません」


「あなたが謝ることではないわ。それで、どう広まっているの?」


侍女は一瞬ためらったあと、言った。


「“偽物聖女”が侯爵家に入り込んだ、と……」


部屋の空気が一瞬、冷えた。


寝台の上のユリウスは眠っている。だがその傍らで交わすには、あまりに刺々しい言葉だった。


侍女は慌てて続ける。


「で、ですが、悪い意味ばかりではありません! 坊ちゃまが声を出されたことも、少しずつ広まっていて……その、半々と申しますか……」


「半々?」


「はい。“怪しげな女が聖女様の邪魔をした”という者もいれば、“その怪しげな女が坊ちゃまに水を飲ませた”という者も」


レティシアは思わず息を吐いた。


遅かれ早かれ、こうなるとは思っていた。


侯爵家ほどの屋敷で、一人の客人の出入りや、上級聖女との衝突が、誰にも知られず済むはずがない。しかも相手はエヴェリーナだ。教会の威光を背負う彼女が、名もない女に押し切られた。使用人たちにとっては、これ以上ない話の種だろう。


夫人が侍女へ言う。


「今日ここで見たことを、面白半分に広めることは許しません」


「承知しております、奥様」


「ただし」


夫人は少しだけ言葉を区切った。


「事実をねじ曲げることも、許しません。ユリウスは昼より水を飲めるようになった。それは事実です」


「……はい」


侍女は目を見開き、それから深く頭を下げた。


夫人は侍女を下がらせると、しばらく扉の方を見ていた。


「たぶん、もう屋敷の外にも伝わるわね」


ぽつりとした声だった。


レティシアもそう思う。


侯爵家に出入りする商人、御者、仕入れ先、教会関係者。使用人の家族。話の流れは、ひとつではない。屋敷の中で生まれた噂は、夜が明ける頃には街のどこかで別の形に変わっている。


「困りますか」


自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。


夫人はレティシアを見る。


「あなたにとっては、良いことではないでしょうね」


「……そうですね」


“偽物聖女”の名が広がること自体は、すでに慣れている。


けれど今度は違う。


ただ蔑まれるだけではない。侯爵家で上級聖女と対立し、しかもその場に残された女として語られるのだ。興味も敵意も、今までより強く向いてくる。


教会が知れば、無視はしないだろう。


エヴェリーナが黙っているとも思えない。


だが一方で――。


「でも、もし広まるなら」


レティシアは自分の考えを確かめるように言った。


「“ユリウス様が水を飲めた”というところまで、きちんと広まってほしいです」


夫人が目を瞬く。


「あなたは……本当に不思議ね。もっとご自分を守ることを考えてもいいのに」


「守るためにも必要なんです」


「必要?」


「“怪しい女が入り込んだ”だけが広まったら、簡単に潰されます。でも、“その怪しい女が変化を起こした”まで伝われば、少しは違います」


貧民街でもそうだった。


どれほど蔑まれても、一人救い、二人救い、目に見える変化を積み重ねれば、“ただの変わり者”では済まなくなる。信じる者が一人いれば二人目が生まれ、二人いれば噂は裏返る。


夫人はゆっくりとうなずいた。


「事実で身を守る、ということね」


「はい」


「なら、わたくしも協力するわ」


その一言に、レティシアは思わず顔を上げた。


「奥様が?」


「ええ。隠して済む段階ではないもの」


夫人は息子の寝顔を見つめながら続ける。


「これ以上、面白半分の噂にされるくらいなら、わたくしが見たことをきちんと話します。あの子がどんな様子で、何が変わったか。奇跡を否定はしない。でも、見えた変化は見えた変化として」


侯爵夫人自らがそう言う意味は大きい。


使用人たちへの影響はもちろん、外へ漏れた時の重みも違う。


レティシアが礼を言おうとした時、今度はもっと急いだ足音が近づいてきた。


扉がノックされる。


「レティシア様!」


侍女の声は張りつめていた。


「何です?」


「お屋敷の裏門に、街の者が来ています!」


レティシアは立ち上がる。


「街の者?」


「はい。下町の女が……病気の子を抱いて、どうしても“偽物聖女様”に会わせてくれと」


言葉を失ったのは一瞬だけだった。


夫人もまた、表情を変える。


「もう、そこまで……?」


早い。だが、早すぎるわけではないのかもしれない。


貧民街でのこと。


施療所でのこと。


侯爵家でのこと。


点だったものが線になり始めれば、人は最も切実な時に、その名を頼る。たとえそれが蔑称のままであっても。


レティシアの胸の奥が強く脈打つ。


“偽物聖女”の名が、屋敷の外まで届いた。


悪意と好奇心と、そして助けを求める声に混ざって。


夫人がレティシアを見る。


「行くつもり?」


「……はい」


即答だった。


「ですが、ユリウス様が」


「今は眠っているわ。ここはわたくしが見る」


夫人は立ち上がる。


「侍女たちにも、あなたが書いた通りに動くよう伝えます。水のことも、布のことも、呼吸のことも」


その言葉に、レティシアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


もう、この部屋は自分一人がいなければ何もできない場所ではない。見て、触れて、変化を追う人がいる。


それは大きかった。


「ありがとうございます」


「いいえ」


夫人は、少しだけ厳しい顔をした。


「ただし無理はしないで。あなたは、ひとりしかいないのだから」


その言葉は思いのほか深く刺さった。


前世でも、何度も言われた言葉に似ていたからだ。


だが今は立ち止まっていられない。


レティシアは一礼し、足早に部屋を出た。


廊下では、何人もの使用人が息を潜めてこちらを見ていた。視線の意味はさまざまだ。好奇、警戒、畏れ、期待。誰一人として、もうただの雑用係を見る目ではない。


“偽物聖女”。


その呼び名が、別の意味を持ち始めている。


階段を下り、裏門へ向かう途中、侍女が小声で言った。


「本当に……外から来た方が、そう呼んだのです」


「そう」


「でも、その言い方は……悪口ではありませんでした」


レティシアは少しだけ足を緩めた。


「どういうふうに?」


侍女は答える。


「“偽物聖女様なら、祈るだけじゃなく見てくれるって聞いた”と」


胸の奥で、何かが静かに熱を持った。


それは怒りではない。


悔しさでもない。


蔑みの名で呼ばれながら、その中身だけが別のものに変わっていく感覚だ。


やがて裏門が見えた。


簡素な門扉の向こう、くたびれた外套を羽織った女がひとり、幼い子を抱いて立っている。頬はこけ、腕の中の子は力なくぐったりとしていた。


女はレティシアの姿を見つけた瞬間、目を見開いた。


「……あんた、が」


声はかすれていた。


長く歩いてきたのだろう。


「偽物聖女様、ですか」


その呼び方に嘲りはなかった。


ただ、藁にも縋る者の切実さだけがあった。


レティシアは門の前で立ち止まり、子どもの様子を見る。


青白い顔。


閉じた目。


乾いた口元。


母親の腕の中で、不自然なほど動かない身体。


背筋が冷える。


ここで迷っている時間はない。


「その子を、こちらへ」


女の目に、わずかな光が宿る。


「見てくれるのかい……?」


「見ます」


はっきり答える。


その瞬間、背後の屋敷の奥では侯爵家の嫡男が眠り、目の前では名も知らぬ子が新たに運ばれてくる。


噂はもう、止まらない。


そしてレティシア自身も、もう止まれない。


偽物と呼ばれるその名のまま、彼女は次の命の前へ進み出た。

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