第十一話 見えないものを見ているのは、どちらか
侯爵家の客間は、地方教会の粗末な応接室とは比べものにならないほど豪奢だった。
濃い緑の壁布。磨き上げられた床。重厚な木の机。窓辺には季節の花が飾られ、銀の盆には湯気の立つ茶器まで並んでいる。けれどレティシアは、少しも落ち着かなかった。
豪華な部屋ほど、かえって居場所のなさを思い知る。
自分は本来、ここへ通されるような人間ではない。
教会で“偽物聖女”と蔑まれ、施療院から締め出され、貧民街の隅で泥と汗にまみれてきた女だ。目の前の椅子ひとつですら、自分のために用意されたものとは思えなかった。
それでも、帰るわけにはいかない。
ユリウスはまだ熱の底から抜けきっていない。
今夜を越えられるかどうかは、これからの見守り方にかかっている。
控えていた侍女が、静かに口を開いた。
「奥様がまもなく参られます」
「ありがとうございます」
頭を下げると、侍女はわずかに戸惑ったような顔をした。
侯爵家に出入りする者は、使用人へいちいち礼を言わないのだろう。そんなことを考えているうちに、扉が開いた。
侯爵夫人が入ってくる。
先ほどまでより顔色は悪くない。だが目の下にはくっきりと疲労が残っていた。どれだけ眠れぬ時間を過ごしたのか、想像するまでもない。
夫人は席につくなり、まっすぐレティシアを見た。
「先ほどは……失礼をいたしました」
「いえ」
「礼を言わせてください。あの子が、自分から水を欲しがったのは今朝が初めてでした」
声が震えていた。
泣くのを堪えているのではない。やっと泣けるところまで戻ってきた声だ、とレティシアは思った。
「まだ油断はできません」
そう前置きしてから言う。
「ですが、先ほどより状態はよくなっています。息が少し深くなりましたし、口も乾ききってはいません。このまま少しずつ飲めるなら、体力が戻る見込みはあります」
夫人は胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。
「……本当に、あの部屋があれほど息苦しかったなんて、思いもしませんでした」
「長くいると、慣れてしまうことがあります」
「聖女様がおいでになっているのだから、万事正しいのだと……そう思い込んでいました」
その言葉には、自分を責める響きがあった。
レティシアは少し迷ってから口を開く。
「信じること自体は、悪いことではありません」
夫人が顔を上げる。
「誰かに縋りたい時はあります。特に、大切な人が苦しんでいる時は」
「では、私は間違っていなかったと?」
「いいえ」
レティシアは静かに首を振った。
「見なくてはいけないものを、見ないままにしてしまったのは、間違いです」
侯爵夫人は言葉を失った。
けれど怒りはしなかった。ただそのまま、膝の上で指を組み直す。
「……厳しいのですね」
「命に関わることですから」
前世でも、そうだった。
祈りや願いは人を支える。けれど、願うだけでは熱は下がらない。汚れた布を替えなければ悪くなる。飲めない者に少しずつ水を運ばなければ、衰弱は進む。見て、触れて、たしかめることから目を逸らした瞬間に、助かるものも助からなくなる。
その現実は、この世界でも変わらない。
侯爵夫人は、ゆっくりとうなずいた。
「では、教えてください。私は何を見ればよいのですか」
ようやく、その言葉が出た。
レティシアは少しだけ肩の力を抜く。
「まず、呼びかけにどれだけ反応できるかです。目を開けるのか、声を出せるのか、手を少しでも動かすのか」
「はい」
「次に、水です。どれくらい飲めたか。飲んだあとに吐かなかったか。無理に一度でたくさんではなく、少しずつ何度も」
「少しずつ……」
「汗も見てください。汗をかいたなら、濡れた寝間着や布を替える。熱いまま包み続けないこと。あとは息です。苦しそうに浅く速いか、少し落ち着いているか」
夫人は真剣に聞いていた。
机の上に紙を用意していたらしく、侍女に目配せすると、すぐに筆記具が運ばれてくる。
「書き留めても?」
「その方がいいです」
夫人は驚いたような顔をした。
「書き留める……?」
「はい。いつ、水をどれだけ飲めたか。いつ吐いたか、吐いていないか。熱っぽさが強い時間、少し眠れた時間。記録があれば変化が見えます」
「変化……」
「なんとなく見るのではなく、比べるためです」
夫人は紙へ視線を落とした。
その白い面に、これまでの看病で欠けていたものを見つけたようだった。
奇跡が起きたかどうかだけを待つのではなく、起きていることを自分の目で追う。
その発想自体が、この家にはなかったのだろう。
部屋の外で、控えめな足音が止まった。
次いで扉が叩かれる。
「奥様。旦那様がお見えです」
夫人の肩がわずかに強ばった。
「……お通しして」
入ってきたのは、四十代半ばほどの男だった。背が高く、痩せすぎても太りすぎてもいない。よく仕立てられた衣服を着ているが、顔つきは鋭く、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせるものがある。
侯爵、アルベルト・ヴァルハイン。
おそらくこの家で、最も多くのものを決める男だ。
彼はレティシアを見ると、露骨ではないにせよ値踏みするように目を細めた。
「君が、例の娘か」
噂で聞く女、くらいの意味だろう。
レティシアは立ち上がり、頭を下げる。
「レティシアと申します」
「聖女ではないのだな」
「ええ」
「だが、聖女であるエヴェリーナ殿に異を唱えた」
侯爵の声は静かだった。
だからこそ、重い。
夫人が口を挟む。
「あなた、先ほどは本当に――」
「マリア」
侯爵は妻を制した。
「私は事実を確かめている」
夫人は唇を引き結び、黙った。
レティシアはまっすぐ侯爵を見る。
「異を唱えたというより、足りないことを申し上げました」
「足りない?」
「はい。部屋の空気、水分、布の替え、見守りです」
「それで息子が助かると?」
「助かると断言はできません」
侯爵の眉がわずかに動く。
おそらくこの屋敷で、多くの者は彼に“できます”“問題ありません”としか言わない。言い切らない者は、無能か不敬のどちらかだと見なされる。
だがレティシアは続けた。
「ただ、何も変えなければ悪くなります。先ほどの部屋では、熱のある子どもを苦しめるものが多すぎました」
「聖女殿は静養に必要な環境だと言っていたが」
「その“静養”が、本当に楽になる形になっていたかを見ました」
侯爵は無言だった。
レティシアも黙らない。
「窓は閉じ切られ、香は強く、布は重く、水は減っていなかった。あれでは祈りがどうであれ、ユリウス様は弱ります」
「……見ただけで、そこまでわかるのか」
「見たからです」
夫人がはっとしたように顔を上げた。
侯爵も、そこで初めて少しだけ表情を変えた。
レティシアは静かに言葉を継ぐ。
「見えない穢れの話は、わたしにはわかりません。ですが、見えることならわかります」
乾いた唇。
減らない杯。
汗で濡れた寝間着。
淀んだ空気。
浅く速い呼吸。
「その子が苦しいのか、少し楽になったのか。水を飲めたのか、飲めなかったのか。見て、触れればわかることがあります」
侯爵はしばらく何も言わなかった。
やがて視線を妻へ向ける。
「ユリウスは、本当に水を欲しがったのか」
「ええ」
夫人は即座に答えた。
「わたくしも聞きました。自分の口で」
「それは、この娘が来てからだと」
「……はい」
侯爵の手が背もたれを軽く叩く。
その沈黙の意味を測りかねていると、再び扉が叩かれた。
今度は、先ほどより硬い音だった。
「旦那様。エヴェリーナ様がお見えです」
客間の空気が変わる。
侯爵は短く言った。
「通せ」
扉が開き、エヴェリーナが入ってきた。
先ほどの部屋を去った時よりも、表情は整えられている。だが、その整い方がかえって冷たかった。彼女は侯爵へ優雅に一礼する。
「突然の訪問をお許しください、侯爵閣下」
「用件は」
「この家のご子息についてです」
そのまま、レティシアへ視線を向ける。
「そして、そちらの娘についても」
侯爵は椅子に腰を下ろしたまま、続きを促した。
「申してみよ」
「わたくしは教会の名代として参っております。にもかかわらず、正規の許可もない娘が施療へ口を出し、しかも聖なる奇跡を疑わせる振る舞いをした。これは看過できません」
夫人が顔をしかめる。
だがエヴェリーナは止まらなかった。
「閣下。熱病に苦しむお子を前に、窓を開けよ、水を飲ませよ、布を替えよ――そのようなことは、ただの下働きでも申せます。聖女の役目とは次元が違うのです」
レティシアは黙って聞いていた。
そう言われることは、予想していた。
地味で、誰でも思いつきそうで、奇跡のような華やかさがない。だから見下される。だが、見下されたものほど現場では欠かせないと、もう知っている。
侯爵が言う。
「では聖女の役目とは何だ」
「穢れを祓い、神意を通じて病を癒やすことです」
「息子の熱は三日下がらなかったが」
その一言に、夫人が息を呑んだ。
エヴェリーナの顔から一瞬だけ余裕が消える。
「……病が深いのです。時に奇跡にも順序がございます」
「ならば、その順序の間に息子が死ねば、それは誰の責任だ」
静かな声だった。
だが先ほどまでとは違う、刃のついた静けさだ。
エヴェリーナは言葉に詰まった。
「それは……そのような不吉なことを」
「不吉かどうかを問うているのではない」
侯爵は冷ややかに言った。
「起きうることを聞いている」
沈黙が落ちる。
レティシアはそこで初めて、この男がただ権威に弱いだけの貴族ではないと知った。彼は感情より先に結果を見る。だからこそ、奇跡が効かなかった現実を、そのまま放置できない。
エヴェリーナは立て直すように言った。
「閣下。見えることだけで病を測るのは危険です。神の加護は目には映りません」
「だろうな」
侯爵は頷いた。
「では問おう。目に映らぬ加護と、目に映る変化。今、信じるに足るのはどちらだ」
エヴェリーナの唇がきつく結ばれる。
レティシアは息を止めるような思いで、そのやり取りを見ていた。
侯爵は椅子から立ち上がった。
その視線はまっすぐエヴェリーナへ向いている。
「私は奇跡を否定する気はない。だが、息子が水を飲めるようになった事実も否定せん」
「閣下……」
「見えぬものを語るのは自由だ」
侯爵の声は低い。
「だが、見えていることを無視する者に、我が家の命を預けるつもりはない」
部屋の空気が、完全に変わった。
夫人が目を見開き、侍女たちは顔を伏せる。
エヴェリーナの頬がわずかに紅潮する。
「それは……教会への不信と取られても仕方のないお言葉です」
「ならば、そう取ればいい」
侯爵は一歩も退かなかった。
「私は父親として判断する」
その場で最も強い権威が、奇跡だけでは足りないと認めた。
その意味は大きい。
レティシアでさえ、胸の奥が強く脈打つのを止められなかった。
エヴェリーナはゆっくりとレティシアを見た。
その目には怒りだけではなく、明確な敵意が宿っていた。
「……よくわかりました」
声だけは美しいままだった。
「ですが、閣下。後悔なさらぬことです。教会は、神意を軽んじる振る舞いを忘れません」
そう言い残し、彼女は一礼して客間を去った。
扉が閉まる。
しばらく誰も口を開かなかった。
最初に息をついたのは侯爵だった。
「面倒なことになったな」
夫人が不安そうに言う。
「あなた……」
「わかっている」
侯爵は妻を見てから、レティシアに向き直った。
「君にも迷惑をかけるだろう」
「それでも、ここを離れるつもりはありません」
思ったよりもはっきりした声が出た。
侯爵は少し意外そうに目を細める。
「なぜだ」
レティシアは答える。
「ユリウス様がまだ苦しんでいるからです」
それだけだった。
立派な理屈でも、大きな志でもない。けれどそれが、レティシアにとっては一番確かな理由だった。
侯爵は数秒黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
その言葉に、夫人が顔を上げる。
「レティシア。しばらく息子の看病にあたってもらう」
「承知しました」
「必要なものがあれば侍女頭に言え。記録も取るといい。人手が足りぬなら出す」
「ありがとうございます」
「礼は、息子が持ち直してからでいい」
侯爵はそう言って踵を返した。
去っていく背中を見送りながら、レティシアは強く手を握る。
ここで一つ、立場が変わった。
ただの噂の女ではない。侯爵家が、目の前の命のために選んだ者になったのだ。
だが同時に、教会にとってはより目障りな存在になった。
夫人が静かに言う。
「……怖いですか」
レティシアは少し考えてから頷いた。
「はい」
嘘はつけなかった。
「でも、怖いからといって見ないふりはできません」
夫人は、泣きそうな顔で笑った。
「あなたは、本当に不思議な方ね」
「よく言われます」
そんな軽口を返しながら、レティシアは心の奥で次の波を感じていた。
エヴェリーナは引かない。
教会も、黙っていない。
侯爵家の中で起きたこの小さな逆転は、もう屋敷の外へ漏れていく。誰が本当に“見えている”のか。その問いは、やがてもっと多くの場所で突きつけられるはずだ。
そしてその時、レティシアはもう後戻りできない。
客間の窓の外では、薄曇りの空の下で庭師が枝を払っていた。
いらないものを切り落とし、風の通り道を作るように。
レティシアは立ち上がる。
「ユリウス様のところへ戻ります」
夫人も立ち上がった。
「ええ。一緒に参りましょう」
ふたりは並んで客間を出る。
豪奢な廊下の先には、まだ熱にうなされる少年がいる。だがもう、ただ祈るだけの部屋ではない。
見て、触れて、記して、変えていく部屋だ。
その一歩が、静かに、確かに、この家の常識を塗り替え始めていた。




