第十話 祈る前に、部屋を開けてください
重たい沈黙が、部屋の空気そのものを濁らせていた。
分厚いカーテンは昼だというのに固く閉ざされ、窓も塞がれている。香炉で焚かれた強い香が鼻につき、熱と汗と湿った布の匂いが、その奥にこびりついていた。天蓋付きの大きな寝台の上では、少年が浅い息を繰り返している。
額は熱い。
けれど顔色は悪く、唇は乾いてひび割れていた。
侯爵家の嫡男、ユリウス。
まだ十歳だと聞いた。
その枕元では、白金の刺繍をまとった上級聖女エヴェリーナが、静かに両手を組んでいた。祈りの姿勢は美しく、控える侍女たちも息を呑んで見守っている。傍らには侯爵夫人が立ち、青ざめた顔で息子を見つめていた。
レティシアは部屋へ足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。
暑い。
空気が、死んでいる。
ここは病人を休ませる部屋ではない。弱った身体を閉じ込めて、じわじわと奪っていく箱だ。
エヴェリーナが振り向いた。
その目には驚きより先に、不快感が浮かんでいた。
「……どうしてあなたがここにいるのかしら」
冷えた声だった。
侯爵夫人が、はっとしたように身じろぎする。
「わたくしが呼びました」
夫人は震える声で言った。
「街で……あなたのことを聞いたのです。貧民街で熱病の者を救っていると。教会の施療院を離れたあとも、なお人を助けていると」
エヴェリーナの目が細くなる。
「噂にすがられるお気持ちは理解します。ですが、病を癒やすのは聖なる奇跡です。素人の手出しは、かえって坊ちゃまを危険にさらします」
レティシアは返事の前に、寝台へ近づいた。
止めようとした侍女がいたが、夫人が手で制した。
ユリウスの息は浅く速い。首筋には汗が滲み、髪が張りついている。掛け布団は厚すぎた。喉は鳴っていないが、口はわずかに開き、苦しそうに乾いた息をしている。
寝台の脇には銀の杯が置かれていた。ほとんど減っていない。
「いつから、水を飲めていませんか」
レティシアは夫人に尋ねた。
「昨夜から、ほとんど……。飲ませようとしても、すぐに嫌がって」
「吐いてはおりませんか」
「少しだけ。朝に一度」
「お小水は」
夫人は言葉を詰まらせ、侍女のひとりを見た。若い侍女が怯えたように答える。
「朝から……ほんの少ししか」
やはり、とレティシアは思った。
熱に苦しんでいるだけではない。弱りきった身体が、水も空気も足りないまま耐えさせられている。
エヴェリーナが、わずかに苛立った声音で言った。
「そのような細かいことに何の意味が? 熱は穢れです。奇跡で祓えばよいのです」
「その奇跡で、熱は下がりましたか」
レティシアは振り向かずに言った。
部屋の空気が、一瞬で凍る。
侍女たちが青ざめた。
無礼だと叱責されてもおかしくない。けれどレティシアは、少年の額から手を離さなかった。
侯爵夫人が、かすれた声で口を開く。
「……三日です」
レティシアは顔を上げた。
「え?」
「エヴェリーナ様は、三日前から毎日いらしてくださっております。でも、ユリウスの熱は下がらないのです。眠るばかりで、水も飲めず……今日は朝から呼びかけにも、ほとんど答えなくて……」
最後の言葉は泣き声に崩れた。
エヴェリーナは悔しさを隠すように、声を張った。
「奇跡は万能ではありません。穢れが深ければ、時に時間もかかります。だからこそ静養と祈りが必要なのです」
レティシアは部屋を見回した。
閉めきられた窓。
重たい天蓋。
厚い掛け布団。
焚き続けられる香。
そして、息苦しいほどに淀んだ空気。
「祈る前に」
レティシアは静かに言った。
「部屋を開けてください」
その場にいた全員が、意味を理解できないように黙った。
「……何ですって?」
エヴェリーナが笑った。だが目は笑っていなかった。
「窓を開ける? 病人を冷たい風に当てるおつもり? 正気ですの?」
「空気が悪すぎます。香も強い。熱のある子どもを、こんな場所に閉じ込めては駄目です」
「病人は弱っているのです。風など入れれば、さらに具合を悪くします」
「このままでも悪くなります」
レティシアははっきり言った。
「暑すぎるんです。重ねすぎた布も、こもった匂いも、飲めないほど乾いた口も、全部この子を苦しめている。まず空気を入れ替えてください。掛け布団は薄いものに替える。汗で濡れた寝間着も替える。口を湿らせて、少しずつでも水を飲ませる。それが先です」
「無礼者!」
エヴェリーナの鋭い声が響いた。
「奇跡より先に侍女働きをしろと言うの? あなたは聖なる癒やしを侮辱しているわ!」
レティシアも引かなかった。
「侮辱していません。足りないと言っているだけです」
その言葉に、夫人が息を呑んだ。
レティシアは侯爵夫人へ向き直る。
「奥様。お願いです。今だけでいい。わたしにやらせてください」
夫人の指先が、ぎゅっとドレスを握る。
「もし……もし悪くなったら」
「その時は、わたしが責任を取ります」
「責任?」
エヴェリーナが吐き捨てた。
「あなたに、この家で何の責任が取れるというの」
レティシアは答えなかった。
代わりに、じっと夫人を見る。
選ぶのは、この母親だ。
奇跡が効かないまま三日が過ぎた。祈りを重ねても少年は弱っていく。その現実を前にして、それでも今まで通りを続けるのか。
長い数秒ののち。
侯爵夫人は、震える声で言った。
「……窓を、開けて」
侍女たちがざわめいた。
「奥様……!」
「開けなさい!」
半ば悲鳴のような命令だった。
ふたりの侍女が慌てて窓へ走る。留め金が外され、重い窓が押し開かれた。春先の冷たいが澄んだ風が、一気に部屋へ流れ込む。
香の匂いが散る。
淀んだ熱が押し出される。
レティシアはその変化を肌で感じた。
「香炉を止めてください。火も遠ざけて」
「そんな……」
「早く」
侯爵夫人の声に、侍女たちは慌てて香炉を下げた。
「掛け布団は一枚外します。汗を拭くための乾いた布を。あと、ぬるい水を。冷たすぎないものを持ってきてください」
「ぬるい水……?」
「はい。少しずつ口に含ませます。いきなりたくさんは駄目です」
指示を受けた侍女たちが走る。
エヴェリーナだけが、その場に取り残されたように立っていた。
「馬鹿げているわ」
彼女は低く言った。
「こんなことで、奇跡に届かぬ病がどうにかなるはずがない」
「どうにかするんじゃありません」
レティシアは少年の枕元へ膝をついた。
「どうにかなるための土台を戻すんです」
乾いた布が届く。
レティシアは侍女の手を借りて、ユリウスの汗をそっと拭いた。首筋、額、手のひら。べったりと湿っていた肌から熱が逃げる。濡れた寝間着も替えさせ、重ねられていた毛布を減らす。
少年の苦しげな顔が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「唇を湿らせます」
銀の匙にほんの少しだけ水を取る。
まず口元へ。乾ききった唇に水分を含ませる。次に、ごく少量を口へ流す。
最初は反応がなかった。
だが二度、三度と続けるうち、少年の喉が小さく動いた。
侍女のひとりが、はっと息を呑む。
「……飲まれました」
夫人が両手で口元を覆った。
「ユリウス……」
「まだ少しです」
レティシアは慎重に言う。
「焦って一度に飲ませないでください。ほんの少しずつ、何度も。喉が動いたらまた少し。嫌がったら無理には押し込まない」
夫人は涙ぐみながら何度も頷いた。
エヴェリーナが、信じられないものを見るように少年を見つめていた。
「偶然よ」
彼女は言った。
「ただ、たまたま今飲めただけ」
「そうかもしれません」
レティシアは素直に答えた。
「でも、その偶然を待つための環境を整えることはできます」
部屋の空気はもう先ほどとは違っていた。
風が薄いカーテンを揺らし、熱気を追い出している。侍女たちの顔にもわずかに血色が戻っていた。誰もが少年だけでなく、自分たちもこの部屋の苦しさに慣れすぎていたのだと気づき始めている。
レティシアは寝台の横に置かれた花瓶へ視線を向けた。
水は濁り、花は傷んでいた。
「この部屋の水は毎日替えてください。使う布も、濡れて汚れたら替える。病人のそばに長く置いた食べ物は下げる。人の出入りも減らして、静かに休ませてください」
侍女たちが真剣な顔で聞いている。
もう誰も、レティシアをただの無礼な余所者として見ていなかった。
侯爵夫人がおそるおそる尋ねる。
「……助かるのでしょうか」
レティシアは答えを急がなかった。
簡単に大丈夫だと言ってはいけない。
それは前世でも、この世界でも同じだ。
「まだわかりません」
正直にそう言う。
「ですが、このまま何も変えないよりは、ずっといいです」
夫人は泣きながら頷いた。
その時だった。
寝台の上の少年のまぶたが、わずかに震えた。
「……みず……」
かすれた、小さな声。
一瞬、全員が固まった。
「ユリウス!」
侯爵夫人が身を乗り出す。
レティシアはすぐに匙を手に取り、落ち着いた声で言った。
「慌てないでください。少しずつです」
少年の唇へ、またひと匙。
今度は先ほどよりもはっきりと喉が動く。
夫人の頬を涙が伝った。
侍女たちの目にも明らかな安堵が浮かぶ。
エヴェリーナだけが、色を失って立ち尽くしていた。
奇跡では届かなかった場所に、風と水と布が先に届いた。
その事実はあまりに地味で、けれどあまりに残酷だった。
レティシアは立ち上がり、侯爵夫人に向き直る。
「今夜が大事です。飲めた量、吐いたかどうか、汗のかき方、呼びかけにどれだけ反応するか。全部、見てください」
「わ、わかりました」
「わからないことがあれば、すぐ呼んでください。祈りを否定するつもりはありません。でも、見て、触れて、整えることをやめないでください」
夫人は深く頷いた。
その目には、三日前から失われていたものが戻り始めていた。
希望だ。
エヴェリーナが、ようやく口を開く。
「……侯爵夫人」
けれどその声には、先ほどまでの強さがなかった。
「この女のやり方は、教会の教えに背くおそれがあります」
夫人はゆっくりと振り返った。
涙で濡れたままの顔で、それでもはっきりと言う。
「わたくしの息子は、今この子です」
短い言葉だった。
だがそこにあった拒絶は、あまりに明白だった。
エヴェリーナの唇が震える。
彼女は何か言い返そうとしたが、結局言葉にならなかった。裾を翻して踵を返し、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静けさの中で、少年の呼吸はまだ苦しげだった。けれど、さっきよりも少しだけ深い。
レティシアは胸の奥で息を吐いた。
ここで終わりではない。
むしろ始まりだ。
上級聖女の奇跡が効かなかった少年に、自分のやり方が届いてしまった。その意味を、教会が見逃すはずがない。
侯爵夫人が、震える声で言った。
「レティシア様」
様付けだった。
ほんの少し前まで、得体の知れない噂の女として呼びつけられたにすぎないのに。
「どうか……どうか、この子を助けてください」
レティシアは寝台の少年を見つめ、それから夫人へ頷いた。
「最善を尽くします」
その返事は、祈りの言葉よりずっと静かだった。
けれど確かに、この部屋の空気を変えた。
そして侯爵家の一室で起きたこの小さな変化は、やがて教会そのものを揺るがす火種になっていく。




