第一話 その子は、奇跡では救えない
泣き声が、途中で途切れた。
地方教会の施療院は、今日も人であふれていた。
石造りの薄暗い部屋に、咳、うめき声、祈りの言葉が重なっている。湿った布のにおいと、人いきれと、薬草を煮た青臭い湯気が混ざり合い、息を吸うだけで胸が重くなるようだった。
「聖女様、どうか、この子を……!」
ひび割れた声でそう叫んだ女が、痩せた腕に抱いていたのは、四つか五つほどの小さな子どもだった。
赤いはずの頬は熱のせいでまだらに染まり、唇は乾いて白い。細い胸が浅く、速く上下している。母親の肩口にしがみついていたはずの手にも、もう力が入っていなかった。
その子を見た瞬間、レティシアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「エヴェリーナ様をお呼びしなさい!」
施療院を取り仕切る修道女が叫ぶ。
周囲の視線が一斉に奥の扉へ向いた。
ほどなくして、白銀の刺繍が入った法衣をまとった女が姿を見せる。
この地方教会で最も強い回復魔法を使う上級聖女、エヴェリーナだった。
「下がって。ここからは私が診ます」
涼やかな声だった。
母親は泣きながら何度も頭を下げ、床に膝をつく。周囲もまた、安堵したように胸の前で手を組んだ。
これで助かる。
聖女様なら大丈夫。
そんな空気が、何の疑いもなく場を満たしていく。
レティシアだけが、その空気の中でひとり、子どもから目を離せなかった。
額に浮かぶ汗。
乾いた唇。
頬に触れた母親の指先に残るぬるい熱。
手首の細さ。
足元に置かれた桶の中に残る、水のように薄い吐瀉と汚れた布。
──違う。
胸の奥で、言葉になる前の違和感が脈を打った。
エヴェリーナが両手をかざし、澄んだ祈りの言葉を唱える。
白い光が子どもの身体を包んだ。
おお、と、誰かが感嘆の声を漏らした。
光が消える。
子どもの苦しげな息が一瞬だけ弱まった。母親が顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「ありがとうございます、ありがとうございます、聖女様……!」
「まだ油断はなりませんが、神のご加護は届いています」
エヴェリーナは穏やかに微笑んだ。
その姿は、この場にいる誰の目にも神々しく映っただろう。
けれどレティシアには分かった。
ほんの一瞬、子どもの表情が緩んだだけだ。呼吸は浅いまま。まぶたの裏で目が落ち着きなく揺れ、乾いた唇はわずかに割れている。頬に赤みはあっても、それは元気の色ではない。
このままでは、また悪くなる。
そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「……足りません」
しん、と空気が止まった。
自分でも、声が出てから気づいたくらいだった。
それでも、もう引っ込めることはできなかった。
「何か言いましたか、レティシア?」
エヴェリーナがゆっくりと振り返る。
薄く笑ってはいたが、その目には冷えた光があった。
レティシアは唇を引き結ぶ。
言えば、面倒になる。分かっている。けれど、目の前の子どもを見てしまった以上、黙っている方がもっと嫌だった。
「その子には、祈りだけでは足りません」
周囲がざわついた。
修道女が息を呑み、母親はきょとんとした顔でレティシアを見る。
「水分を取れていないはずです。布も汚れていますし、休ませる場所も必要です。ここは人が多すぎます。せめて別の部屋へ──」
「黙りなさい」
ぴしゃり、とエヴェリーナが言い放った。
その一言で、場の空気はたちまち凍りついた。
「回復魔法の場で、あなたが口を挟むのですか?」
「ですが……」
「あなたに何が分かるというの?」
冷たい声だった。
それでも表情だけは優しいままなのが、かえって恐ろしい。
「まともな奇跡も起こせないあなたが」
その言葉に、何人かが気まずそうに視線を逸らした。
レティシアがこの教会で何と呼ばれているかを、皆知っている。
──偽物聖女。
回復魔法を使えないわけではない。小さな切り傷や、軽い痛みなら癒せる。けれど、人々が聖女に期待するような“奇跡”には程遠い。光が溢れ、病が消え、誰もが跪いて感謝する、ああいう分かりやすい奇跡は起こせない。
だから、レティシアはいつも半端者だった。
「その子は神のご加護の下にあります。余計な不安を与えるような真似はやめなさい」
エヴェリーナはそう告げると、母親に向かって優しく頷いた。
「よく祈りなさい。神は必ず見ておられます」
「は、はい……!」
母親は再び涙を流し、何度も頭を下げた。
その姿を見て、レティシアは何も言えなくなる。
言葉を重ねれば、この母親を余計に怯えさせるだけだ。今ここで無理に争っても、子どもが楽になるわけではない。
けれど。
レティシアの目は、母親の抱く子どもの顔から離れなかった。
乾いた唇。
浅い呼吸。
力のない手。
そして、床に落ちた布ににじんだ汚れ。
──嫌な予感が、消えない。
その夜、施療院の仕事を終えて雑務の片づけをしていたレティシアの耳に、慌ただしい足音が飛び込んできた。
「昼の子が、また……!」
誰かの叫び声に、レティシアは顔を上げた。
反射的に駆け出す。
止める声も聞こえたが、足は止まらなかった。
薄暗い廊下の先、昼間の母親が小部屋の前で泣き崩れていた。
部屋の中には、熱で顔を真っ赤にした子どもがぐったりと横たわっている。昼間よりもさらに呼吸が速い。口元は乾ききり、濡らされた布が額に置かれていたが、もうぬるくなっていた。
「聖女様は……!?」
「今はお休みです、起こすわけには──」
修道女たちが戸惑っている。
その言葉を聞いた瞬間、レティシアの中で、何かがぶつりと切れた。
起こすわけにはいかない?
この子は今にも息が途切れそうなのに?
喉の奥が焼けるように熱くなる。
それと同時に、視界の奥で別の景色がちらついた。
狭い診療室。
白い壁。
消毒液のにおい。
汗で濡れた子どもの額。
焦った母親の声。
何度も見たはずの、でも忘れていた光景。
──そうだ。
胸の奥深くに沈んでいた記憶が、一気に浮かび上がる。
町の診療所。
小さな待合室。
泣く子ども。
咳き込む老人。
食べられなくなった人、飲めなくなった人、暑さで倒れた人。
派手な奇跡なんてひとつもない場所で、それでも少しでも悪くならないように、手を洗い、話を聞き、飲めるものを探し、休ませ、家族に説明していた日々。
名医ではなかった。
英雄でもなかった。
ただ、町の小さな診療所で働く、ごく普通の医療者だった。
それでも知っている。
こういう子どもに必要なのは、祈りだけではない。
「水を」
気がつけば、レティシアはそう言っていた。
「え?」
「清潔な水を持ってきてください。あと、できれば布を何枚か。新しいものがなければ、せめてまだ汚れていないものを。熱い湯も欲しいです」
修道女たちがぽかんとした顔をする。
レティシアは構わず、子どものそばに膝をついた。
「あなた、何を──」
「このままでは危ないです」
母親が、はっと顔を上げた。
「た、助かるんですか……!?」
その問いに、レティシアはすぐには答えられなかった。
助かる、と軽々しく言える状態ではない。けれど、まだ終わっていないとも思った。
「分かりません。でも、今より悪くしないためにできることはあります」
母親の瞳に、すがるような光が宿る。
レティシアは子どもの頬にそっと触れた。熱い。
それでも手足は妙に冷たい。
「部屋の窓を少し開けてください。人は、少ない方がいいです。お母さんと、布を替えるのを手伝ってくれる人だけ残って」
「で、ですが、夜風は身体に障ります」
「こもった空気の方がよくありません」
我ながら、不思議なくらい言葉が淀みなく出てきた。
記憶が戻ったからだろう。頭の中で、昔聞いた声や、自分が何度もしてきた動きが自然につながっていく。
運ばれてきた水を見て、レティシアは眉をひそめた。
濁ってはいないが、清潔とも言い切れない。
「湯はまだ?」
「い、今……!」
「少し冷ましてから使います。布は新しく。だめなら湯でよく洗って」
母親は泣きながら何度も頷いた。
汚れた布を外し、肌を軽く拭く。
びっしょりと汗を吸った着衣も少し緩める。
唇を湿らせ、ほんの少しずつ水を含ませる。むせないか、飲み込めるかを確かめながら、焦らず、ほんの少しずつ。
全部が正しいとは限らない。
ここは前世の診療所ではなく、道具も薬も足りない。目の前の症状が何に由来するのか、断言もできない。
それでも、何もしないよりはいい。少なくとも、汚れた布のまま暑い部屋に寝かせて、祈りだけで朝を待つよりは。
「……お願い、飲んで」
自分でも驚くほど切実な声が漏れた。
子どもの喉が、かすかに動く。
ほんのわずかだが、水を受け入れた。
母親が息を呑んだ。
「もう一度。少しだけ」
レティシアはそう言って、慎重に唇を湿らせる。
何度か繰り返すうちに、荒かった呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いたように見えた。
それが気のせいでないと分かったのは、夜が明けはじめたころだった。
「目を……開けた……!」
母親が震える声で言う。
子どものまぶたが、薄く持ち上がっていた。まだぼんやりとしてはいるが、昨夜のような危うさは少し引いている。呼吸も、完全ではないにせよ、いくらか穏やかになっていた。
助かった、と言うにはまだ早い。
それでも、生きている。朝まで持った。
昨夜のままなら、それすら危うかったはずだ。
母親がその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「ありがとうございます……っ、ありがとうございます……!」
レティシアは息を吐いた。張りつめていた肩の力が少しだけ抜ける。
だが、その安堵はすぐに冷たい声で断ち切られた。
「何をしているのです、レティシア」
扉のところに、エヴェリーナが立っていた。
その隣には司祭マルグスまでいる。
朝の光が差し込む中で、二人の顔だけが妙に暗く見えた。
「無断で施療に介入したのですか?」
司祭の声には怒りがにじんでいる。
母親が慌てて立ち上がった。 「ち、違うんです、この方が、この方がうちの子を……!」
「黙りなさい」
マルグスは母親を制し、レティシアを見下ろした。
「聖女の奇跡を疑わせる真似をした上、夜の施療に勝手に手を出すとは。規律を乱す行為です」
レティシアは立ち上がった。
疲れ切った身体は重かったが、目だけは逸らさない。
「規律より、この子の命が先です」
「それを決めるのはあなたではない」
エヴェリーナが静かに言う。
その声は小さいのに、刃のように冷たかった。
「あなたのしたことは、神の奇跡に泥を塗る行為です。奇跡が効かなかったかのように見せかけて、自分の手柄にするなんて」
「そんなつもりはありません」
「では何のつもり?」
レティシアは一瞬、言葉に詰まる。
手柄なんて欲しくなかった。
ただ、この子が死ぬのを見たくなかっただけだ。
けれど、その理由はこの人たちには届かないだろう。
奇跡だけが正しい世界で、奇跡の外にある手当ては、認められてはいけないのだ。
マルグスが告げる。
「レティシア。今日からあなたを施療院の務めから外します。しばらくは記録整理と雑務に回りなさい。これ以上、勝手な行動は許しません」
母親が青ざめる。 「そ、そんな……!」
けれど、レティシアはもう驚かなかった。
代わりに、胸の奥に静かな熱が灯っていた。
この子は、奇跡だけでは救えなかった。
そして、同じように切り捨てられている命が、きっと他にもある。
なら。
「……分かりました」
そう答えた声は、自分でも不思議なくらい穏やかだった。
偽物聖女。
好きに呼べばいい。
けれど、もし奇跡で救えない命があるのなら。
もし、その命を前にしても、この場所が祈ることしか選ばないのなら。
──私は、私のやり方で救う。
誰に許されなくても。
誰に蔑まれても。
その決意だけが、夜明けの冷たい空気の中で、確かにレティシアの胸に根を下ろしていた。
ぜひ評価とブクマお願いします




