因果
「お客様、落ち着いてください」
俺は混乱したまま男性の顔を見つめ返す。
「お客様、何か“見られ”ましたか?」
「え……」
「冷静にお答えください、もう一度お聞きします。何か“見られ”ましたか?」
眼鏡越しの男性の目はとても真剣だった。そして冷静だった。
「目が……、目を……、見たんです。山に移る……不気味な……、目を」
息が上がりながら俺は自分でも驚くほど正直に答えてしまっていた。こんな妄言信じてもらえるはずもない。自分でも何を言っているのか分からない。
「……そうですか」
男性の声ははっきりとそう言った。驚いた様子もなく、かといって俺を疑う様子もない。声色にはある種の諦念のようなものが籠っていた。
「見られたんですね。あの“目”を」
男性は俺の体を真っ直ぐに立たせて言った。
「こちらへどうぞ」
男性はフロントの奥へと手招きした。
「もう何も追ってきてはいません、今夜はここで一夜明かしてください。明日あの目についてお話しできることを全てお話します」
「え……、なんなんですか、あれは。どういう……ことですか」
男性はすぐさま言い返した。
「一度お休みになられた方がよろしいかと思います。パニックのままではまたあれに目をつけられるかもしれませんから」
そういって男性は再度手招きをする。もうこの時の俺には説得を断るほどの度胸と体力はなかった。
しずしずと手招きされる方へ進むとフロントの奥には小さな小部屋があった。
「ここは仮眠室です。本来はスタッフや仲居が寝るための部屋です。少々手狭ですがご勘弁ください。私は明日までフロントにおりますからもし何かあればどうぞお呼びつけください。しかし、なるべく早く寝られて一度朝を迎えられた方がよろしいかと思います」
そういいながら男性はテキパキと箪笥から布団を出し床に敷く。あまりに急なことで俺は再び混乱の最中にいた。
「さっきのは……、というかここで寝るんですか?いや、友人たちは……」
「ご友人の方々はおそらく無事だと思われます、ここまで走って逃げてこられたのが佐藤様だけですので。そして細かいことは全て明日お話します。ですからどうか、一刻も早くお眠りください。お疲れでしょうから」
「ええっと……」
過度に丁寧な言葉遣いと対応が逆に不気味に思える。もはや何を信じればいいか俺には分からなかった。しかし男性の言葉の通り一刻も早く眠りたいのはやまやまだった。全身がひどく疲れ頭はまだ割れるように痛む。
「では、おやすみなさいませ」
ガチャン
そういって男性は部屋から出ていってしまった。部屋には俺一人分の敷かれた布団。それだけしかない本当に仮眠するためだけの部屋だった。
「はあ……」
俺は立ち尽くしていた。どういうことなのか何も分からない。俺は混乱の極致にいた。カチカチと鳴る時計の秒針の音だけが無音の部屋に大きく響いていた。
三十分は経っただろうか。呆然と立ち尽くしていた俺はゆっくりと布団に入る。電気は何となく消したくなかった。もう、暗闇を見たくなかった。
蒲団の中で俺は割れるように痛む頭で考え事をしていた。一刻も早く眠りたいのはもちろんなのだがさきほどの衝撃的な出来事の数々が俺を眠りから遠ざけた。
あの目は?太田や長嶋や石田は?大浴場で見た目は何だ?太田の顔はどこへ?なぜ目が赤いんだ?俺は無事なのか?男性は何者なんだ?これは夢か幻かそれとも現実か?
頭の中で疑問が生まれては消え生まれては消えを繰り返している。全身は今にも砕けそうなほど痛むのに眠りには落ちられない。今何時だ。夜明けまで一体何時間こうしていればいいのか。
その後もしばらく思考していたが俺の意識の糸はある時突然切れた。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……
「はっ……」
頭の中であの不気味な音が鳴り響いて目を覚ます。消さずに寝た電気から放たれた人工的な光が俺の網膜を強く焼く。
今何時だ。ここどこだっけ。今の音は……、
一瞬にして能がフル回転する感覚に俺は強烈な気持ち悪さを覚える。頭の中を支配していた何かがすっぽりと抜け、その部分に情報の濁流が流れ込む。そうだ、俺は昨日旅行に来て、それから何かを山で見つけて、それから……。
大浴場で山にあの不気味な目を再び見て部屋に戻ったら目の化け物になった太田が襲い掛かってきて……。思い出している途中でさらに気持ち悪くなる。ゆっくりと布団から這い出てトイレを探しに出かけるために部屋を出た。
「お目覚めですか?」
男性が声をかけてきた。確か一晩起きていると言っていたがその割に声には眠気など一切感じさせない凛とした声だった。
「あ……、トイレ……どこすか」
「そのまま奥に進まれればございます」
言われるがまま手の指す方を見ると扉があった。
「ありがとうございます」
そういって俺はトイレに向かった。
「おえっ……うっ……がっ……」
胃すら飛び出るのではないかというほど俺は吐いた。まだ頭に昨日の頭痛が少し残っている。俺は酒に強くないとはいえここまで酔うほど飲んでいない。昨日のあの化け物の件が原因なのは明らかだった。既に疲弊した俺がトイレから出ると男性がこちらを向いて立っていた。
「おはようございます、佐藤様」
「ああ……、おはよう……ございます」
「昨日恐らく佐藤様の身に起こったことについて館長自らご説明されますので部屋にお戻りください。私も同席いたします」
仮眠室に戻ると布団は既に片付けられており部屋の隅に強面の初老の男性がいた。この人が館長さんだろうか。
「佐藤様ですね、昨日はご迷惑おかけしました」
館長の声は老人特有の掠れたものでなかなかに聞き取りづらかった。
「お座りください」
男性が座布団を指し示す。館長は畳の上に座っていた。男性はどうやら同席すると言っておきながら部屋の扉の前に立ったままだ。一人だけ客扱いなことに若干の気まずさを覚えながら俺は男性の指示に従い一人座布団の上に座った。
「佐藤様は昨日山に“目”を見られたそうですが、それは本当ですか?」
館長は低くゆっくりとした口調で話し始めた。
「ええ……。誰も信じてくれませんが、俺は、私は確実に見たんです……。山の中にぽっかりと浮かぶ目を。深淵のような黒目に雪のような白目をした山に浮かぶ目を。友人たちは誰も、信じてくれませんでしたが……。あれは……あの目は一体何なんです?」
館長は一人頷きながら俺の質問に答え始める。
「何なのか?と言われてもそれは私たちにも正確には分かりません。恐らくこうではないかという仮説があるだけです。あれは“山ノ目”。そのままの名前ですが私たちはそう呼んでおります。正体は恐らくですが山岳信仰から生まれた山の神ではないかと思われます」
「山の……神?」
随分と大仰な単語が出てきたことに俺は若干困惑する。
「一つずつ説明させていただきます。ええ、あれは恐らく森や山や自然といったそういったものを崇拝する気持ちから生まれた山の神。かつての人々が山を崇めたその残滓」
館長は息を大きく吸い込んで、吐いた。
「少し昔話をさせていただきます。長話になりますがどうか最後までお付き合いください」
そして館長は目を閉じて語り始める。
「ここはかつて小さな農村でした。そしてその村では周囲の山からの恵みで自給自足に近い生活を行っていたそうです。木を切り出したり生活資材を調達したりとね。そして当然、食料も含めて。ですから村の人々は山に対してありがたみを感じるようになったのです。
「そこからこの地では山岳信仰が始まるようになったと言われています。山の恵みで生きているからこそ山に感謝し拝しそして慈しむ。その結果この地では山岳信仰鵜が深まり山に神を見るようになったわけです。そして段々時間が経つにつれその小さな農村に人が集まり、小さな町になったのです。するともともとこの地にはいなかった方も多くいらっしゃることになりますね。そうなるとだんだんとその過程で土着信仰といった古臭いものは忘れられていきます」
天を仰ぐようにしながら館長は話を続けた。
「この地は発展を遂げました。周囲の農村と合併し段々と大きくなりやがて一つの小さな町になりました。猪後です。今の地名ですね。様々な場所から人が来る、生活様式が変わる。それにより信仰は途絶えてしまいました。するとそれを面白く思わないものがいますよね。それが山の神です。かつては信仰され崇められた神も信仰されなくなり自身の肉体であるところの山を切り開かれ感謝すらされない。かつては山の動物たちも殺されていたのに。そういったことに不満を立てるのはある種当然と言えます。これは完全に私たち人間の落ち度です。発展を求めるばかりもっと重要なことを忘れてしまった。結果的に山の神は変容したのだと思います。神から悪神へと」
「悪神……」
「ええ、それが佐藤様の見られた山ノ目の正体であると思います。悪神となったかつての山の神の怒りに満ちた悪意。それが山の中に目となって具現化するのです。どうやらあの目を見てしまった人はあれに取り憑かれたようになってしまうのです。先代の頃から何人かのお客様が山に目を見たと発狂されたことがあると聞いたことがあります」
「神の怒り、それがあの目……」
「実は私も過去に一度見たことがあります」
「館長さんも?」
「ええ。私がこのような話をできるのもその後になってこの地の信仰について調べたことがあるからなのですよ。私がまだ二十代だったころの話です。私は旅館の後継ぎとして働いておりました。ある朝のことでした。玄関前の掃き掃除に出ようと箒を持って玄関扉を開けたのです。すると山の中に巨大な目玉のようなものが見えました。腰を抜かしましたよ。すぐさま館内に戻って父や仲居さんたちに報告したのですが誰も信じてはくれませんでした」
「その時からです。時折山の中に目が見えて様々な不可解な現象に立ち会うことになりました。山の中に目が見えるのはもちろん、鏡の中から手が出てきたり、夢の中で鹿や熊や猪に喰われたり、山の中から人ではないものの大声が聞こえたりと。数日間そんなことに襲われたものですから眠れなくなりしばらく寝込み病院にも行きました。当然医者には何も分からないと言われましたが。しかし私には原因は明らかでした。あの目に見合ってからおかしくなったのです。ですからあの目の正体について調べることにしました。そして結果的にあれが山の神だったものではないかということを知ったのです」
俺は館長の話を出来の悪い頭で噛み砕いて理解しながら自分の状況と照らし合わせていた。話を聞いている限り、館長の体験談は俺の状況に近かった。やはり館長もあの目に取り憑かれた一人なのだろう。
「どうですか?佐藤様の状況と相違はありますか」
「ほぼ、同じです。怪現象に襲われたというのもそれを信じてもらえないというのも。そしてそれらが起きたのは当然山ノ目の存在を認知してからのことです」
「では、やはりあなたも山ノ目に取り憑かれたのでしょうな。お気の毒というしかありませんが。まあ近年ではその噂が出回ったせいか客足はぱったり途絶え山ノ目に取り憑かれる人もしばらく見ていなかったのですが」
館長の話を聞いている限り昨日俺の身に起こった現象とよく状況は似ている。しかし太田たちの件など違うところもまだ残っている。俺は館長の話を聞いて尚残る疑問を聞いてみることにした。
「恐らく昨日俺は部屋の窓から山を見た時に最初に山ノ目に会ってしまったんです。それから大浴場でもう一度山ノ目に遭いました。山ノ目に見合うと急に体に力が入らなくなって見つめ続けるしかなくなったんです。意識もぼんやりと薄れてただ山ノ目と対峙している。そんな時間が十分ほど続きました」
「きっとその間に取り憑かれたんでしょうな。最初に山ノ目に出会ったのが部屋と仰いましたがその時に山ノ目は佐藤様に狙いを定めたのでしょう。そして機を窺ってから再び出現した。そしてその十分間で体の中に取り憑いたのではないでしょうか」
「体というか頭の中に取り憑かれた感覚がありました。それは最初に出会ってから段々と大きくなっていく感じがしました。頭の中に巣食った山ノ目が俺の脳を押しのけて肥大化しているような……」
「恐ろしい目に合われたのですな」
「俺の場合はその後部屋に戻ろうとしたんです。それで部屋の扉を開けた瞬間部屋が異様な雰囲気になっていて。薄暗い中にぼんやりとした赤い光があって俺の体はまともに言うことを聞かなくなって……。それで……それで、部屋に進むと友人の顔が山ノ目に置き換わっていたんです。恐ろしい……光景でした。その時の山ノ目は赤く染まっていました。そしてなんというか獣のような呻き声をあげながらこちらに近づいてきたんです」
「なんと……そこまで接触された方の話は聞いたことがありません」
「それでだんだん近づいてくる山ノ目から命からがら逃げだしたんです。扉を閉めると山ノ目はそれ以上もう追っては来ませんでした。それで隣の307にいる友人達を助けようと思ったんです。このままだといけないと思って………。すると……、部屋の中から聞こえてきたのは同じ呻き声でした……。そこから先は一心不乱に走って、あまり覚えていません。そもそもこの記憶が正しいのかも分からない。夕食までの記憶ははっきりとしているのですがその後の記憶が曖昧であやふやなんです」
「その後は玄関まで走ってこられた佐藤様を失礼ながら私が止めさせていただきました。まさかそのまま山の中に走っていく佐藤様を放っては置けませんから。それからここで一夜明かしてもらい今に至ります」
ずっと黙っていた男性が説明をするために口を開いた。
「なるほど……。赤い山ノ目ですか。やはり何か敵意でもあるのかもしれませんね。佐藤様への敵意なのかそれともこの旅館への敵意なのか、はたまた信仰を忘れたこの地への怒りなのか」
「そういえば、俺の友人たちは大丈夫なんでしょうか。昨日はもう完全に化け物になってしまっていて……。直接会ったのは太田という金髪の同室の友人だけだったんですが。さっきの彼です、顔が置き換わってしまっていた……。皆は無事なんでしょうか?」




