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“め”  作者: 橘樒
3/6

崩壊

「いやー飲んだわぁ」


 太田が抑揚のつきすぎた声で言った。


「皆食べるより飲むのに必死なんだもん」


 石田は若干不服そうだった。


「だって味分かんねぇよ、全部同じもん出されてた気がするわ」


「んなわけないでしょ」


「いや俺もそう思う」


「長嶋君まで……」


「まあ俺らみたいな馬鹿舌には料亭の味なんか分かんねぇってことだ」


「「それなー」」


 珍しく石田がマイノリティの構図だった。


「スタッフさんちゃんと説明してくれてたのに」


「何言ってかわかんね」


「同意」


「もう」


 こうして俺たちはかなり酔ったまま食堂を後にした。


「このまま部屋戻る?」


 太田が皆に聞いてくる。


「コンビニもねーししゃーないだろ」


「えー二次会できねーの?」


 自分で聞いておきながら太田はゴネた。


「ビール追加できるんじゃね?旅館ってそんなシステムなかったっけ?」


 長嶋が思いついたように言う。


「あるにはあると思うけど……。絶対明日二日酔いするよ、断言してもいい」


 珍しく石田が語気を強めて言った。


「二日酔いどんとこいだろ、なんもすることねーんだし」


 太田は大げさに自分の胸を叩いた。


「心霊スポットいくんじゃなかったのー?」


 呆れた声で石田が言う。語尾が伸びているあたり石田も酔っているようだった。


「あー、まあいいや、行けたら行こ」


「行かねー奴だろそれ」


 こうして上機嫌に俺たちは部屋まで戻った。


 他の客も少ないとはいえ泊っているはずなのに館内はやけに静かで薄暗く俺たちの声は必要以上に響いていた。



「飲みすぎる前に風呂入っとかないと危ないよ?」


 石田が心配しながら太田に呼び掛けた。


「あーそっか、佐藤、風呂いつがいい?」


 俺たちは結局部屋に戻って追加でビールを注文し飲み続けていたのだった。俺は酒に強い方ではないためセーブしていたが付き合いで飲んでいてもそろそろ頭痛がしてきていた。


「太田それ以上飲むな、それ飲んだら少し酔い覚まして風呂行こう」


 俺は太田に注意する。


「あいよー」


 相変わらず適当な返事で太田は応えた。


「僕らも二人が出てったら風呂行こうか」


「おっけー」


 こうして結局追加で注文したビールを飲み干した俺たちはそれぞれの部屋へ帰った。そしてせっかくなのだからと大浴場に行くことに決めたのだった。


「ここって温泉かなんかなん?」


「さあ?別段書いてなかったから違うんじゃねえ?」


 俺と太田は部屋に戻って風呂の準備をしていた。浴衣とタオル、下着を抱えて俺が言う。


「先行っとくぞ」


「おっけー、すぐ行くわ」


 スマホを見てニヤついている太田を見て、あれはしばらく来ないだろうなと思いながら俺は部屋を出た。


 ガチャンという音と共にドアが閉まる。すると廊下はぴったりと音が鳴りやんだ。廊下は寒々しいほど静かでまるで俺だけがこの空間に取り残されたようだった。相変わらず不気味なほど静かな空間だなとややビビりながらエレベーターホールへ向かい、ボタンを押してエレベーターを呼び出す。ボタンを押すカチッという音すら響いて聞こえた。


 ピンポーン


 エレベーターが四階から降りてきて三階に泊まる。誰かが大浴場にいるのだろうか。この人数なら大浴場も食堂と同じように貸し切りかと思ったが……。少し肩を落としながら俺は四階へ向かうエレベーターへ乗り込んだ。一人で乗っているエレベーターはやけに着くのが遅く感じた。


 ピンポーン


 四階のエレベーターホールに着くと周囲はぼんやりとした明かりに照らされた薄暗い空間だった。大浴場へ向かう道は武骨な矢印で示されており、まるで他の場所へと行かせまいとしているようだった。男湯と書かれた暖簾をくぐると広々とした脱衣所に出た。他の客はいないようだった。エレベーターは確かに四階に止まっていたはずだが………?それだけのことがなぜか不気味に感じそそくさと服を脱ぐ。誰もいないはずなのに変に視線を感じたのも気のせいだろう。


 大浴場の扉を開けると目の前に真っ暗闇が映し出された。そしてそこに俺だけが浮かび上がっている。どうやら全面ガラス張りらしい。さすがに外から見えないようになっているだろうがこの設備の旅館で全面ガラス張りとは少し不安になる。恐らく外の景色が見えるようにガラス張りなのだろうが明かりも何もない外はまさしく深淵といった暗さだった。ここまで外が真っ暗であると景色も何も見れたものではない。


「意味あるのか……?これ」


 そう思いながら体を流そうと一歩踏み出した瞬間だった。激しい頭痛が俺を襲う。そしてそれと同時にガラス張りの向こう側にまた現れたのだ。


 あの“目”が。


「うわっ」


 危うく滑ってこけそうになる。なんなんだ、これは。


 今度の目は先ほどよりも巨大化しているように見えた。そもそも真っ暗な空間の中に、より黒い、いやそれどころかもはや黒いというより光を吸い込んでいるような暗闇が黒目にあたる部分に位置している。白目の部分は逆にコントラストの差で眩しく見える。


 そしてその異形に俺はなぜか恍惚と見惚れている。自分の意識が自分の体をコントロールできない。恐怖の感情が心を支配しているのに、体は動かない。なぜか俺はしばらくその目と見つめ合うことしかできなかった。


「お、山見えんじゃん、てかお前なにしてんの?」


 ハッと意識が戻る。振り向くと太田が全裸でこちらを見ていた。


「なんでお前入り口で突っ立ってんの?はいんねーのか?」


「え……。いや」


 太田はすいすいと前へ進み体を洗い始めた。もう一度ガラスの向こうに目をやるとあの目はもう既に消えていた。


「え?」


 太田に追従しようとしたが足が微かに震えてふらついた。


「ん?大丈夫か?飲みすぎた?」


「いや……、そこまで飲んでない……」


 太田はあの目の存在に全く気が付いていないのだろうか。


「なあ……、さっきまでなんか見えたんだけど、その、ガラスの向こうに」


「は?山以外で?暗すぎて山もほぼ見えてないのに?」


「いやその……。目が」


「目?何のこと?」


 太田は昼に説明したことも全く意に介していないらしい。


「いや……。なんでもない」


「早く入れよ、風邪ひくぞ」


 太田の呼びかけに軽く頷いて足を踏み出す。少し落ち着いたせいかふらつかずに済んだ。


 俺は無言のまま風呂に入っていた。太田は酔っているせいか隣でずっと喋り倒していたが、うまく反応できなかった。それでも構わず喋り続けてくれる太田はいい友人だと思った。


「俺上がるけどいい?」


「ああ、いいよ」


 そういって太田はさっさと一人で出ていってしまった。またあの“目”に出会うかもしれない。やはり太田を引き留めておけばよかったと少しの後悔が頭をよぎる。


 俺は湯船につかりながら一人思考を巡らせる。再び現れたあの“目”。あれはいったい何だったのだろうか。なぜ俺はあの場から動けなかったのだろうか。あとから計算してみると太田が来るまでの約十分ほどの間、俺はあの場に立ち尽くしてあの目と見つめ合っていた。どうしてそれだけの時間思考も体も全てが硬直してしまっていたのだろうか。まるであの目に見惚れているかのように。まるであの目に捕らえられたかのように。考えたが何も志向は進まなかった。


 少しして風呂から上がったがもう既に太田は脱衣所にはいなかった。酔ったせいかそれとものぼせたのか頭痛がひどくなってきていた。キリキリと頭が締め付けられるような感覚がする。頭痛がする頭のその中心にあの目が焼き付いていて離れなかった。


 グダグダと着替えて髪を乾かし終えた時ふと気になった。なぜか俺はあのガラス窓をもう一度確認したくなったのだ。なぜだか分からないが不思議な衝動に突き動かされるまま俺は再び大浴場の扉を開けた。


 ガラス窓には着替えた俺と真っ暗な中に山が写っているばかりだった。ただ一人俺の姿が浮かび上がっている。しかし周囲の山の木々はまるで無数の手に見えた。幻覚だろうか。無言で扉を閉め脱衣所を後にする。何かが俺を既に支配していた。


 脱衣所から出てエレベーターホールで下ボタンを押す。


 ピンポーン


 相変わらず音がよく響く。エレベーターは移動してくることなくすぐさま開いた。太田はどこへ行ったのだろうか。頭の片隅でそんなことを考えつつエレベーターに乗り込む。ずっと頭の中心をあの目が回っている。白い部分と黒い部分にはっきりと分かれた人のもの、いやこの世のものですらないであろう真円の目。何度押しても閉めた後に再び開くエレベーターのことなどもうどうでもよかった。


 ピンポーン


 三階に着くのにやけに時間がかかった。少し朦朧としてきた意識の中308を目指す。

305……。306……。307……。308………。ここだ。ポケットから308号室の鍵を取り出し扉を開ける。


 ガチャン


 その音が頭に痛く響いた。


 扉を開けると部屋の様子は一変していた。人の気配が全く感じられない。


「あれ……。太田?」


 部屋の中から返事はない。


「太……田?」


 そういって部屋に踏み込んだ瞬間だった。


 ズキリ


 脳内で何かが目覚めたような感覚がしたと同時に急に俺は平衡感覚を失った。視界が歪んで見え始める。


 なんだこれ。どうなってるんだ。


 そう思うのも束の間だった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 明らかに人ではないものの声が聞こえた。複数の獣の鳴き声が入り混じったような音だった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 音は鳴りやまない。激しい頭痛がする。音が耳の外でなっているのか頭の中でなっているのかもはや判別がつかない。とにかくここから逃げるべきだ。頭ではそう思っても体は言うことをきかない。


「太田……」


 俺は呟きながら部屋の中へ歩みを進める。


「どこ……だ」


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 音は部屋の中へ近づくごとに大きくなっていく。一歩歩みを進めるごとに人でないものと接近しているのが脳髄で分かった。だが足は止められない。何故かは分からない。自分でも分からぬまま凄まじい頭痛の痛みと騒音に耐えながら俺は部屋の中へ進んでいく。


 玄関からたった数メートルのところにあるはずの部屋がとてつもなく遠く感じた。


「太田………」


 何分かかっただろうか。ようやくたどり着いた居間。しかし部屋の先にいたのは太田ではなかった。


 それは“太田らしきもの”だった。


 太田の体についているのが太田の顔ではなかったのだ。


 太田の顔の部分にはあの“目”がぼんやりと浮かんでいた。いや、これも正確な表現ではない。


 あの目ではあるがさっきとは異なる部分があった。黒かった部分が深紅になっている。黒々とした赤、血や肉の色。そんな色の光を放つ“目”が太田の加の部分に位置しているのだった。

その “太田らしきもの”が俺を見て叫ぶ。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 俺はそれをぼんやりと見つめている。それはじっとこっちを睨んだまま叫び続けている。耳をやられたのだろうか、段々音が遠くなっていく。


 段々意識が薄れていくその時だった。


 そいつがこちらへ一歩近づいたのだ。その瞬間俺は我に返る。体に血が行き渡り細胞が自分のものになっていく感覚が全身を駆け巡る。


 まずい、死ぬ。


 もはや理性など働いてはいなかった。ただ命を奪われかねないという直感だけを頼りに俺は自分の体を必死に動かす。部屋から踵を返して玄関へと走る。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 音が追いかけてくる。追いつかれれば死ぬことは明白だった。玄関までたどり着く。瞬時にドアノブに手をかけるが扉は異常なほど重くなっていた。


「ぐっ……!」


 細胞からはち切れそうなほど全身の力を込めて扉を押す。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 だんだん近づいてくる。振り向くと肉々しいグロテスクな赤い光がこちらを確実に捉えていた。


「開け……。開けっ……!」


 体が壊れるほど力を入れるとドアノブはゆっくりと回り始める。


「クソっ……」


 あの目の怪物は一歩一歩こちらに近づいてきていた。そして奴が俺と最も接近したその瞬間、


 ガチャン


 ドアノブは回転し扉が開く。


 俺は投げ出されるようにして廊下に転がり込んだ。


 ガチャン


 もう一度無機質な音がして扉は閉まった。息をあげながら扉の前でしゃがみ込む。もしも今奴が扉を開けてくれば俺は確実に死ぬだろう。だが閉まった扉の奥からは先ほどの叫び声はもう聞こえてはこなかった。


 俺はふらついた足取りで307へ向かった。助けなければ。長嶋と石田に伝えなければ。あの二人を助けられるのは俺しかいない。


「おい長嶋!石田!大丈夫か!」


 307の扉を全力で叩く。目一杯の声で二人を呼ぶ。


「……」


 なにも音沙汰がない。この時点で嫌な予感はしていた。体は再び震えだす。俺は最悪を想定してもう一度二人の名前を呼んだ。


「長嶋……、石田……」


 返ってきた返事は次のようなものだった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 俺は再び全身に力をこめ走り出す。もう何もかも駄目だ。俺も、太田も、長嶋も、石田も。


 全員もう駄目なのだ。


「う“わ”あ“あ”あ“あ”あ“」


 俺自身が獣のような声で叫びながら階段を駆け下りた。行先の当てもないままに。


 頭が割れるほどの頭痛と喉がはち切れそうな痛みを抱えながら俺は走った。


「お客様!」


 突然体を抱きとめられる。


「お客様!落ち着いてください!」


「は……?」


 俺を止めた人物はあのメガネの男性スタッフだった。

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