「婚約破棄ですか。……ええ、構いませんよ」静かに微笑んだ令嬢を、王太子は二度と手に入れられない
「君との婚約は、破棄する」
王太子ユリウス殿下の声が、王城の回廊に響いた。
「理由を、お聞きしても?」
声は震えなかった。不思議なほど、心は凪いでいる。
「フローラだ。彼女こそが私の運命の相手だと気づいた」
殿下の隣で、男爵令嬢フローラ・メルツが涙ぐんでいた。守ってあげたくなる風情を、彼女は完璧に纏っている。
「それに、フローラから聞いた。君が彼女を虐めていたと」
三年間、私は殿下に尽くしてきた。笑顔を絶やさず、陰口にも耐え、ただ誠実であろうとした。その結果がこれだ。
「虐めた覚えはありませんが」
「彼女は泣いていた。嘘をつく理由がない」
フローラが殿下の腕にすがりついた。殿下は彼女の肩を抱く。その優しさを、私は一度も向けられたことがない。
「……そうですか」
怒りが湧くかと思った。悔しさで泣くかと思った。けれど私の胸にあるのは、奇妙な静けさだけだった。
母が遺した言葉を思い出す。
『リーシェ。誇りを持ちなさい。何があっても、自分を貶めてはいけないわ』
私が守るべきは、殿下への執着ではない。
「では、構いません」
私は微笑んだ。心からの、穏やかな笑みだった。
「婚約破棄、お受けいたします。三年間ありがとうございました。どうぞ、お幸せに」
深く一礼して、踵を返す。
「待て、リーシェ! 何故そんなに平然としていられる!」
「平然としているわけではありません。ただ、貴方に尽くす理由がなくなっただけです」
振り返らず答え、私は歩き出した。
回廊を曲がったところで、人影があった。
「見事な幕引きだったな」
壁に背を預けていた長身の男性が、ゆっくりと姿勢を正す。漆黒の髪に、深い紺碧の瞳。
クラウス・ノルディス公爵。王太子殿下の幼馴染にして、この国で最も権勢を誇る貴族。
「立ち聞きとは、趣味が悪うございますね」
「たまたま通りかかっただけだ」
嘘だ、と直感でわかった。
「俺は、貴女を見ていた」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「三年間。ユリウスの婚約者として立ち回る貴女を、ずっと見ていた」
公爵が一歩、近づく。私は反射的に後退し、壁に背が当たる。
「記録魔石を、ご存知か」
唐突な問いに、思考が止まる。
「王城の各所に設置された、過去の出来事を映す魔道具だ。あの回廊にも、ある」
私は息を呑んだ。
「男爵令嬢の訴えが嘘なら、証拠は既にある。だが貴女は使わなかった。何故だ?」
「使う必要がないからです。私は殿下に執着しておりません。真実を暴いたところで、殿下が私を選び直すわけでもない」
公爵の瞳が、僅かに揺れた。
「つまり、復讐する気はないと」
「ええ。私は、ただ去るだけです」
沈黙が落ちた。
「リーシェ嬢。俺は、貴女のような女性を探していた」
心臓が跳ねた。
「誇り高く、聡明で、感情に流されない。そして、自分の価値を正しく理解していない」
公爵の手が伸びて、私の頬に触れた。
「閣下っ」
「俺は、貴女が欲しい」
囁きが、耳朶を打つ。
「今日は待つ。貴女には、考える時間が必要だろう。記録魔石の件は、俺に任せてもらう」
「私は復讐など――」
「復讐ではない。正義だ。嘘で他者を貶めた者は、相応の報いを受けるべきだ」
公爵の瞳が、猛禽のように鋭くなった。
「それに、ユリウスには自分が何を失ったか、思い知らせる必要がある」
三日後、王城から召喚状が届いた。国王陛下からの、婚約破棄に関する事実確認の呼び出しだった。
謁見の間に足を踏み入れた瞬間、状況を理解した。
玉座には国王陛下、その傍らにクラウス公爵。中央には殿下とフローラ。周囲には主だった貴族たち。
公開裁定だ。
「本日召喚したのは、婚約破棄に関して重大な事実が発覚したためである」
殿下の顔が強張った。フローラは顔面蒼白だ。
「ノルディス公爵」
「はっ」
公爵が前に出る。その手には、淡く光る水晶の球体。
「陛下のお許しを得て、先日の回廊の記録を確認しました。メルツ嬢の訴えた虐めの記録は、一切存在しませんでした」
謁見の間がざわめく。
「さらに、メルツ嬢がリーシェ嬢の評判を落とすために虚偽の噂を流していた記録が複数確認されました」
「嘘です! 私は……!」
フローラが叫ぶ。殿下は呆然と立ち尽くしていた。
「ユリウス。そなたは虚偽の訴えを鵜呑みにし、三年間誠実に尽くした婚約者を断罪しようとした」
国王陛下の声は、静かだが重い。
「メルツ令嬢には相応の処分を下す。社交界への出入りは、今後一切禁じる」
フローラが泣き崩れた。けれど私の胸には、何の感慨も湧かなかった。
「リーシェ嬢。不当な扱いを受けながら品位を保ち続けたこと、見事である」
「恐れ入ります」
「クラウス。何か言いたいことがあるのではないか」
公爵が、私の前に進み出た。
そして、跪いた。
謁見の間が、しんと静まる。
「リーシェ・ヴァルトハイム嬢。俺は、貴女を妻に迎えたい」
息が止まった。
「三年間、貴女を見てきた。その聡明さ、誇り高さ、そして誰にも見せない優しさを。俺は、貴女のすべてが欲しい」
「閣下……」
「ノルディス公爵家は、貴女を全力で守る。二度と、理不尽な涙を流させはしない」
公爵の手が、私の手を取った。
「答えは今すぐでなくていい。だが俺の気持ちは本物だ」
三年間、殿下に尽くしても得られなかったもの。認められること、大切にされること、見てもらえること。
この人は、それをくれると言っている。
「少し、考えさせてください」
「ああ」
「リーシェっ!」
突然、殿下が駆け寄ってきた。
「待ってくれ! 俺は間違っていた! もう一度、俺と――」
「殿下」
私は、静かに遮った。
「もう、遅いのです」
殿下の顔が、絶望に歪む。
「三年間、私は貴方を待っていました。貴方が私を見てくれる日を、信じて待っていた。けれど貴方は、一度も私を見なかった」
「リーシェ……」
「私は、もう貴方に尽くす理由がありません。そして、尽くしたいと思う方を見つけました」
私は、公爵を見た。公爵の瞳が、柔らかく細められる。
「さようなら、殿下。どうぞ、お元気で」
最後の一礼。私は、公爵の傍らに立った。
「閣下」
「クラウスでいい」
「では、クラウス。お手柔らかに、お願いいたします」
公爵の腕が、私の肩を抱いた。
「断る。手加減する気はない」
囁きは、甘さを含んでいた。
王城を出て、公爵家の馬車に乗り込む。
「本当に、よろしいのですか。あのような場で求婚など」
「ユリウスが貴女に縋りつく前に、俺の意志を示す必要があった」
私は、ぽかんとした。
「俺のものだと、わからせたかった。俺は独占欲が強い」
「……嫌ではありません。ただ、慣れていないだけです」
「慣らす。俺に大切にされることに、慣らしてやる」
クラウスの手が、私の頬に触れた。
「クラウス。答えを、今申し上げても?」
クラウスの瞳が、僅かに見開かれる。
「私を、貴方の妻にしてください」
沈黙。そして、見たこともないほど柔らかな笑みが浮かんだ。
「承った」
唇が、私の額に触れる。
「俺の妻になれ、リーシェ。後悔はさせない」
三年間の重荷を手放した私の肩は、驚くほど軽い。そしてクラウスの腕の中は、驚くほど温かかった。
これが、私の新しい始まり。もう、振り返らない。
王太子ユリウスは、婚約者選びに難航しているという。「あの時、リーシェを手放さなければ」と悔やんでいるとか。
けれど、もう遅い。
私は今、ノルディス公爵夫人として穏やかな日々を送っている。
「リーシェ。今日は俺と一緒に昼食を取れ」
「昨日も一緒でしたが」
「足りない」
朝も昼も夜も、クラウスは私の傍にいたがる。心地よく感じるようになった。
「クラウス」
「なんだ」
「貴方と結婚して、よかったです」
クラウスの動きが止まる。私の手を取り、唇を押し当てた。
「俺もだ」
静かな声は、万の甘言より雄弁だった。
私は、幸せだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
冷却系ざまぁ+溺愛という組み合わせで、「静かに去る主人公」と「最初から見ていた相手役」を書いてみました。怒らない、責めない、ただ手放す。その品格が、結果的に最大の逆転になる……という構造です。
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