Route:006『天井のない銭湯』
「当たり前だけど、ここも跡形もないねぇ」
「ん」
山道を抜け、さらに数キロ進んだところで、私たちはかつて町だった場所――今はコンクリートと植物の迷宮――に到着していた。
空を見れば雨はすっかり上がり、清々しいほどの快晴が広がっている。
梅雨の時期とは思えない、真っ青な空だ。
「暑くないとは言わないけど……それほどでもないね」
「そうだね。本当に夏なのかな?」
それを教えてくれる気象庁のサーバーは、とっくに沈黙している。
スマホのカレンダーは6月を指しているけれど、それが旧暦レベルでズレていないという保証はどこにもない。あくまで目安だ。
「お。あれ、銭湯じゃない?」
徐行しながら周囲を見ていた私が、ある建物を指差した。
瓦屋根の立派な入り口。そして建物の裏手には、煙突らしきものが見える。
……まあ、その煙突は真ん中からボッキリ折れて、ツタに覆われているけれど。
「ん? ……確かに。『ゆ』って書いてある」
「ちょっと寄ってみない? もしかしたらお風呂に入れるかもよ?」
「ん……期待は出来ないけど」
「あはは。まあそうね」
私は『ポラリス』を路肩の広いスペースに停め、エンジンを切った。
探索の準備は手慣れたものだ。
私はいつものリュックを背負い、護身用の大型拳銃を太もものホルスターにセットする。ルナも自分の愛銃と、ハッキング用のツールが入ったポーチを腰に下げた。
車を降り、最後にしっかりと鍵をかける。
誰もいない世界で泥棒なんていないだろうけれど、野生動物が入ってくる可能性はあるし、何より「戸締まり」は人間の理性の証だ。
「よし、行こう」
崩れかけた瓦礫を踏み越え、私たちは銭湯の敷地へと足を踏み入れた。のれんは腐って落ちていたけれど、木造の柱は意外としっかり残っている。
「思ったより綺麗」
「そうだね……」
中に入ってみると、意外なほど保存状態が良かった。
番台にはホコリを被った招き猫が鎮座していて、脱衣所のロッカーも錆び付いてはいるけれど形を留めている。床板を踏むと、ギシギシと少し頼りない音がした。
「ここかな」
曇りガラスの向こう、浴場への入り口を見つけて、私はそのまま青い暖簾――「男湯」と書かれた方へ進もうとした。
「っと!?」
背中のリュックをぐいっと引っ張られ、変な声が出る。
「何するの、ルナ……」
「そっちは男風呂。女風呂はこっち」
ルナが呆れた顔で、反対側の赤い暖簾を指差す。
「えー、どうせ誰も居ないんだし、いいんじゃない? 男風呂ってどんな絵が描いてあるのか気にならない?」
「ダメ。倫理観の問題」
「……ほいほい」
この世界で一番真面目なのは、間違いなくルナだ。私は大人しく従い、ルナと一緒に女湯の扉を引いた。
「……うわぁ」
「……開放的」
二人して、感嘆の声が漏れる。
そこは、ある意味で最高の露天風呂だった。
タイル張りの浴槽はそのまま残っていたけれど、頭上の天井が見事に崩落していて、ぽっかりと空いた穴から青空が覗いていたのだ。
差し込む陽光が、浴槽に溜まった水をキラキラと照らしている。
壁のペンキ絵――巨大な富士山も半分崩れていたけれど、本物の空と融合して、不思議なアートになっていた。
「ここに入る?」
「やめとく」
「だよね」
浴槽にはたっぷりと水が溜まっていたけれど、水面をよく見ればアメンボがスイスイと泳いでいる。完全に雨水だ。
体に害はないだろうけれど、さすがに虫と一緒に混浴する趣味はない。
「夜だったら、星が見えて綺麗だったかもね」
「ん。でも雨が降ったら最悪」
「確かに」
私たちは湯船の縁に腰掛け(そこは乾いていた)、しばらくぼんやりと天井の空を眺めた。お湯はないけれど、なんとなく気分だけは銭湯だ。
「今日は久しぶりに、シャワーでも浴びようか」
「ん。賛成」
しばらくして、ルナがぽつりと呟いた。
「贅沢だね」
「たまにはね。体も動かしたし」
私たちのキャンピングカーには温水シャワーがついているけれど、普段はあまり使わない。
水がもったいないというのもあるけれど、一番の理由は「排水」の処理が面倒だからだ。
昔ならキャンプ場に処理施設があったらしいけれど、今は垂れ流すわけにもいかないので、自然に影響がなさそうな側溝などを探して適切に処理しないといけない。
これが結構、重労働なのだ。
「水汲みと排水処理、手伝ってね」
「ん。じゃあ、わたしが背中流してあげる」
「お、それは役得」
「……変な意味じゃないから」
ルナが少し頬を染めてそっぽを向く。
幻の露天風呂を後にして、私たちは『家』へと戻ることにした。
□□□
排水用のホースを近くの側溝に繋ぎ、処理バルブを開ける。面倒な作業を終えた私たちは、いよいよお待ちかねのバスタイムだ。
ポラリスの車体後部にあるシャワールームは、軍用ベースの車両にしては広い作りになっている。本来は防護服を着たまま除染するためのスペースらしく、小柄な私たちなら二人同時に入っても、まあギリギリ許容範囲といったところだ。
「……狭い」
「文句言わないの。節水のためには一緒に入るのが一番でしょ?」
「ん……まあ、そうだけど」
脱衣所で服を脱ぎ捨て、真っ白な肌を露わにしたルナが、不満げに、でも少し恥ずかしそうに呟く。
シャワーブースの中で二人が立つと、どうしても肩や腕が触れ合ってしまう。
湿った空気の中に、甘いシャンプーの香りが漂い始めた。
「んっ……あったかい」
頭上から降り注ぐお湯に、ルナが小さく吐息を漏らす。温度調節機能は完璧だ。終わった世界で浴びる適温のシャワーほど、贅沢なものはないかもしれない。
「はい、約束通り背中流してあげる。こっち向いて」
「ん」
私がボディスポンジを泡立てると、ルナが素直に背中を向けた。華奢な背中だ。背骨のラインが白く浮き上がっている。黒い髪をかき上げて、私はその背中を優しく撫でるように洗っていく。
「……くすぐったい」
「我慢我慢。ここ、ちょっと凝ってるね」
「ん……そこ、気持ちいい」
普段は無表情なルナが、とろんとした声を出す。お湯のせいか、それとも密着しているせいか、彼女の耳がほんのりと赤くなっているのが分かった。
「ユキ、髪伸びたね」
「そうかな? そろそろ切ろうか?」
「……ううん。そのままでいい。綺麗だから」
「そっか。ありがと」
今度は交代。ルナの小さくて冷たい手が、私の背中を滑る。狭い空間でお互いの体温を感じながら、私たちは泥と汗と一緒に、日々の疲れを洗い流していく。
水がもったいないから、キャッキャと水を掛け合うような真似はできないけれど、この静かで温かい時間だけで、十分すぎるほど満たされていた。
さっぱりとしてシャワールームを出た後は、しっかりと髪を乾かして(風邪を引いたら薬が貴重だからね)、冷えたフルーツ缶を二人で分け合った。
「極楽極楽」
「ん。おやすみ、ユキ」
「おやすみ、ルナ」
清潔なシーツの匂いに包まれて、私たちは深い眠りに落ちていった。夢にも見ないほど、安らかな眠りへと。




