Route:045『Side:L / 静寂の観測者』
ルナ。
それが、わたしの名前。
本名? そんな識別コードは、今の世界には必要ない。
わたしはただのルナで、隣にいるユキの「ルナ」であれば、それでいい。
「ん……」
運転席でハンドルを握るユキの横顔を、盗み見る。
白く長い髪が、窓からの風に揺れている。
真剣な眼差しで前を見据える彼女は、いつだって頼もしい。そして、ひどく愛おしい。この感情が異常だとしても、構わない。世界にはわたしたちしかいないし、その世界がわたしを受け入れてくれたのだから。
同性? 関係ない。
恋愛に性別のパラメータ制限なんてない。好きな相手と一緒にいられること。幸せの定義がバグってしまったこの世界で、これだけが唯一の「正解」だ。
わたしは視線を落とし、手元のタブレットへ意識を切り替える。
「……やっぱり、文字化けひどい」
画面を埋め尽くすノイズと、崩れた文字列。地図データが破損している。いや、意図的に「読めなくされている」に近い。
とんでもないスパゲッティコードだ。
「このプログラム書いた人、とっちめなきゃ」
「こらこらルナ。とっちめる相手なんて居ないでしょ」
運転中のユキが、苦笑しながらたしなめてくる。
地獄耳だ。ボソッと言ったつもりだったのに。
「それそう、だけど……美しくない」
わたしは不満げに画面をタップする。
タブレットのハードウェア診断はオールグリーン。ユキにも見てもらったから、物理的な故障はない。
問題は、衛星から送られてくるデータストリームそのものだ。
わたしはバックグラウンドで走らせていた解析プログラムの結果を確認する。
高度2万キロ上空にある測位衛星。物理的な損傷はない。ただ、送出される信号に、奇妙な暗号化が混じっている。
「……ん」
わたしは思考を加速させる。
これまでわたしは、自分たちが通ったルート情報を衛星にアップロードして、地図を更新する処理を行ってきた。
でも、それだけじゃ足りない。
この文字化けの向こう側に、何があるのか。
「オーバーライド、試行」
管理者権限の強制奪取。いわゆるハッキングだ。キーボードを叩く指が熱を帯びる。
セキュリティは……驚くほど脆弱だ。
AIによる自律防衛システムが稼働しているはずなのに、まるで「見て見ぬふり」をしているかのように、わたしの侵入を許していく。
穴だらけ。
あるいは、わたしを誘っている?
「……何してるの?」
ふわりと、甘い匂いがした。気づけば車が停まっていて、ユキが助手席側へ身を乗り出し、わたしの手元を覗き込んでいた。
近い。
銀色の瞳が、すぐ目の前にある。心拍数が跳ね上がるのを、悟られないように息を止める。
「衛星に、ハッキングかけてる」
「また? 好きだねぇ」
「ん……趣味と実益」
もう少し詳しく解析したい。
ユキは呆れ顔をしているけれど、こればかりは譲れない。この世界が「なぜ終わったのか」、そして「なぜわたしたちが残されたのか」。
その答えが、空の上にある気がするから。
「セキュリティがザルすぎる。もしかして、旧型の廃棄衛星を経由してる?」
「私にはさっぱりだなぁ。まあ、ほどほどにね? 脳みそ溶けちゃうよ」
ユキがポンとわたしの頭に手を置く。
その温かさに、張り詰めていた思考がふっと緩む。
「ん。……分かってる」
今はまだ、分からなくていい。謎を解くことよりも、この温かい手のひらを感じている時間のほうが、今のわたしには重要だから。
わたしはハッキングツールをバックグラウンドに回し、代わりに音楽プレーヤーを起動した。
ユキの好きな、あのアニソンを流すために。
(続く)




