Route:040『湯けむりと硫黄の香り』
「これが……酸ヶ湯温泉!」
「ん! 着いた」
樹氷の並ぶ険しい山道を登りきった先。
雪煙の向こうに、歴史を感じさせる重厚な木造建築が現れた。窓からは温かなオレンジ色の光が漏れ、煙突からは白い湯気が立ち上っている。
外気温はマイナス5度。でも、あの建物の中はきっと天国だ。
「これはまた……うん。かなり綺麗に残ってるね?」
「ん。老朽化もしてないし、まるで当時のまま時が止まっているみたい」
私たちは『ポラリス』を建物の正面に停め、はやる気持ちを抑えながら車を降りた。
硫黄の独特な匂い――ゆで卵のような香り――が鼻をくすぐる。これぞ温泉の証だ。
中に入ると、そこは別世界だった。
自動ドアが開き、暖かい空気が私たちを包み込む。
ロビーは塵一つなく、床は磨き上げられている。壁にはホログラムの施設案内が表示され、無人のフロントではAIロボット(ペッパー君のような形状)がスリープモードで佇んでいた。
「期待できそう」
「ん。見てみよう」
売店にはお土産の饅頭(さすがに賞味期限切れだろうけど)が並び、自販機のディスプレイも明るく点灯している。
以前訪れた無人駅や基地跡と同じ、完全に管理された空間だ。
「すごいね。システムが全部動いてる……」
「ん。ハッキングして確認した感じでは、地熱発電と温泉管理AIがリンクして、全て正常に稼働してる」
「……相変わらず、そんなあっさりと凄いことしないでよ」
ルナがタブレットを操作しながら涼しい顔で言う。
彼女の前では、どんな強固なセキュリティも紙切れ同然だ。まあ、そのおかげで私たちはこうして恩恵に預かれるわけだけど。
「湯温よし、湯量よし。……いつでも入れる」
「やった!」
私はガッツポーズをした。
さあ、いよいよ待ちに待ったお風呂タイムだ。
私たちは「ヒバ千人風呂」と書かれた大きな暖簾の前に立った。
「よし、男湯を覗こう」
「なんで!?」
「痛いって!」
私が暖簾をめくろうとすると、ルナの手刀が脳天に落ちてきた。
お約束のやり取りだ。
「どうせ誰も居ないんだし、社会科見学として……」
「ダメなものはダメ。デリカシーの問題」
「仕方がないにゃあ。……まあ、ここは『混浴』だから、中で繋がってるんだけどね」
「あ……」
「だから、実質覗き放題だよ?」
「……ユキのえっち」
ルナが耳を赤くして睨んでくる。
「まあまあ。冗談はさておき、行こうか。女性用の入り口はこっち」
「ん」
混浴とはいえ、脱衣所は別々だ。それに同性なので、混浴だろうがなんだろうが関係ないっていう。
私たちは女性用の脱衣所で服を脱ぎ、タオルを一枚持って、いざ浴室へ。
――ギィィ、と重い木の扉を開けた瞬間。
視界が真っ白な湯気に包まれた。
「うわぁ……」
「すごい……」
広い。とにかく広い。
体育館ほどもある巨大な空間に、総ヒバ造りの柱や梁が整然と並んでいる。その中央には、プールのように大きな浴槽が鎮座し、白濁したお湯が波々と溢れていた。高い天井に湯気が篭もり、幻想的な雰囲気を醸し出している。
これだけ広いと、なんだか泳げそうだ。平泳ぎくらいなら余裕でいける気がする。
「ん。温泉で泳ぐのはマナー違反」
「分かってるってば」
心を読んだようにルナが釘を刺してくる。誰もいないけれど、歴史ある湯治場だ。敬意を払わないとね。
そして何より、静かだ。お湯が注がれる音だけが、木霊している。
「千人風呂、貸し切りだね」
「ん。贅沢」
私たちは掛け湯をして体を流し、ゆっくりと白濁したお湯に足を浸した。
「……んっ」
「はぁ……」
熱いお湯が、冷え切った手足の先からじわじわと染み込んでいく。
肩まで浸かると、思わずため息が漏れた。
硫黄の香りと、ヒバの木の香り。
旅の疲れが、雪のように溶けていく感覚。
「最高……」
「ん。生きててよかった」
ルナが隣で、とろんとした目で天井を見上げている。湿気で濡れた黒髪が、白い肌に張り付いて艶めかしい。
「ねえ、ルナ」
「なに?」
「こっちおいで」
「……ん」
広い浴槽の中、私はルナを引き寄せた。
誰もいない、二人だけの巨大な温泉。
お湯の中で肌が触れ合う。
「温泉デート、叶ったね」
「ん。……恥ずかしいけど、嬉しい」
「私もだよ」
湯気越しに見るルナの顔は、お湯のせいか、それとも照れているせいか、ほんのりと桜色に染まっていた。
私たちは広いお風呂の片隅で、身を寄せ合いながら、静かな湯浴みの時を楽しんだ。
外は吹雪いているけれど、ここだけは世界で一番温かい場所だった。
(続く)




