旅立ち
都会の夏を、遮るものは何もない。林立する建造物の間から漏れる光が痛いほど降り注いでくる。
殊に、エアコンのない六畳一間のボロアパート住みのKにとって、この暑さは堪えた。Kは、歩いて5分ほどの距離にあるコンビニに向かった。コンビニに入ると外とは打って変わって肌寒い。Kは、普段買うチョコスティックパンが置いてある棚を横目に、某有名ラーメンチェーン監修のカップラーメンを手にした。指の汗でフィルムが手につかない。そしてそのままアイスコーナーに向かうと、ラクトアイスの清涼感溢れるパッケージが目に留まった。カップラーメンとアイスを手にレジに向かい、店員に言って3円のレジ袋に入れてもらった。財布から金を出すとき一瞬のためらいがKの脳をよぎったが、すぐさまそれを振り切った。
(明日のことなんて考えなくていい。なんせこれが"最後の晩餐"なんだから…)
帰りの道で、Kは部屋にゴミ袋が溜まっていることを思い出した。
(あれは片付けないといけない!)
汗が腋を伝って下着の中へと流れていく。Kは帰り道の間、ごみ袋の事で頭を悩ませていた。
家に着くやいなや、積まれたごみ袋(二週間分ぐらいだろうか)を向かいのごみセンターに投げ入れ、部屋の中を掃除した。Kは伽藍堂な部屋の中でカップラーメンとアイスを食べた。ふと見上げると時計は12時を指していた。"最後の晩餐"にと選んだ食事は、味よりも、アイスの香りと麵を啜る音の方が不思議と頭に残った。
Kは今日、自殺する。ブラック企業で心身を摩耗しきったKにとって、死は救済だった。どうせ悲しむ人など誰もいない。遺書もない。Kにとって今日までの唯一の心配事は、死ぬことへの恐怖が襲ってくることだった。それによって、死にきれずに時間だけが経過することを恐れていた。だがKは当日を迎えて動揺するどころか、かえってすっきりとした心持でいた。妙に空が広く見える。夏の厄介な日射も粒のように降って、必要もなく心を慰める。生まれて此方、感じたことのない快感だった。
我に返ると、時計は17時を指している。Kはその間ずっと窓の外を眺めていた。頭を空白にしているうちに光は赤みを帯びた斜陽に変わっていた。
「そろそろ始めるか。」
そう言って立ち上がってまもなく、Kは吹き出した。今まさに人生を終わらせようとしているのに"始める"と言ったことが滑稽だった。Kは部屋の片隅に置いておいた白いロープを、普段洗濯物を干す物干し竿に結んで輪をかけた。そしてちゃぶ台をその近くに動かした。Kは至って冷静だった。恐れていた死の恐怖は、結局姿を現さなかった。
ごく自然な動きでKはちゃぶ台の端に立った。Kは恍惚の笑みを浮かべていた。ロープの輪に手をかけ、首を通した。Kは一度喉仏をごくりと動かして唾を飲み込み、そして大きく一つ息を吐いた。それと同時にKは後足でちゃぶ台を強く、しかし静かに蹴った。Kの身体が浮いた。首に血の流れるのを感じた。
(血が流れている。)
Kの瞳からは涙が溢れていた。
斜陽は赤みを増して、都会の晩に流れ込んでいった。
注意
本作は「連載」を予定しています。
決して自殺を肯定している訳ではございません。