午後の骸
私の心を、まるで肺の空洞に溜まる水のようにじっとりと蝕む、えたいの知れない不吉な塊があった。 それは病のせいばかりではあるまい。熱に浮かされた頭で天井の木目を数えることにも、障子に映る日の光が緩慢に動いてゆく様を眺めることにも倦み果てた私は、ただ布団の上に半身を起こし、ガラス窓の外に広がる、色褪せた午後の景色へと思いのない視線を投げるのが常であった。
その日も、私はそうしていた。往来をゆく人の姿も、荷車の軋む音も、すべてが現実感のない薄い膜の向こう側にある出来事のようだった。私の世界は、この六畳の病室と、そこから切り取られた四角い風景だけで完結していた。その無気力な網膜に、あるものが不意に引っかかった。
一羽のすずめであった。
屋根瓦の、わずかな窪みに降り立ったそれは、ただの灰色の点に過ぎなかった。はじめは、そうであった。しかし、他に心を注ぐべき対象を持たない私の視線は、いつしかその一点に粘りつくように吸い寄せられていた。 私は、見るというよりも、凝視していた。
すずめは、小刻みに首を振り、鋭い黒曜石のような瞳で虚空を睨んでいる。その姿には、一片の無駄もない。生きる、というただ一つの目的のために、全ての筋肉と神経が研ぎ澄まされているように見えた。私が日に日に失っていくものが、その小さな身体には凝縮されて満ち満ちている。
時折、すずめは乾いた土くれのような声で鳴いた。チ、チ、と短く断ち切られるその音は、私の静まり返った部屋の空気を、硬い爪先で引っ掻くようであった。それは音楽でもなければ、言葉でもない。生の、剥き出しの断片だった。私はその無意味な音の連なりに、奇妙なほど心を揺さぶられた。私の内で澱む沈黙が、その音によってかき乱され、微かな波紋を立てるのを感じた。
それからというもの、すずめを観察することが私の日課となった。それは、もはや単なる暇潰しではなかった。それは私の、世界に対するほとんど唯一の関わりであった。すずめは毎日同じ時刻にやって来ては、同じ場所で羽繕いをし、何かを探すように瓦の上をつついた。そのありふれた、反復される光景が、私には何かの儀式のように思われた。
ある風の強い日、すずめは強風に煽られ、危うく瓦から吹き飛ばされそうになった。小さな体躯を必死にこわばらせ、風に逆らって踏ん張るその姿を、私は息を詰めて見守った。その時、私の掌は汗でぐっしょりと濡れていた。すずめのちっぽけな命と、病に蝕まれる私の命が、ガラス一枚を隔てて奇妙に共振したかのようだった。風が止み、すずめが何事もなかったかのように再び羽を整え始めたとき、私は自分の全身から力が抜けてゆくのを感じた。それは疲労であると同時に、一種の安堵であった。
私は、そのすずめに、私自身の生の代理をさせていたのかもしれない。私にはもはや、力強く風に逆らうことも、己の力で餌を探しに行くこともできない。ただ、死という名の静かな淵に向かって、ゆっくりと沈んでいくだけの肉体。その私にとって、すずめの存在は、眩しいほどの生の躍動であった。
しかし、私の鋭敏になった感覚は、同時にその生の脆さをも見抜いていた。 陽光を浴びて鈍く光るその羽の一枚一枚。餌をついばむ、せわしない嘴の動き。その全てが、あまりにも儚く、指で触れればすぐにでも壊れてしまいそうな硝子細工のように思えた。美しさは、常に腐敗と隣り合わせにある。 爛漫と咲き誇る桜の樹の下に、屍体が埋まっているように 、あの小さな生命力の塊の下にも、常に死の影が寄り添っているのだ。
ある雨の日、すずめは現れなかった。翌日も、その次の日も。
私は、ただ窓の外を眺め続けた。いつもの瓦の上には、ただ雨に濡れた暗い色が広がっているだけだった。あの、生の凝縮であったはずの場所は、今や空虚な空間として私の眼前にあった。
数日が過ぎた。私の熱はまた少し上がったようだった。朦朧とする意識の中、私は不意に思い立って着物を羽織り、庭へ下りた。よろめく足で、すずめがいつもいた屋根の下へと歩み寄る。
そこにあった。
雨に打たれ、泥にまみれた、小さな骸が。
かつて黒曜石のように輝いていた瞳は閉じられ、生命の躍動を伝えていた羽は、今はただの濡れた雑巾のように地面に張り付いていた。それは、もうすずめではなかった。かつて、すずめであった、ただの物。灰色の、意味を失ったかけらであった。
私は、それを拾い上げようとは思わなかった。ただ、その場にしゃがみ込み、じっと見つめていた。私の心を重くしていたあの不吉な塊が、その小さな骸の周りに、まるで形を得たかのように漂っているのを感じた。それは、絶望ではなかった。悲しみとも少し違った。それは、むしろ一つの完結であった。
私の内で、何かが腑に落ちたのだ。
あのすずめは、私のために生きていたわけでも、死んだわけでもない。ただ生き、そして、ただ死んだ。それだけのことだ。しかし、そのありふれた事実が、私の病んだ精神には、一つの啓示のように響いた。打ち捨てられた玩具のようなその骸は、私自身の行く末を、静かに、しかし決定的に指し示していた。
私は、その小さな灰色の骸を、まるで美しい宝石でも見るかのように見つめていた。腐敗し、やがて土に還ってゆくその過程に、私は一種荘厳な美しささえ感じていた。 生と死は、かくもあっけなく繋がり、そして移ろいゆく。ならば、私のこの苦しみも、熱も、そしてこのえたいの知れない不安も、やがては意味を失い、ただの現象として消え去っていくのだろう。
私はゆっくりと立ち上がると、部屋に戻った。布団に横たわると、不思議と心は凪いでいた。窓の外では、また別のすずめが、チ、チ、と鳴いている。その声はもう、私の心を引っ掻くことはなかった。それはただの音として、静かに午後の光の中に溶けてゆくだけだった。