### **序章 明治維新に殺された男**
桐野利秋は、明治維新に殺された男だった。
西南戦争、城山の戦い。
かつての仲間たちは次々と斃れ、主君・西郷隆盛は己の手で命を絶った。
そして桐野もまた、政府軍の砲火の中で斬り伏せられた——そう、歴史には記されている。
しかし、彼は死んでいなかった。
城山からの敗走後、密かに薩摩を脱した桐野は、京都へと潜伏していた。
目的はただ一つ。木戸孝允の暗殺。
新政府の重鎮であり、維新三傑とまで呼ばれた男。
長州閥を率いる彼を討つことは、政府に一矢報いる最も効果的な方法だった。
それが、西郷の密命だったのか、それとも桐野自身が己に課した使命だったのか——もはや誰にも分からない。
しかし、彼は剣を抜くことができなかった。
「生きて時代を見届けてくれ」
病床の木戸は、かつての敵である桐野にそう語った。
静かな声だった。そこには説得も、怒りもない。ただ、言葉の重みだけがあった。
その言葉が、雷のように桐野の脳を貫いた。
その場を去った後、彼は剣を捨てた。
剣を持たぬ武士に、何の価値があるのか。
己は死んだのだ、と何度も心の中で繰り返した。
そして、名を捨てた。
谷晋助。
それが、彼の新しい名だった。
もはや薩摩の武士ではない。
歴史の中では、すでに死んだ男だった。
死んだ男は、東京の片隅へと消えた。
だが——彼はまだ、この時代の雷に打たれていなかった。
己の意思を持つということが、どういうことなのかを知らないままに。