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6 『竹取物語』をアレンジ③

読みに来てくださってありがとうございます。

『竹取』最終回です。

よろしくお願いいたします。

 序列5位の政務官マーロンに求婚権が回ってくるはずはなかった。それなのに、上位4人が脱落し、マーロンにまで順番が回ってきたのだ。すでに一同が会した日から12年の月日が経っている。マーロンは静かにクララからの言葉を聞いた。


「グリフォンの羽根を見てみたいのです」

「グリフォンですか。それはなかなか難しいものですね」


 マーロンはうなだれた。

 裕福な家ではあるが、金に物を言わせられるほどの金持ちではない。

 グリフォンのような幻獣を仕留めに行こうと思えるような武の心得などない。


 今までの婚約者候補たちよりも格段に劣る自分に突きつけられた条件に、マーロンは気づいた。


「姫。あなたは、誰とも結婚する気がないのですね」

「えっ…」


 クララの目論見を看破したのは、マーロンが初めてだ。今までの候補者たちとは様子が違うと、クララはマーロンを見た。


「結婚する気がないなら、なぜそう言わないのですか?」

「年老いた二人が、私と貴人と結婚させることが私の幸せだと信じて譲らないのです。私の気持ちなど、どうでもいいのです。安心して自分たちが死ねるようにしたい、そのためには私を一人で置いてはおけない。私を愛していながら私を見ようとしない二人に、疲れてしまったのです」

「あなたのしていることが罪なことだという自覚はおありか?」

「ありますわ。でも、実現可能なものをお願いすることはできません。結婚しなければならなくなってしまいますから」

「もしかして思う人がいらっしゃるのか?」

「……」


 クララからの返事がなかった。沈黙は肯定。マーロンはふっとため息をついた。


「姫の心を知った以上、このまま何もせずに辞退するのが一番なのでしょう。ですが、何もしなければ、私の名誉に傷がついてしまうということまで考えてくださいましたか?」

「え?」

「難題に尻尾を巻いて逃げ出した男…そんな男を、仕事の上で信用しようとする上司などいないのですよ」

「あ…」


 そこまで思い至らなかったのだろう、クララがばつの悪そうな顔をした。


「あなたは結婚を回避したくて必死だったのでしょう。ですが、私はあなたから与えられた難題に挑戦しなければ、この結婚話の如何に関わらず、私の人生が暗いものになってしまうのです。まったく罪なお人だ」


 うなだれてしまったクララに、マーロンは告げた。


「できるだけ、私にもあなたにも不名誉にならないように動いてみますが…うまくいかなかったとしても、笑わないでくださいね」


 マーロンの言葉の真意が見えず、クララはマーロンを見た。だが、すでにマーロンは立ち上がって背を向け、クララはマーロンの表情を見ることができなかった。


 マーロンからの連絡は途絶えた。数ヶ月後、ようやく届いた知らせは、マーロンが死んだというものだった。


「亡くなったって、どうして?」

「マーロン様は文官で、武器など扱ったこともない方でした。ですが、ご自分でグリフォンの羽根を取りに行くとおっしゃって…」


 クララは目の前が真っ暗になった。


「グリフォンは幻獣です。見つかることさえまれなのですが、マーロン様は事前に文献でグリフォンが過去に出現した場所の共通点を発見し、その知見で本当に巣を発見したのです。グリフォンはその時、巣にいませんでした。マーロン様は、巣ならば羽根の一枚も落ちているかもしれないと言って、我々の制止を振り切って巣穴に入って行かれました。すぐに巣穴から叫び声が聞こえ、崖の上にあったその巣穴からマーロン様が落ちていくのが見えました。崖の下を捜索したところ、マーロン様は何かを握って、死にかけていらっしゃいました」


 使者は訥々と語り続けた。


「『巣の中を手探りして柔らかいものをつかんだのだが、不気味な声に驚いて落ちてしまった。この手につかんだものは、羽根だろうか?』

 そうおっしゃって、マーロン様は何かを握りしめた手を私どもに差し出しました。私どもが固く握りしめられたその指を一本ずつ開きますと、中から出てきたのは…」


 使者の目が哀しげに伏せられた。


「グリフォンの排泄物かと思われる『何か』でした。マーロン様はふっと小さくお笑いになって、情けないな、二人が不名誉に終わらないようにするとクララ姫に約束したのにと、そう言いながら、そのまま儚くおなりになりました」


 クララは真っ青になった。その顔を見ながら、使者は言った。


「マーロン様は、穏やかなよい主でした。主を失った我らも、仕事を失うことになりました。よい主と職を失った我々にとって、クララ姫、あなたは憎悪の対象でしかありません。分別がつかない者も出るかもしれませんので、身辺にお気を付けください」


 使者が帰った後、クララは部屋に閉じこもった。老夫婦がどんなに声を掛けても、クララは頑として扉を開けなかった。結婚したくないと言ったのに、無理矢理二人が結婚させようとするからこんな被害者が出たのだと泣きじゃくる声が聞こえて、老夫婦は押し黙った。


 マーロンの死は、クララ姫の評判にも影を落とした。どれほど美しく、財もある家の娘だとはいえ、所詮はどこの馬の骨とも分からぬ者。そんな者の言葉に踊らされた者も愚かだが、そうやって男の心をもてあそぶクララ姫は魔性の女であり、その心根はねじ曲がっているに違いない、そんな噂が駆け抜けた。求婚に失敗した四人の男たちも、それに追随した。


 クララと老夫婦への風当たりは、次第に強くなっていったのだった。


・・・・・・・・・・


 その頃、マーロンが亡くなった原因を調べさせた国王は、クララ姫の存在を知った。他の求婚者たちからも話を聞き、国王は「魔性の女」を一目見てみたいという好奇心を押さえられなくなっていた。別に妃にしたいわけではないが、どれほどの悪女なのかと興味を持ったのだ。


 国王は老夫婦にクララには秘密にするようにと命じた上で、突然クララの部屋に入った。クララは暗い部屋の中で、窓際に腰掛けて、月を見上げていた。そのまなじりから流れた幾筋もの涙の跡が、月の光に照らされて光っている。


 美しい、と国王は思った。

 妃にしたいと思っていたわけではないが、美女を見慣れた国王であってさえ、確かに自分の女にしたいと思えるような美しさだった。


 クララはぼうっとしていて、国王が部屋に入ってきたことにも気づいていないようだった。それをよいことに、国王はクララにそっと近づくと、いきなり後ろから抱きしめた。


「いやっ」


 その言葉とともに、クララの体がまぶしく光って、クララの姿が見えなくなった。国王は慌てた。


「驚かせてすまない、あまりにもお前が美しかったので、思わず抱きしめてしまった。二度とこんなことをしないから、元の姿に戻ってくれないか」


 クララの体内には通信装置とビーコンの他に、危険を察知すると身体に結界を張れる装置が埋められている。


「僕がそばにいられるわけではないから、どこまでこれが君を守れるかわからないんだけどね、作ってみたよ」


 恋人がそう言いながら、結界装置を埋めた理由を教えてくれた。


「君が行く世界は安全で穏やかな星のはずだが、危険な生物や悪い男がいないとは限らない。生死に関わるとか、君に下心を持った者が触れたとか、そういう時にのみ自動展開する。覚えておいて、その装置を解除できるのは僕だけだから」


 その装置が展開したのだから、国王に下心があったのだとクララには分かる。


「私に下心をもって触れようとすれば、同じことになります。触れないと誓えますか?」

「国王に刃向かえば、育ての親ともども不経済で殺すこともできるのだぞ? それでも妃になる気はないのか?」

「ありません。私には思い人がいます。彼が迎えに来るのを待っているのです。他の方の求婚を受けるわけにはいきません」

「お前が求婚者たちに無理難題をふっかけたのは、そういう理由なのか?」

「ええ、そうです」

「どんな男だ?」


 国王の言葉に、クララは首をかしげた。


「お前ほどの女が心を傾ける相手とはどんな男だ? 幼なじみか? 神や精霊の類か?」

「強いて言えば、神や精霊の類になるでしょうか」

「つまり、人間に興味はないということか?」

「この世界の人間には興味がないということです」


 そこまで言いきられたなら仕方がない。国王は残念だと思ったが、光になってしまったらクララ姫の美しさを堪能することさえできない。国王は分かった、と小さく答えた。すっと光が消え、冷めた目をしたクララが姿を現した。


「物思いに耽っている女性に背後から近づき抱きつくなど、国王ともあろうお方がなさるべき行動ではありませんね」


 本来なら目を合わせることも、声を発することも許されぬ下賤の身のクララだが、その言葉には強い意志が感じられて、国王は自分を恥じた。


「嫌な思いをさせたようだな。愛をささやけば喜ばれることばかりだったので、拒否されるとは思ってもいなかったのだ」

「傲慢ですこと」

「そうあるべきだと教えられてきたからな」

「傲慢な人間が支配者になると、世界が滅びます」

「まるで、見てきたようなことを言うのだな」

「ええ、見てきました。自分の主義主張をかたくなに曲げず、他者・他国と争いあった結果、生き物が住めない世界になった所を」

「どこで?」

「私が生まれた所です。私は生き延びるために、その世界からここへ逃げ延びてきたのです。神や精霊の類と言いましたが、私はこの世界とは全く異なる世界で生まれ育ちました。文化も倫理観も全く違います。生きるために人が殺し合い、奪い合う。そんな地獄のような世界でした。平和なこの世界の人には想像もつかないでしょうね」

「そういう王もいたぞ」

「大地が赤く焼け、空が雲に覆い尽くされ、植物は育たなくなり、動物も死んでいく。子供は生まれることなく母体とともに命を失い、隠れたつもりでもどこにも逃げ場がない。体をむしばむ目に見えぬ毒が世界中にばらまかれ、互いに互いを罵り合う。そんな世界を作ったのは、一部の国の、傲慢で強欲な王やリーダーでした」


 クララの顔が暗くなり、目が怪しく光った。


「私の世界を滅ぼしたものを、私は持っていません。でも、材料さえあれば、その内のいくつかを作ることができます。私はそれを使ってこの国を、この世界を滅ぼすことも、私の支配下に置くこともできる。でも、しない。なぜか分かりますか?」


 クララの問いに、王は返答できなかった。


「せっかく毒や敵に怯えることなく生活できるこの環境に慣れてしまったからです。でも、私はこの世界では異物でしかありません。憎まれてもいます。仲間が、文明の発達していない、生物が住める世界を探しています。見つかったら連絡が来るのです。私は、仲間のところに戻りたい。あるべき場所に帰りたい。この世界から、私のいた痕跡を全て消し去って」

「人の記憶も、か?」

「ええ、できますよ」


 国王が驚愕し、大きく目が見開かれた。


「為政者にとって不都合なことを隠すために、人々の記憶を消す薬が作られました。ですが、繰り返し薬を飲まされた民の脳は、何も覚えていなくても少しずつ為政者への不信感を蓄積させていったのです。薬を飲ませた為政者は、罪悪感もなく悪事に手を染めるようになりました。そんな世界の薬を使いたいのですか? 私は、元々がこの世界にないはずの存在です。ないはずのものを、本来通りなかったことにする。そのために使うなら、薬も怒りはしないでしょう」

「そんなに、自分の存在を消したいのか?」

「ええ、きれいさっぱりと。知らなければ欲することもないのと同じです」


 国王にはクララの考えがよく分からなかった。ただ、この世界の人ではないこと、クララが元いた世界が悲惨な状況になって逃げてきたこと、そしてクララがごく一部の仲間以外を…そう、この世界でクララを保護し、育てた老夫婦でさえ全く信用していないことは分かった。同時に、国王には理解できない技術を持ち、互いに理解し合えないクララを強引に妃に下としても、これまで手ひどい目に遭ってきた求婚者たちと同じか、それ以上にひどい目に遭うことになるだろうということも理解した。


「クララ。お前に迎えが来るまでの間、俺の妃候補ということにしないか? そうすれば、少なくともこの国の男がお前に求婚することはできない。そうやってお前を守ってやる」


 クララが訝しげに国王を見た。


「なぜ?」

「手を伸ばしても、お前は妃にはならない。ならば、友としてお前の話を聞きたい。お前の世界の為政者が犯した間違いを知れば、この国を同じような目に遭わせないで済むかもしれない」


 クララはじっと国王の目を見た。その目は、真摯なものだ。


「いいわ、友達になってあげる。そのかわり、この国を、この世界を、平和なままで守ってください」

「よかろう。これはマーロンからの頼みでもある」

「マーロン様からの頼み?」

「マーロンは、旅立つ前に手紙を残していた。クララ姫は何かに傷ついている。その傷に触れられることを何よりも恐れている。だから、クララ姫がこれ以上傷つかないようにしてほしい、そう書いてあった」


 求婚のためにグリフォンの羽根を取りに行ったマーロンは、失敗しても二人が不名誉なことにならないように準備しておくと言っていた。それは、短期的な視点ではなく、長期的な視点に立って考えられたものだったのかもしれないとクララは思った。


「だから、私を婚約者候補にするのですか?」

「結婚したくないのだろう? ならば、微妙な立場にしてしまえばいい。それがマーロンの考えだった。もしグリフォンの羽根を手に入れたなら、その事実でマーロン自身の婚約者にしたまま時間を稼ぐつもりだったようだ。もし手に入れられなかった時は、学園時代の親友だった誼で、国王の妃候補のしてやってほしい、その立場なら、マーロンが引き下がらざるを得ないと誰もが思うから、と」


 マーロンは、本当にクララのことを考えていてくれたのだ。


「マーロンは、余にとっても大事な存在だった。マーロンを失う原因になったお前を憎み、今日とて状況次第ではお前を殺してもかまわないと思いながらここに来た。だが、マーロンの言うとおり、お前は美しく、もろく、異質だった。我々の理の中で生きる存在ではなかった。だから、マーロンの遺志を引き継ぐ」


 クララは頭を下げた。クララは国王の「妃候補」となった。


 クララと国王は、手紙での交流を続けた。やりとりは数年に及んだ。国王に早く結婚してほしいとう声も上がったため、国王は正妃不在のまま側妃を数人迎えた。二人が結婚しないことは、二人しか知らぬ秘密だった。クララとの約束を守り、誠実に国のために教えを請う国王に、クララは少しずつ心を開いていった。


 もし、迎えが来なかったら、私はどうなるのだろうか。このまま朽ち果てていくのだろうか。そうなるくらいなら、信じられる国王の妃になるのもありかもしれない。


 クララがそう思ったその日、クララの体内の通信装置から、クララに通信が入った。


「知的生命体がまだ発生していない、清浄な世界を見つけた。科学者が調査し、我々が住める環境であることを確認したので、近いところにいる仲間から迎えに行くことになった。遅くとも半年以内には迎えにいけるはずだ。日が決まったら連絡する」


 懐かしい、恋人からのメッセージだった。だが、クララは素直に喜べなかった。


 どうして一番に迎えに来てくれないの?

 私に会いたくはないの?


 恋人からのメッセージが届いてから、クララは精神的に不安定になった。星を、月を見ると、恋人に会いたい気持ちと、恋人がすぐに迎えに来ないことへの不安とで千々に思い乱れた。使用人たちが、「月をまじまじと見ると、狼男が狼になるように、良くないことが起きるそうですからおやめください」と言ったが、どうしても夜空を見上げずにはいられなかった。あの光る星のそばにあるどこかの星に、恋人はいるのだろうか。それとも、全くの異世界にいるのだろうか。考えても仕方のないことを考えては、答えが出るわけでもなく、クララは弱っていった。


 あまりにもクララが痩せていったので、おばあさんが心配してクララの話を聞きに来た。マーロンの一件以来、クララは老夫婦を避けていた。おばあさんとじっくり話をするのは、3年ぶりだ。


「クララ。私たちはクララのためにと思ってやってきたことが、クララを苦しめるだけだったと分かって、とても後悔しているの。クララのためになりたいという気持ちだけは信じてほしいと思っているわ」


 おばあさんはゆっくりと、かんで含めるように言った。


「食事も取らず、月や星を見上げては泣いていると聞いたよ。一体、何があったの? 私たちでは力になれないのかしら? 年老いた私たちよりも早く、若いクララが逝ってしまうようなことだけは、嫌なの」


 クララには何度か通信が届いていた。クララは迷った。知らない方が幸せだということはいくらでもある。全てを教える必要はないだろうが、何も知らせずにいるのもよくない、クララはそう思った。


「おばあさん。私はね、あの月の世界の人間なの」


 異世界だの別の星だのというよりも、教養のないおばあさんに理解できるように話すことが大事だとクララは思ってそう言った。


「訳あってこの世界に下りてきていたのだけれど、次の満月の日に、私を迎えに来るの。私は元の世界に帰るの。だから…」

「私たちをおいていくというの?」

 

 おばあさんの言葉に、クララは次の言葉をためらった。


「老い先短い私たちをおいて、どこかへ行ってしまうの? いやよ、私たちが育てたのよ、授かれなかった子供を、神様が授けてくれたのだと思って大事にしてきたのに、どうして、どうして…」


 さめざめと泣き始めたおばあさんに欠ける言葉が見つからない。だが、クララは言った。


「私が戻らなければ、みんな殺されるわ」


 おばあさんははっと顔を上げた。


「私は授けられたのではなくて、預けられただけ。預けたのだから、私を取り戻しに来るの。それだけなのよ?」

「でも、二度と会えなくなるなんて…」


 おばあさんは使用人に支えられて泣きながら出て行った。きっとおじいさんにも話すだろう。そして、国王にも伝わるだろう。


 残りはあと12日。クララは手紙を焼き、使用人に自分の持ち物を形見分けのように下げ渡した。服や宝石をいくつか孤児院に送って、換金するなり何なりして子供たちのために使ってほしいと言づてた。


 国王からは、おじいさんがどうしてもというので兵を少しだけ派遣するが、クララの仲間と戦う気はない、クララには心置きなくこの世界に「あの薬」を使ってほしいという手紙が来た。クララは感謝した。


 やがて満月の日が来た。おじいさんに頼まれて国王が派遣した兵は100人ほど。邸を囲んで、迎えを拒否する構えだとおじいさんは信じているが、兵たちには国王から「絶対に弓引くな」と命じられていることは、おじいさんひな秘密だ。


「絶対に行かせない」とおじいさんは息巻いていたが、転移装置を使って空中に突如仲間たちが出現した時、誰もが腰を抜かした。恋人がクララに手を伸ばした。


「行こう。新たな世界へ」

「少しだけ待って。忘却技術を、この国に使いたいの」

「ああ、君からの通信にあったからね、持ってきたよ」


 恋人が白い粉を沢山入れたケースを取り出した。クララはその粉を、人工的に起こした風で国中にばらまいた。粉には、記憶を失わせる成分が入っている。クララがこの世界に来てからの記憶は、この薬によって全て失われる。記録を見ても、何が何だか分からないという状況になるだけだ。


「国王陛下。あなたの厚情に感謝します」


 薬に載せて、クララはつぶやいた。光り輝く転移装置に腰を抜かしていた老夫婦と兵たちが、ぼんやりとした顔をしている。薬が効いているのだ。


「さあ、行こう」


 クララはうなずくと、恋人の手を取った。恋人の手は、まるで機械製の体のように冷たい。もう一度だけ、クララは上空から国を見下ろした。遠くに、人家が多く、大きな建物がある町が見えた。行ったことのない都だろうと思った。そして、あの建物に、国王がいるのだろうと思った。


「さよなら」


 クララの言葉とともに、転移装置が再起動し、一瞬にしてクララたちの姿が消えた。


 あとに残された者たちは、何も覚えていなかった。ただ、国王だけは、クララの存在を忘れなかった。なぜかは、残された国王には分からない。


 クララが仲間とともに旅立った先で、クララが幸せになれたかどうかは国王には分からない。クララ自身にも忘却の薬が使われた可能性だってある。


 だが、国王は思うのだ。全ての人が幸せであるのは机上の空論であったとしても、それを追求するのをやめたら為政者として失格だ、と。

読んでくださってありがとうございました。

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