57 百人一首をアレンジ44 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
読みに来てくださってありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
本来は現在進行形の恋について詠んだ形だと思いますが、今回は敢えて失恋後に設定してみました。
つれない。ひどすぎる。
そんな怒りをこらえきれず、アルバンは走った。人里離れた湖に到着すると、アルバンは身に着けていた物を全て脱ぎさって湖に飛び込んだ。
この湖は水深が急激に深くなる。子どもが小さい内は絶対に水に入れないし、泳ぎが得意な者でなければ怖がって入ろうとはしない。敢えて深みを目指して潜っていく。ふと上を見れば、水面が揺れる天井のように波打っていた。
水の世界から見れば、空はこんなにも歪んで見える。見る場所、見方が変わるだけで、同じものがこんなにも違うのだと、アルバンは思った。
ついでに、湖面の下から見上げる空と、涙を浮かべた目から見あげる空は、なんだか似ているな、そんな風に思った。
・・・・・・・・・・・・・・
アルバンにはかわいい恋人がいる。この国では上流階級に行けば行くほど婚前の純潔が重視される。逆に言えば、貴族でなければ純潔は重要視されない。そんな事情もあり、アルバンと恋人マーヤは、既に男女の関係にあった。
マーヤはかわいい。どこに行っても必ず男性陣から声をかけられる。マーヤと結婚したいと、友人が集まる場で相談したことがあった。マーヤ、という名前に、女性陣は全員硬直し、次いで目くばせしあい、その後には頭を抱えた。
「ハンナ、教えてやってよ」
女性陣を代表する形で、ハンナは口を開いた。
「マーヤを選ぶなんて、見る目がない」
「なんだって!」
アルバンは怒りで立ち上がった。ハンナは大きなため息をつき、言った。
「マーヤはね、クラッシャーなのよ」
「クラッシャーって、どういうことだよ」
「そのままの意味よ。交際している男女に割り込んで別れさせるのは朝飯前。常に複数の男性と交際していて、結婚するなら一生遊んで暮らせるようなお金持ちじゃなきゃ嫌、だそうよ」
「嘘だ、あんなにかわいらしいのに?」
「かわいいとか美人とか、外見の良さを否定するつもりはないわ。でも、10年もすれば、どんな美人でも容色は衰える。その素晴らしい容色が失われた時、彼女に何が残る? あなたたちにはかわいらしい言葉も、私たちにとっては耳障りでしかないわ。家事もできない、仕事もしない。お母様が早くに亡くなったのは気の毒だけれど、お父様はマーヤのために必死で働いている。そうやって稼いだお金を、マーヤはあっという間に使う。足りなくなれば、交際している男たちにせびって、お父様が帰宅したときに乱痴気騒ぎをしていたことだってある」
「嘘だよ、違うよ……」
「アルバンさん。私ね、片言しか話せないくらい小さい頃から、あの子のことを知っているの。今日の集まっている中にも、マーヤに彼氏を取られた子は4人いる。そっちの男性陣の中にも、マーヤと関わって痛い目にあったことある人がいるわよ。ね、ヴァルター、ヨルン?」
呼ばれた二人が気まずそうな顔をして下を向いた。
「マーヤはね、既婚者にも手を出して、離婚した夫婦もいるのよ。そのたびに慰謝料を請求されて……お父様が頭を下げて、必死になって分割で払っているのを知っているはずなのに、あの子はそれでも男遊びをやめないの。だから、やめておきなさい」
アルバンはうなだれた。もう飲む気になれなくて、家に帰った。
マーヤがそんな子であるはずがないという思いと、その場だけで被害者が片手を超えていたのだから本当なのだろうという思いとの間で心が落ち着かず、その夜、アルバンは一睡もできなかった。
寝ぼけ眼のまま、アルバンは職場に向かった。靴職人として、もう少しで独立できるところまで来ている。独立して店を持つにはそれなりの元手が必要だが、そちらの目途もついている。
あとは、生涯の伴侶さえいれば、というところなのだ。
もともとマーヤは、店にやって来た客だった。折れそうなほど細いのに高いヒールのパンプスを注文するマーヤの足には、庶民の娘が身に着けたら足元だけが浮いてしまいそうなほど派手な色使い、飾りがついたパンプスがあった。
「これを、日常使いするのですか? あの、足が痛くなりませんか?」
「この靴だと痛くなるわ。だから、痛くならないものを作ってほしいの」
「どうしてわざわざこんな靴を……」
「だって、きれいなものって、気分が上がるじゃない?」
アルバンにはマーヤの考えていることが全く分からなかった。親方に確認したが、金さえきちんと払ってもらえるのならば、たまには女性ものを作るのも仕事としては悪くない、前払いなら受けてもよいと言われた。
「えええ、前払い~?」
「そうでなければ、うちではお受けできません、親方の方針なので」
「ケチねえ」
マーヤはぷりぷりしながら出ていった。なんだか後味が悪いな、そう思って一日仕事を終え、裏口から出たアルバンは、誰かにぶつかってよろめいた。
「ごめんなさい!」
「あ?」
不機嫌さ全開でぶつかって来たものをにらみつけると、そこには震えるマーヤがいた。
「ごめんなさい、あの、どうしても靴を作ってほしくて。だから、お店じゃなくて、個人的にお願いできないかと思って……」
うるうるとした瞳で見上げられて、アルバンに庇護欲が生まれた。
「わかった、わかったから」
「うれしい~! ありがとう!」
アルバンがマーヤの靴を作るために、マーヤの足のサイズを計測する必要がある。
「店では測れないからなあ」
「じゃあ、うちならどう?」
「え、うちって、お客さんの家ってこと?」
「お客さんなんて他人行儀ねえ。マーヤって呼んで!」
「あ、ああ、わかった、マーヤ」
マーヤの家に連れていかれたアルバンは、ドキドキしながらマーヤの足に触れた。客の足など、これまでもどれだけ触れたかわからない。だが、マーヤの足は、なぜか特別なものに思えた。マーヤそのもののように思えた。小さなその足に触れながら、長さ、幅、厚みなどを丁寧に記録し、足の形をスケッチブックに写し取った。
アルバンの顔が紅潮しているのに気付いたのだろう、採寸が終わった瞬間、マーヤが足をアルバンの肩にかけた。
「もっと、触りたいんじゃないの?」
アルバンはマーヤを見た。マーヤが頷いている。その夜、アルバンが帰宅することはなかった。
最初は靴作りが口実で、途中からは交際しているものとして、アルバンはマーヤの家に通った。今日は来るなと言われる日もあったが、マーヤに夢中になっていたアルバンは、言う通りになった。
靴が出来上がると、マーヤは「素敵!」と喜んだ。それがうれしくて、アルバンは代金をもらっていないことにも気づかなかった。
靴ができた頃から、マーヤはアルバンが来ることを少しずつ拒否するようになった。完全に切るわけではない。だが、訪問してもよいという頻度が著しく落ちたのだ。
アルバンは焦っていた。だからこそ、周囲の人から聞くマーヤの姿を信じたくなくて、耳をふさいだ。だが、現実は残酷だ。会いに行っても、中から人の声がするのに居留守をつかわれることが増えた。
打ちひしがれていたアルバンの元に、ある日、マーヤからの手紙が届いた。
「最近、お父さんが帰って来ていたから、アルバンを泊められなかったの。今晩なら大丈夫よ」
アルバンは花と、全財産をはたいて買った指輪を持ってマーヤの家に行った。
「なかなか会えなくてごめんね」
「マーヤ、愛している! 俺と結婚してくれ!」
花束と指輪を差し出したアルバンに、マーヤは曖昧に微笑んだ。
「お父さんのお眼鏡にかなわないと、ね」
返事とも言えない返事。だが、マーヤは花束を指輪を受け取った。
「お父さんがだめって言ったら、ごめんね」
「いや、今はとりあえず受け取ってくれれば」
その夜、アルバンはマーヤと久しぶりに一晩を過ごした。幸せだった。翌朝、アルバンは「返事を待っている」と言って、マーヤの家を出た。それが、マーヤと会えた最後の日となった。
考える時間も必要だろうと、アルバンは数日、待っていた。だが音沙汰がない。そうこうしているうちに、「マーヤが父親とこの町を出ていった」という話を小耳にはさんだ。アルバンは親方が引き留めるのを振り払い、マーヤの家に走った。マーヤの家は、既に空き家となっていた。
ようやく、アルバンは目が覚めた。マーヤにとって、アルバンは恋愛の対象ではなかったのだ。全財産を失ったのだと気づいたのが遅かった。アルバンは己がマーヤの色香に惑ってしまったのだと悔いた。せめて、同じだけの気持ちを返してくれる人と恋愛をすべきだったと思ったが、もう遅い。
アルバンは湖に走った。そうでなければ、頭が沸騰しそうだった。湖に飛び込み、心路を鎮めたアルバンは、湖から上がった。そして、大の字になって空を見上げた。湖の中から見た空とは、やはり全く見え方が違う。フィルターがあると、ごまかされるのだということを思い知らされた。
マーヤと付き合わなかったら、かえってマーヤのことも自分ことも恨むようなことなどなかったはずなのに。でも、付き合ってしまったからこそ、こんなふうに裏切ったマーヤのことを恨みがましく思うんだなあ。
逢ふ(ハ四連体)こと(名詞)の(格助詞)
絶えて(副詞)し(間投助詞・強意)なく(形容詞ク活用連用)は(係助詞)
なかなかに(形容動詞ナリ活用連用)
人(名詞)を(格助詞)も(係助詞)身(名詞)を(格助詞)も(係助詞)
恨み(マ上二未然)ざら(助動詞打消未然)まし(助動詞反実仮想終止)
※「絶えて」は絶え(ヤ下二連用)+て(接続助詞)、連語化して、打消の語と共に使われる「呼応の副詞」となる
「し」は副助詞説あり
読んでくださってありがとうございました。




