22 『大鏡』より「花山院の出家」
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まだ17才だった王太子が玉座についてから2年。
この夜、王は重大な決意をもってその人が来るのを待っていた。
「遅くなって申し訳ございません」
「いや、お前も別れを告げねばならぬ人たちがいただろう。それでも、余は一緒にここを出てくれる仲間がいることに、心から安堵しているのだ」
「恐れ多いお言葉でございます」
男は宰相の真ん中の息子だ。先だって、王は王妃と死に別れた。王妃のおなかの中にはまだ見ぬ子もいたが、王妃はその子とともに、先立っていったのだ。
王は殊の外、王妃を愛していた。まだ若く子どものような王妃では子ができぬだろうから側室を持てという進言がうんざりするほどあったが、王はそれを一蹴した。そして、妊娠が分かった時、二人で手を取り合って喜んだ。
つわりは激しく、王妃はげっそりとやつれた。そんな王妃を支え、少しでも食べられるものがないかと王は様々なものを取り寄せ、自らの手で一口ずつ飲ませたり食べさせたりした。吐き気に苦しむ王妃の背をさすり、辛いと涙をこぼす王妃を抱きしめて、つわりの木を乗り切った。
少しずつつわりが治まり、おなかが膨らんで誰もが王妃の妊娠を確認できるようになった頃、突然、王妃は倒れた。そして、駆けつけた王に手を握られながら、儚くなったのだった。
王妃はまだ17才だった。一つ年下の王妃は、友だちでもあり、家族でもあり、国を支えるための同志でもあり、そしてなにより、初恋の人だった。子どもが子どもと恋愛ごっこをしているなどと揶揄する重臣もいたが、ならばなぜ17才で自分を玉座に着けたのかと王は言いたかった。
だが、言えなかった。
それは、宰相の力が、王よりも強かったからだ。
宰相は長年、前の王の元で政務に当たってきた実力者であり、権力者でもあった。その上、前の王の第二夫人は宰相の娘であり、前の王の残した王子は、まだ子のいない王の後継者となるべく育てられている。
そう、王は前の王の子ではなかった。王の父は、前の王の兄である。兄弟の子が交代するように王位に就くことでバランスを保とうとしたのだが、かえって国内勢力を明確に二分しただけで、若い王には荷が重かった。
王妃は、そんな王の悩み苦しみを静かに聞き、一緒になって国の未来のために尽くそうとしてくれていた。誰よりも心許せる人が王妃だったのだ。その王妃を失った王は、生きる気力を失った。
この1年、何とか職務は果たしてきた。だが、心が悲鳴を上げ、それに呼応するように体にも変調を来していた。眠れず、疲れやすく、食欲も亡くなっていった。
王妃が亡くなった直後から、宰相の中の息子は王に寄り添ってきた。宰相の中の息子は第二夫人の子で、上の息子と末の息子とは距離を置く関係だった。だからこそ、王もこの中の息子を少しだが信じることができた。宰相が王妃を毒殺したのではないかという疑いが残る中で、それでも王はやはり人を信じたかったのだ。
二月ほど前だっただろうか。王が中の息子に、「王妃にもう一度会いたいものだ」とこぼしたことがあった。中の息子はさめざめと泣いた。
「陛下、早まってはなりません。ですが、王妃様が天国で幸せに暮らせるよう、祈りを捧げるというのであれば、わたくしめもお供いたします」
王はその時になって、修道士になてこの世の平和と死者の冥福を祈り続ける生活があることを思いだした。
「そうか、修道院に行けばいいのか」
「今の陛下は、わたくしのようなものから見てさえ、あまりにもお辛そうです。嫌なことは全部放り出すことで、王妃様とお子様のことを思いながら心穏やかに過ごせるのなら、わたくしめは陛下の心を守るために、陛下が無事ここから抜け出せるよう手配しましょう」
「本当か?」
「はい。ですが、こういうことは、一人に話せば次々に広まってしまい、お止めしようとする輩が出てきて陛下のお心を乱すことになるでしょう。ですから、陛下。その日が来るまで、秘密にできますか?」
「ああ、約束しよう。余を修道院に連れて行ってくれ」
それから仕事の合間を縫って、中の息子は準備を進めました。そして決行の数日前になってようやく、王に決行日を伝えたのです。
「わかった。その日の夜、誰もちかづけぬようにしておけばいいのだな」
「御意」
その日がやってきた。明るい満月が、高校と夜の庭園を照らしている。
「なあ、明るすぎて、衛兵に見つからないだろうか」
「大丈夫ですよ」
中の息子の手引きで城の抜け道を通り、外に出ようとした時、王は王妃がまだ婚約者になる前からやりとりしていた手紙を何も持たずに来たことを思い出した。
「王妃の手紙を持ってくるのを忘れた。取りに戻ろう」
「何をおっしゃっているのです! ここまで来るのに、わたくしがどれほ大変だったことか……もう一度戻ってしまえば、衛兵が庭を回る時間になってしまいます。外に出る機会が失われてしまうのですよ!」
「それもそうか……」
王は中の息子の手引きにより、無事に王宮から脱出し、戒律が厳しいことで知られる、王都近くの山中にある修道院へと辿り着いた。
「さあ、それでは王妃様のために、修道士となりましょう」
修道士たちは既に準備万端、王を着替えさせると、修道士のヘアスタイル「トンスラ」にするために、カミソリを頭頂部に当てていく。
頭頂部を剃り、周囲を残したこの髪型になってしまったら、修道士であることから逃れることはできない。修道士の一丁上がりだ。
「さあ、次はお前の番だ」
王がそう言うと、中の息子が「いや、その」と後じさりし出した。
「実は、父に何も言わずに出てきてしまったのです。ですから、父に事情を話しに行ってきます。戻ったら、姿を……」
「お前、騙したのか!」
王はがっくりと膝をついた。
「お前のことを、信じていたのに。本当に、信じていたのに」
修道士たちが中の息子を捕まえようとした時、影からぬっと出てきた大男に止められた。一言も話さず、顔も黒い布で隠しているのでその姿を見ることはできないが、間違いない、あれは宰相が飼っている暗殺者集団のメンバーだ。
「やめよ。あれに勝てるものはいない。王家の影すら、彼らは駆逐してしまったのだ」
修道士たちは、おとなしく引き下がった。
影のような黒い集団に守られるように中の息子が去って行った。王は西に半分傾いた満月を見ながら思った。
これでいい。
もう、人の化かし合いに気を遣う必要も、権力を持たぬ王と侮られることも、嫌がらせを受けることもない。愛する人を殺されることもない。
中の息子は、きっと宰相に命じられて王に近づいたのだろう。そして、全ては宰相に筒抜けだった。自室に戻ろうとしたのを阻止したのは、おそらく王冠を既に移動していたからだろう。その先は……宰相の孫である、前の王の王子に間違いない。
はは、と乾いた笑いが口から飛び出した。
結局、君しか信用できる人はいなかったよ。
王は亡き王妃に向かって語りかけた。
これからは毎日、君と子どものために祈ろう。いつか君と再会できるように、導いてくれ。
戒律の厳しいこの修道院に、久しぶりに若い修道士が仲間入りした。真面目に修行に励んだかどうかは、皆さんの想像にお任せしよう。
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