19 『伊勢物語』より「通ひ路の関守」をアレンジ
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今日の「通ひ路の関守」はアレンジ強めです。
よろしくお願いいたします。
オードリーは将来の王妃候補として育てられた、由緒正しき高位貴族のご令嬢である。だからこそ、父はオードリーが幼い頃から口を酸っぱくして言い続けたことがある。
「自分の願いを口にすれば、それが賄賂となって届くことになる。だから、絶対に自分の願いを他人に話してはいけない」
「感情よりも理性を優先させねば、国が滅びる元になる」
だからオードリーは、自分から何かをねだったことはない。与えられた物に対して鷹揚に「ありがとう」と言うだけだ……たとえそれが好みに合わない物であったとしても。
両親の期待を一身に受け、血縁のある太王太后の元で行基見習いをする毎日。それはオードリーにとっての全てであり、それ以外の生き方はなかった。太王太后の元に毎日通う馬車の中から見る市井の人々の暮らしをガラス窓一枚隔てた異世界のことにように感じながら、オードリーは太王太后に仕えた。
太王太后は美しくおとなしいオードリーを気に入っていた。ここ三代ほど王が流行病で早逝していることもあって太王太后と呼ばれているが、実はまだ40代半ばの太王太后にとって、オードリーは娘とも孫ともつかぬ世代。気立てのよいオードリーのためによい縁談を、よい教育をとついつい厳しくなりがちであった。オードリーが帰りの馬車の中で、誰にも見られない間だけと涙を流していたのを知っているのは、いつも傍にいる侍女だけだ。
ある日、オードリーは太王太后と共に観劇に出かけた。囚われの姫君が騎士に救い出されるという話は、オードリーにとってはまるで遠い世界の話だった。まるで現実感がなかった。
「歌も演技もよかったけれど、あんなことが現実にあったら大変だわ」
太王太后の言葉に、オードリーは曖昧に頷いた。
と、その時、オードリーが被っていた、つばの広い帽子が風に飛ばされた。手を伸ばしたが、風に煽られた帽子は遠くへ飛んでいく。
どうしよう、あれはお母様かお借りした帽子なのに。
侍女が走って行った。オードリーは泣きそうになって俯いていた。
「お嬢様のものでしょうか?」
優しく聞き取りやすい、若い男の声がした。オードリーが顔を上げると、騎士服姿の美しい男が、帽子を差し出している。
「おや、アーサーではないか?」
太王太后の声が固くなった。
「太王太后様にご挨拶申し上げます」
アーサーと呼ばれた騎士は優雅にお辞儀をして挨拶をした。
「騎士になったの……その服は、近衛なのね」
「はい。王弟殿下のおそばにお仕えしております。午後の公演をごらんになるということになりまして」
「そう。元気そうでなによりですこと」
太王太后は「行きますよ」とオードリーに声を掛けた。オードリーは「ありがとうございました」とだけ言うと、帽子を受け取って太王太后とともに馬車に乗った。出発した馬車から見下ろすと、アーサーと呼ばれた騎士が真っ直ぐにこちらを見ていた。知らず、心臓がトクン、と跳ねた。
「いいですが、オードリー。アーサーのような男に近づいてはなりませんよ」
「あの、アーサー様というのはどのような方なのでしょうか」
「あれはね……私の子の異母弟の子なの」
わが子の異母邸弟の子。
少しかみ砕いてからようやく、太王太后と対立していた第二夫人のことに思い至った。太王太后の子が即位する前に、アーサーの祖父を擁立しようとする動きがあり、アーサーの父がそれを嫌ってわが子2人を臣籍降下させて争いを未然に防いだと聞いたことがあった。臣籍降下させられた王子の1人がアーサーだったのだ。
「さようでございましたか」
「ええ。アーサーには、夫の血が流れている。それが私にはひどく苦しいことに思われるのよ」
己の子孫が凡庸と評される一方で、他の女が産んだ子孫が名声を高めているのが気に入らないのだろう。
「だから、どんなに優秀でも、陛下のおそばには近づけさせないわ。寝首をかかれるかもしれないもの」
オードリーには、アーサーがそんな人物には見えなかった。愚痴をこぼし続ける太王太后の言葉を聞きながら、オードリーはそんなことを考えていた。
ぐったりと疲れたオードリーが帰宅すると、カードが届いていた。もちろん開封されており、中身をチェックされて問題ないと加齢が判断したとものだということになる。流麗な文字で、カードにはこう書かれていた。
「帽子に汚れは付いていませんでしたか。あなたのように美しい方に、土埃は似合いませんから」
アーサーがカードを。
同時に、なぜ自分だと分かったのだろう、とオードリーは首を傾げ、次いで自分が太王太后の元で行儀見習いをしていることを貴族の多くが知っているという事実に思い当たった。
それで、名も確認せずに私にカードを?
それ以来、一輪の花とともに、毎日カードが送られた。一度もオードリーからは送っていないにもかかわらず、毎日、違う花が届いた。
そして、馬車で太王太后の元に行く途中で、時々王弟殿下の護衛をしているアーサーと目が合うようになっていった。
その日のカードには、ただ紫のライラックの花が押し花になっていた。
「恋の芽生え」
思わず口に出してしまったオードリーは、はっと口を覆った。侍女が気遣わしげな表情でオードリーを見ていた。
「何も聞いておりません。ですが……どうか、自嘲なさってください」
だが、オードリーはその日以来、馬車の中からアーサーを見つけるとじっとその姿を見つめるようになった。アーサーもじっと見ている。2人の視線が絡み合って、まるでつるバラのように互いを捉え、そして傷つけ合っているように侍女には思えた。
オードリーはやつれていった。食事が進まなくなったのだ。両親も太王太后も心配したが、オードリーは何となく食欲が湧かないのだと言った。侍女は、それが恋煩いだと気づいた。黙っていることだけが、侍女にできることだった。
ある日、オードリーは馬車の中で侍女に言った。
「お願い、これをアーサー様に渡してほしいの」
赤いカーネーションが書かれた絵はがきには何も書かれていない。侍女ははっとした。
「お願い、一度だけでいいの」
侍女は頷いた。オードリーが太王太后の傍にいる間、オードリーの侍女役を太王太后の所にいる侍女に頼んで、自分はアーサーがいる王弟殿下の邸に向かった。
侍女がアーサーを呼んで欲しいと言うと、門番は胡乱な目で侍女を見た。
「帽子の君からです、と言えばお分かりいただけるかと」
果たして、アーサーは走ってやってきた。そして「確かにお渡ししました」と言って立ち去ろうとする侍女に、「今晩、そちらの邸の庭に行く」と独り言のようにつぶやいて戻っていった。侍女はこの言葉を伝えるか否か迷った。だが、伝えると決めた。
帰宅する馬車の中で侍女からこの話を聞いたオードリーは、静かに微笑んだ。薄らと頬に赤みが差している。
「あのね、太王太后様が、私を次の王妃にするとおっしゃったの」
侍女はオードリーの顔を見た。
「私の力では、どうしようもないの。受け入れるほかないわ。でもね、人を好きになれてよかったと思っているの。だから、どうしてもあの人に会いたいの」
夜、オードリーはそっと寝室を抜け出した。そして、庭の片隅の作業小屋に入った。
「オードリー様。やっと会えましたね」
「ええ、アーサー様」
2人はひしと抱き合った。これまでお互いに目だけで会話してきたのだ。お互いの思いなど、言わなくても伝わっていた。
お互いに越えてはいけない一線があることを知っている。将来の王妃となる高位貴族のご令嬢と、王族から臣籍降下してただの騎士として働く男とでは、釣り合わない。それに、オードリーが生娘ではないと分かれば、オードリーには不名誉な噂が一生つきまとう。オードリーを愛しているからこそ、アーサーはただオードリーを抱きしめ、オードリーの話に耳を傾けた。
2人が会っていることを知るのは侍女だけのはずだったが、回数を重ねれば当然人目につくことも出てくる。ある日、アーサーが塀を越えてオードリーの邸に入っていくところを、オードリーの邸の者に見つかった。アーサーはすぐに逃げたが、それ以来、邸の周辺の警備が厳重になった。とてもではないが忍び込めるような状況ではない。アーサーは何度も侵入を試みたが、不可能だった。
同時に、カードも突き返されるようになった。馬車の中にいるオードリーを目を合わせたかったが、カーテンで中をうかがうことはできなかった。
悶々とするアーサーの元に、やつれ果てた侍女がやってきたのは十日ほど経った頃だった。
「お嬢様が……」
泣き崩れた侍女の話を聞けば、アーサーと会えなくなったオードリーが食を絶ってしまったのだという。
「アーサー様。帽子を拾っていただいた日にお嬢様が見た劇は、囚われの姫君が騎士に救い出されるという物語でした」
アーサーは首を横に振った。
「物語の中だからできることだ。何の力もない私には、オードリー様をあの家から連れ出すことはできないし、連れ出せたとしてもその先にあるのは苦しい未来だけだ。オードリー様のことを思えばこそ、私はただ遠くで見守ることしかできない」
「ですが、このままではお嬢様が死んでしまいます!」
アーサーは目を閉じた。そして、カードにさらさらと書き付けた。
「これを、オードリー様に」
侍女はカードを持ってオードリーの元に戻った。震える手でオードリーが開いたカードには、アーサーらしい美しい文字でこう書かれていた。
「苦しんでいるあなたに逢いに行こうとする私を邪魔する門番には、夜、ゆっくりと熟睡してもらいたいものだ。門番さえ寝ていてくれれば、あなたを慰めるためにあんな塀など何度だって超えていくのに。ただ、あなたの苦しみを取り除きたい、今はそれだけを神に祈っているよ」
オードリーは号泣した。アーサーだけがオードリーの話を聞いてくれた。好きな花、好きな小説、好きな食べ物、そして太王太后や両親の愚痴。静かに黙って「それで?」と続きを促してくれるアーサーがいたおかげで、オードリーは心のバランスを保っていられたのに、もうそれが叶わないということが苦しかった。
侍女は泣き疲れたオードリーをベッドに寝かせると、首になるのを覚悟して、カードオードリーの父の元に持っていった。そして、アーサーがどれほどオードリーの心を支えていてくれたのかを訴えた。そして、言った。
「このままではお嬢様は死んでしまいます」と。
父親は、太王太后から「次の王妃にする」と言われてそのつもりをしていた。だが、娘に死なれては家から王妃を出すどころの話ではない。父親は一晩じっくり悩んだ。そして、翌朝、オードリーの部屋を訪ねた。しばらく会わない間にオードリーは痩せこけて、まるでスラム街の子どものような容姿になっていた。その姿に父親は愕然とした。よかれと思ってアーサーとの接触を断たせたが、これでは娘の命を絶つことになってしまう。あの侍女の言ったとおりだと父親は反省した。
「オードリー。お前は将来王妃になる。それは変えられない」
オードリーの表情からは、聞こえているのかどうかも分からない。だが、父親は続けた。
「結婚は認められない。純潔も守ってもらう必要はある。だが、結婚するまでの間だけ、そして外では会わないと約束できるなら……アーサー殿に会うことを許そう」
オードリーの目がようやく父親を見た。
「そうだな、友人ということにしよう。実は幼い頃から交流があったことにしておけばいい。そのくらいの作り話には、彼の家も乗ってくれるだろう」
「本当に?」
蚊の泣くような細い声がオードリーの口から漏れた。
「ああ、約束する。恋愛と結婚は別物だ。貴族である以上、お前には果たさねばならない役目がある。分かるな」
「はい」
翌日の昼間、アーサーがやってきた。もう、抱きしめ合うことも口づけを交わすこともできない。それでも、2人は手を握り合って話をするだけで幸せだった。使用人たちも、もう何も言わなかった。
5年後、オードリーは王太子妃として王家に嫁いでいった。愛されることで自信を持ち、自分なりにアーサーとの関係にけじめをつけて。
そんなオードリーを、アーサーは遠くからまぶしく見ていた。2人で手を取り合う未来は手に入れられなかったが、お互いを大切に思い合うことを、お互いに学びあった関係だった。
・・・・・・・・・・
アーサーは今、近衛騎士として静かに葬儀の警備に付いている。オードリーは王太子妃から王妃となり、子を産み、母となっていった。そして長く患った後、花が散るようにこの世を去って行った。
オードリー。あなたは幸せでしたか。私と過ごしたあの数年間は、あなたの心の支えになっていたのでしょうか。私は、ずっとこのまま、あなたの思い出だけを支えに生きていかねばならないのでしょうか。
涙ぐむアーサーの目の前を、紫のライラックの花びらが数枚、風に舞っていった。
読んでくださってありがとうございました。
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