1 『伊勢物語』「月やあらぬ」をアレンジ
読みに来てくださってありがとうございます。
日本の古典作品をアレンジした作品を、一話読み切りで書いていこうと思います。
第一話は『伊勢物語』「月やあらぬ」です。
よろしくお願いいたします。
【アーサー】
父方・母方とも祖父は国王。父の曾祖父と母の祖父は同一人物。父は王子だったがたくさんいる王子の1人として臣籍降下し伯爵となる。五男で後を継げないため、近衛騎士団に入団。その見目麗しさから女性によくもてる。王太后の警護に入った離宮で、女と出会う。
【オードリー】
公爵家のご令嬢。現在の国王の王妃になることが決定している。王妃教育のため、王太后の離宮に滞在している。
近衛の騎士アーサーと言えば、女性たちからの人気No.1のモテ男だ。
祖父は国王、父は王子、母も王族だった女性だ。父は第一王子だったが、如何せん身分の低い妾妃腹の生まれだったため、高貴な母を持つ王子が後から後から生まれて、王位からは遠く離れた状態で育った人だ。
その上、王族が多すぎると国民の税負担が多すぎるからと、我が子を臣籍降下させてしまうような、気弱な父であった。
だからアーサーは幼少時は王族だった。臣籍降下が決まった時、アーサーは五男という自分の立場を考えた。そして騎士になって身を立てようと決め、地道に真面目に仕事に向き合ってきた。
とは言え、元王族、兄弟の中で最も華やかな容貌を持つアーサーのことだ。そこに騎士としての肉体、精神が付加されれば女性は黙っていられない。勉強の方はと言われるとまあ真ん中くらいということになってしまうが、歌がうまいのだ。騎士の中には「騎士詩人」(トゥルバドール)とも呼ばれる人たちがいる。おそらく趣味で詩と曲を作り、それを仲間内で披露したことが始まりなのだろうが、アーサーも趣味で歌を歌うのでトゥルバドールだと言える。アーサーは声もいい。歌詞のセンスも絶妙に優れていて、女心をくすぐられるらしい。
アーサーは浮名を流しながら、自分が心の底から恋い焦がれるような女性に出会えないことを嘆いていた。
私の真実の愛を捧げる相手はどこにいるのか。
アーサーは多くの女性たちの間をただ流されていた。
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そんなある日、アーサーに新たな任務が命じられた。
「王太后様の護衛業務、ですか」
「そうだ。離宮に移られてしばらく経つが、周辺の警備を強化したいそうだ」
「何かあったのでしょうか?」
「我々には分からない。盗人でも入ったのかもしれない」
「それならさぞご不安でしょう」
「まあ、お前が指名されているのでなあ」
「……そうですか」
「すまない。私には政治的な力がないのだ」
「気にしないでください。これは任務ですから」
辞令書を渡した近衛の大将が気の毒そうなめでアーサーを見た。アーサーは苦笑いを残して大将の部屋を出た。
アーサーが王太后の離宮に出向となったメンバーと共に離宮に向かうと、王太后に着任の挨拶をした。
「おやおや、アーサーではありませんか」
元王族のアーサーは、当然王太后とも旧知の仲である。
「ご無沙汰しております。王太后様も……」
「ああ、堅苦しいのはなしよ! やっと私の護衛になってくれるのね!」
王太后は美形のアーサーがお気に入りだ。騎士になると決まった時には、いつかは自分の護衛にして連れ歩くのだと言っていたほどだ。
「配置換えではございません、一時的な増員対応と伺っております」
「あら、そうなの。それは残念。私はこのままここに残ってくれてもいいのよ?」
「陛下のご命令ですので、私からは何とも……」
王太后に気に入られているアーサーだが、国王からはあまりよく思われていない。どうやらアーサーがモテるのが気に入らないらしいのだ。アーサーから見たら国王は威厳と落ち着きを備えた男らしい人物と映っているのだが、まだ10代半ばの繊細な時期に女性たちのおしゃべりに傷ついたことがあったと聞いている。
当時立太子の儀を終えたばかりだった国王には、密かに思いを寄せるご令嬢がいたそうだ。彼女を含め何人かが将来の王太子妃候補として王城に上がっていたのだが、その彼女たちがこんなことを庭でしゃべりながら笑っていたらしい。
「将来国王になるのだから殿下一択ですわ。でも、お顔はアーサー様が一番よ。まだ10歳でいらっしゃるのに、あの美形。大人になったらどんなに素敵になるのかしら。想像するのも楽しいわ」
全く馬鹿なことを言ってくれたものだ。王太子の心はズタズタに引き裂かれた。王妃の位が欲しいだけの女などいらない、と言って、令嬢たちを全て実家に帰してしまったのだ。通常の王太子妃候補であれば、選抜に上がったというだけで箔が付くので問題はない。だが、今回は瑕疵ありとして帰されたのだ。令嬢たちも親も慌てたが、王太子の心は凍り付いてしまった。王家から睨まれた娘を嫁にもらったら、自分たちまで王家から睨まれるとばかりに縁談は全て断られ、令嬢たちも親たちも観念した。
ある者は修道院へ行った。ある者は外国の貴族に嫁いだ。ある者は王都に年に一度顔を出すだけの地方の下位貴族に嫁いだ。何の情報も無く姿を消した者もいた。王太子の意中の人だった令嬢は修道院に行く途中に襲撃され、行方不明になった。実は馬車を襲ったのは王家の影の者だったとか、令嬢は王宮の地下牢に閉じ込められて、身分のないただのお手つきの女性として囲われている、なんていう噂もある。
それ以来、アーサーは国王に睨まれている。何というか結構な粘着質なのである。母親である王太后に似たのかもしれないと、アーサーは思っている。王太后がアーサーを狙っているというのは、近衛の中では知られた事実だ。
何事もなく任務が終えられますように。
アーサーは久しぶりに疲れたと感じた。
・・・・・・・・・・
「公爵令嬢がお入りになるのですか?」
「ええ、陛下もやっと王妃を迎える気になったようなの。年の差があるのが心配ですが、かえって陛下の言うことを聞き、余計なことはしないでしょう」
「では、王妃教育のためにこちらにいらっしゃるということでしょうか?」
「そうよ。前は私も王宮にいましたが、いまは離宮にいるでしょう? 私が王宮に戻ると引っ越しが大変ですからね、公爵令嬢にはこちらに着てもらうことになりました」
「左様でございましたか」
「だからアーサー、王妃になる女性が滞在するこの離宮をしっかり守るのですよ」
「はっ」
なぜ自分が離宮に出向したのか、アーサーはやっと分かった。その公爵令嬢はつい最近デビュタントを迎えたばかりだが、その美しさに多くの男性が虜になったほどのご令嬢だ。デビュタントの挨拶を受けた国王が顔を赤くし、ファーストダンスを踊ったという噂は聞いていたが、アーサーが離宮勤務になってからのことなのでアーサーはその様子を見ていない。公爵令嬢の噂を聞いていた国王が、自分と令嬢の縁談がまとまるまでアーサーを王宮に立ち入らせないように、離宮に追いやったのだ。
ならば、離宮勤務も終わるだろうか?
だが、アーサーの予想は覆された。離宮勤務は継続されたのだ。それだけではない、外回りの傍付きの護衛への配置換えが命じられたのだ……それも、公爵令嬢の。
なぜだ?
アーサーは考えた。国王が命じたというならば裏があるはずだ。しばらく考えて、アーサーは一つの仮説にたどり着いた。
国王は、若く美しい公爵令嬢をアーサーに見せつけ、羨ましいと思わせたいのではないか、と。
だが、アーサーにとってはどうでもいいことだ。いや、仕事だからきちんと護衛の業務をこなすだけだ。
はあーっと大きなため息をついた。明日公爵令嬢が離宮に到着する。これまでは昼間の勤務だけだったが、シフト表には宿直にも印が付いていた。おそらく公爵令嬢の部屋の前で夜、寝ずの番をすることになるのだろう。重い気持ちを奮い立たせるように、アーサーは離宮内にある使用人や護衛用の宿舎に入り、直ぐに寝た。
・・・・・・・・・・
公爵令嬢が離宮にいることは、ごく一部の人にしか知られないようにされているらしい。王家の紋章が入った馬車に乗っては来たが、公爵令嬢の荷物はそれほど多くなかった。長期間の滞在は想定されていないのだろう。
「王太后様、どうぞよろしくお願い致します」
王太后の前で頭を下げた公爵令嬢は、誰もが見とれるほどの美しさだった。
「ええ、オードリーがここに来てくれてうれしいわ。王宮に入るまで、ここで仕上げをしましょうね」
上機嫌の王太后に、オードリーと呼ばれた令嬢は再び頭を下げた。
「ああ、アーサー。あなたはオードリー付きになっていたわよね?」
「はい、私とアンドリューが護衛としてつきます」
「公爵家からの護衛も4人いるから、うまくやってちょうだい」
「はっ」
オードリーがアーサーを見た。そして、その目が大きく見開かれた。アーサーも正面からオードリーを見て、心臓が早鐘のように打ち始めた。
この人だ、と思った。
だが、自分が全てを擲ってでも手に入れたいと思えたその女性は、主の妻となることが決まっている人だった。
やはり国王は、オードリーとアーサーを婚約前に出会わせないために、そして国王のものになると決まったオードリーをアーサーに見せつけるために、こんな任務を命じたのだ。
アーサーはぐっと唇を噛んだ。次の瞬間には微笑みを浮かべ、オードリーに騎士の礼をとった。
「アーサーと申します。離宮滞在中ご令嬢をお守りする役をいただきましたこと、光栄に存じます」
「アンドリューと申します。若輩者ですが、お嬢様を必ずお守り致します」
「オードリーです。よろしくお願いしますね」
王太后の目が意味ありげに光っているのにアーサーは気づいていた。だが、アーサーは護衛だ。騎士だ。己の役目を全うするまでのことだとアーサーは王太后の目に気づかぬふりをした。
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朝、オードリーが目を覚ますと、侍女たちが支度に入る。朝食を取って身支度を調えると、扉の外で待機する護衛が王太后の待つ部屋まで付き添う。指導が終わって一旦部屋に下がり、昼食を取ると再び着替えて王太后の元に参じ、お茶に付き合う。夕方に解放される。夕食も別に取るが、突然王太后に呼び出されて一緒に取ることもある。アーサーは、オードリーの顔に日に日に疲労が蓄積していくのが気になった。声を掛けてやりたい気持ちになるが、あくまで護衛に過ぎない自分が必要以上に話しかけることは許されない。公爵家の護衛から何度も睨まれているアーサーは、そっとオードリーを心配することしかできなかた。
公爵家から来ている護衛のうち3人は女性騎士で、室内の護衛をローテーションしている。廊下に立つ護衛はアーサーとアンドリューと公爵家から来ている男性騎士の3人が専属で交代しながら護衛をしている。もちろんこれだけでは足りないので、あと2人離宮の騎士が付き、常に合計5人に護衛態勢が汲まれている。物理的にも話しかけられないのだ。
そんなある日、オードリーが倒れた。王太后はオードリーに必要以上に付き合わせている自覚があったから、すぐに医師を呼ぶと共にオードリーを休ませるよう、命じた。
「アーサー、お前がオードリーを運びなさい」
公爵家の護衛の眼光が鋭くなったが、王太后の命令とあらば仕方がない。
「かしこまりました」
そっと横抱きにしたオードリーは、見た目以上に軽かった。色濃い目の下の隈に、やるせなさと愛おしさが混ざった複雑な感情になる。
「行きましょう」
公爵家の護衛と共にオードリーの部屋に向かう。
「お嬢様、直ぐに医者が参ります。お疲れになったのですね、ゆっくりお休みになればすぐ良くなりますよ」
アーサーの言葉に、うっすらとオードリーの目が開いた。
「籠の鳥は、いや」
小さな声が聞こえた。否定したかったが、否定できなかった。王太后に飼われ、国王に飼われ……オードリーが王城に一旦入ってしまえば、二度と外にでることは叶わないだろう。
「みんなそうです。貴族である以上、自分を縛る者から逃げられない。私とてかつての王族という経歴がついて回る。お互い、生きづらいものですね」
「アーサーは分かってくれるのね。王妃になんて、なりたくない。私だって、好きな人と一緒になりたかった」
他の護衛には聞こえないほどの小さな声で、オードリーがささやく。
「あなたが好きです」
アーサーの耳にかすかに聞こえたその声の主は、そのまま目を閉じてしまった。オードリーをベッドに寝かせると、アーサーは直ぐに部屋から出た。動悸はまだ収まりそうになかった。
・・・・・・・・・・
しばらく療養が決まったオードリーは、庭に出る以外の時間を部屋で引き籠もって過ごすようになった。部屋で過ごす時間が長いならば、護衛の組み方もまた変わる。アーサーたち護衛チームは相談の結果、今まで通り室内に女性騎士と男性騎士1名ずつ、廊下に2名、そしてテラスの外にも1人護衛を置くことにした。
この離宮は、年を取って足や腰を悪くした王族が楽に生活することを優先して作られている。そのため階段がない。小さな段差はスロープで対応し、車椅子での通行にも配慮されたその作りは使用人にもやさしく、カートが段差で進めなかったり、階段でカートを複数の人が持ち上げる、なんていう力仕事の必要もない。一部にロフトのような隠し部屋や収納スペースが設けられているが、天井の高い平屋造りになっている。
これまではテラスの傍にいる騎士から室内が見えてしまうため、離宮の騎士が少し離れたところから警護していた。だが、オードリーがこの部屋で過ごすことが多いのであれば、テラスにも警護が必要だということになったのだ。
冬の始めに離宮にやって来たオードリーには、この離宮の庭は寂しいものに見えた。冬に咲く花は少ないし、雪もちらつく中では冬枯れた風景が広がるだけ。王太后は離宮の内側には気を配るが、庭園のことはあまり気にしないらしい。お気に入りのガゼボの周辺だけは赤や黄色といった温かみのある色合いのパンジーを植えているが、正直に言えば目がチカチカするとオードリーは思った。
「白と紫のビオラで埋め尽くしたら、きっときれいでしょうね」
口うるさく自慢ばかりの王太后に閉口して倒れたオードリーは、癒やしがほしかった。元々深窓の姫君として育てられ、多少の楽器や詩、それに刺繍などはそれなりに嗜んでいた。だが、突然「王妃教育」という名の王太后のお話相手の仕事がなくなり、あまりにも暇になってしまった。楽器も詩も刺繍にも飽きてしまった。
「そうだわ、庭に手を入れてもいいか、王太后様にお伺いしてくださらない?」
侍女が上の者に話をして参ります、といって部屋を出ていった。室内には女性騎士とアーサーに2人が壁に控えているばかりである。
「白と紫のビオラって、あなたたちはどう思う?」
アーサーはどう答えて良いか分からず、公爵家の女性騎士の言葉を待った。
「お嬢様。そんな下々が考えるようなことをなさいますと、公爵様のお怒りに触れますよ」
オードリーが下を向いてしまった。この女性騎士は、本当にオードリーを守る気があるのだろうか、とアーサーはぎょっとした。
「そ、そうよね。お父さまのお怒りに触れるのはいけないわよね」
そう言って黙ってしまったオードリーの目に、ほんの僅かだが涙がにじんでいるのに気づいたアーサーは、オードリーに近づくとそっとハンカチを差し出した。
「よろしければお使いください。私は、白と紫という色合いが高貴で美しいと思います。離宮らしい凜とした美しい庭になるのではないでしょうか」
「アーサー……ありがとう」
女性の騎士は機嫌が悪いようだが、アーサーは無視することにした。そのうち侍女も戻ってきて、検討の結果近日中に知らせることになったと報告した。
「楽しみだわ」
ぽつりとつぶやいたオードリーの言葉の中に喜色があるのを聞き取ったアーサーは、これで良かったのだとほっとした。
・・・・・・・・・・
冬の終わりか、春の始まりか。そんな頃になってオードリーの「王妃教育」が復活した。とは言え、まずは昼間の茶会だけで徐々に慣らすことになった。
だが、一週間ほど経った時、離宮内で風邪が流行りだした。使用人だけでなく、警護の騎士までもが数多く罹患し、王太后とオードリーの世話係や警護が薄くなるという事態になった。離宮でこれだけ流行ったのだ、王都内や王城でも風邪が流行っていると聞く。使用人や騎士の応援を頼むことはできず、一時的に王太后やオードリーの周辺から人が少なくなった。風邪が流行りだしてから既に一週間が経っているが、最初に罹った者たちの治りが悪い上に、次々と罹患者が出た。
オードリーの連れて来た女性騎士3人も咳と発熱で寝込み、侍女は王太后の傍にいる人数で精一杯。室内待機の騎士を廊下とテラスに配備することにしたが、テラスでは風邪を引くとオードリーが反対した。
「それでは、外から侵入された時にお守りできません」
「では、廊下の2人とも室内にいたらどうかしら? 扉を全開にしておけば、問題ないのではなくて?」
「ですが、それでは室内が丸見えです」
「寝室はその奥だもの、問題ないわ」
侍女や女性騎士が付けないといっても、2、3日のことだ。人がいないのだから、臨機応変に対応するしかない。アーサーはアンドリューと相談した上で、オードリーの指示に従うことにした。
だが、やはりテラスにいないのは良くない。1時間ずつテラスと室内の警護を交代することにした。
アーサーはテラスに立った。外に目を配る。3週間前に業者がやって来て白と紫のビオラを植えていったが、あの業者が風邪を持ち込んだのかもしれない、そんなことを思って白と紫で彩られた庭園を見つめた。既に昼間はコートがなくてもいられるが、朝晩の風はまだ冬が自分の存在を主張しているようだ。
「アーサー様、寒くはありませんか?」
オードリーが声を掛けてきた。小さなその声は、部屋にいるアンドリューには聞こえないだろう。
「ええ、夕方になったらしっかり防寒しますのでご心配なく。それに私はもう王族ではありませんので、ただアーサーとお呼びください、と何度も申し上げています」
「わかりました」
チラリと室内のアンドリューを見れば、2人が並び立つのを首を傾げてみている。アーサーは再び庭の方を向いた。オードリーの顔もアーサーの顔も、アンドリューからは見えないだろう。オードリーは外を向いたまま、静かに言った。
「あのチェリーの花が咲き終わったら、私、王宮に上がるそうです」
「そうですか」
「秋になったら、結婚式があるそうです」
「それは楽しみですね」
「アーサーもそう思いますか?」
2人のささやきのような会話。アーサーはオードリーの表情を見たかったが、アンドリューに不審に思われるのを避けるため、ただ正面を見たまま小声で話す。
「国王陛下が強くお望みになった女性が、王妃陛下として国王陛下の隣に立たれるのです。国民として、お祝い申し上げます」
「そうではないの。アーサー、あなた個人の気持ちを知りたいの」
オードリーの声は、小さいが、真剣だ。
「私、あなたが好き。子どもの頃からずっとあなたに憧れていた。デビュタントの時にあなたに踊ってもらいたくて、私は一生懸命マナーやダンスや……とにかく色々頑張ったわ。でもその結果が、陛下との結婚だった。私はそんなの望んでいないのに、お父さまは早く王子を産めとしか仰らないし、お母さまは名誉だ何だと、誰も私の気持ちなんて理解してくれない。
でもアーサーは違った。あなた自身も苦しんでいることを教えてくれた。1人じゃないって思えたの。凍り付きそうだった私の心が、もう一度温かくなったわ。やっぱり、私はアーサーが好き。初恋なのよ」
「なりません。あなた様は王妃になる方だ」
「ただ、こうして話すだけでいい。きっと、今日明日しかないから。そのくらいは許して。私、ちゃんと王妃になるわ。あなたのためにも」
「お嬢様……」
オードリーがテラスから室内に戻った。カチャカチャと陶器の音がする。おそらくオードリーが慣れない手つきで茶を淹れようとしているのだろう。
アーサーは外を向いている。赤くなった顔を、少し温度の下がった風が冷ます。自分の心は伝えない。これでいいのだ、とアーサーは思った。
・・・・・・・・・・
その日の夕方、アンドリューが発熱した。動ける護衛がアーサー1人になってしまった。こうなったら、扉を開けた状態にして室内警護するしかない。アンドリューは高熱で苦しい中、頑張って治すからと言って去って行った。
「みんないなくなってしまったわね」
オードリーが何を考えているのか分からない表情で暖炉の火を見つめている。
「何があってもお守りしますので、どうぞお休みください。お湯を使えないのはご気分が悪いでしょうが、どうか侍女たちが戻るまでご辛抱ください」
「ううん、いいのよ」
沈黙が下りた。パチパチと木がはぜる音だけが部屋に妙に響いている。アーサーは炎を見つめるオードリーの思い詰めた表情を、この世のものとは思えぬほど美しいと思った。本当は掻き抱いて、攫ってしまいたかった。だが、公爵令嬢を連れて駆け落ちしても追っ手に捕まればそこで終わるし、うまく逃げ延びてもオードリーが貧しい生活に耐えられるとは思えない。何よりアーサーに対して仄暗い敵対心を持つ国王が、そんな簡単にアーサーを許すとは思えない。
「お嬢様。春とは言え、まだ夜は冷えます。お休みください」
日付が変わろうという時間になっても動こうとしないオードリーに、アーサーはそっと声を掛けた。
「そうね、連れて行ってくれる?」
アーサーを見上げたオードリーの目には、悲壮感が漂っていた。アーサーは黙ったままオードリーをソファから抱き上げると、寝室のベッドに下ろした。
「それでは、廊下の傍の扉の所におります。何かあればお知らせください。よい夢を」
「待って!」
オードリーの手が、アーサーの手を掴んだ。
「お願い、寒いから抱きしめて」
小刻みに震えるのは、寒さではないはずだ。こんなに温かくした部屋で、熱もないのに寒いはずがない。
「なりません」
「お願い! おとなしくあの人の妻になるから、だから、お願い……」
女性からこんなことを言うのは勇気が必要だっただろう。アーサーは失礼します、といってオードリーを抱きしめた。
「言いにくいことを言わせてしまって申し訳ありません。それから、これは私の独り言です……あなたを、愛しています。これから先も、ずっと。あなた以上の女性はいない」
オードリーの手が、アーサーの服をぎゅっと掴んだ。
「私は陛下を好きになれないと思います。だって、こんなにあなたのことが好きなのだから。でも、私は陛下のものになる。きっと、王城に上がれば直ぐに手が付けられるでしょう。だからお願い、私のファーストキスは、あなたに捧げさせて。これ以上はもう一切望まないから、だからお願……」
オードリーの言葉が終わる前に、その唇が塞がれた。それは、オードリーが見聞きしたり小説からイメージしていたものとは全く違うものだった。ただ、お互いを深く求め合っている、その気持ちがひしひしと伝わるものだった。
その唇が離された時、アーサーは言った。
「体は籠の鳥かも知れません。ですが、心の中はあなたの自由ですよ。私の心も、誰にも蹂躙させない」
額に優しく温かいものが触れた。オードリーは呆然と、アーサーの体の熱が自分の服から消えていくのを受け入れるほかなかった。パタリ、と静かに寝室の扉が閉められた。
オードリーは寝室から外を見上げた。月が煌々と輝いている。あの月だけが、アーサーとオードリーの秘密を見ていたのだ、そんなふうに思った。
その夜、オードリーは一睡もできずにただベッドの中で過ごした。
翌朝、カーテンを開けたオードリーの目に飛び込んできたのは、薄いピンク色の木の花だった。チェリーの花が咲いたのだ。王城から迎えが来る合図だ。
・・・・・・・・・・
オードリーはその日のうちに王城に迎えられた。そして、秋、華やかな結婚式が挙げられた。国王の隣に立つ若い王妃は、ただ静かにそこにいた。
アーサーはオードリーが王城に入った日に離宮勤務から地方勤務へと辞令が下された。アーサーもまたその人の内に王都を出発し、任地に向かった。地方にいるアーサーの耳にも、国王が王妃を大切にしているという噂が伝わってくる。あの夜以来、アーサーは妻を持たないかと言われてもまだ言い、としか言わなくなった。思う相手がいるのかと言われるとこういったらしい。
「そうだな、天女に恋すると、他の女が目に入らなくなる」
翌年の春、アーサーは再び王都に戻された。昇進人事だった。
アーサーは王城からの帰り道、あの離宮の前を通った。満月に照らされて、離宮の外からでもあのチェリーの木が遠目に見える。満開のチェリ-の花が、風に乗ってアーサーの所に飛んできた。その花びらをそっと手の中に閉じ込めると、なんだかオードリーを手の中に閉じ込めたような、そんな気持ちになった。
月や春は去年とはもう違うものになってしまっていたのか。
私だけが、去年のまま取り残されているというのに。
離宮の近くでトゥルバドールが歌っている。もの悲しいハープのメロディーと歌を聞いたのは、離宮の門番と月だけである。
読んでくださってありがとうございました。
こんな感じで、不定期に一話ずつ書いてみたいと思います。
もしリクエストがありましたら、こちらまで →https://marshmallow-qa.com/r2hd4faejwmbo8c
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