07 Shall we dance?
「おはようございます! お姉様っ」
朝のすがすがしい空気を肌に感じながら大食堂に足を踏み入れると、すぐさま甘い声が飛んでくる。声の主はわざわざ席を立ち、愛らしい笑みを浮かべて駆け寄って来た。
彼女の名はアリス・ハーティエ。この世界の主人公であり、私の生きる理由そのものでもある。
「おはようアリス。ルイスも」
アリスと共にテーブルについた私は、アリスとお揃いの素材の王子服を纏った美少年――アリスの双子の兄ルイスにも声をかけた。
「……おはようございます」
向かい側に座る彼は、渋々といった様子で感情の凍えた目を一瞬だけこちらに向けた。いつもの朝の光景だ。
豪華な朝食が、使用人の優雅な手つきで次々と並べられていく。以前は私一人で食べていたけれど、アリス達が来てから食事は三人で取るようになった。
誰の希望でもなく、使用人伝いの王命で。
ここが普通の家庭なら親睦を深めろという意図だろうけれど、ここは王家。しきたりという特殊な事情がある。単に、配膳や警備の手間を考えたものだろう。
というわけで、三度の食事はいずれもお通夜よろしく黙食である。
食器が鳴る音と、料理をサーブする使用人が歩く靴音しかしない。食べづらい、味がしないという弊害を生みそうな食卓だけれど、今の私にはこれが好都合だったりする。
「――ご馳走様」
3分20秒。まずまずだ。
食後の紅茶を最後の一滴まで飲み干し、私は立ち上がる。
二人の様子を盗み見ると、アリスは可愛らしい睨み顔でスープをつついており、ルイスは黙々とサラダを口に運んでいた。口に合わないのだろうか。
ここで「美味しくない?」と聞いてあげるのが良き姉だろう。だからこそ何も言ってあげられないのが申し訳ない。
「じゃあ二人共、ごきげんよう。――貴方、私の剣を」
「はっはい、こちらに」
私は素早く席を立ち、名前も知らない使用人の男性から自前の剣を受け取る。
「ありがとう」
その剣を鼻歌混じりに適当に振り回しながら、ゆっくりと出口へと向かう。そして扉近くの使用人の前で立ち止まり、私は深く息を吸いこんだ。この場にいる全員の耳に、間違いなく声が届くように。
「――じゃあ、今日も騎士たちと好きに遊んでいるから、昼食の時間に迎えをよこしてちょうだい!」
「か、かしこまりました」
扉が閉まる音を合図に表情筋を緩め、肩の力を抜く。……これで、今日も完璧だ。
――私がアリスたちと出会い、全てを終わらせようとしたあの日から、二年とひと月が経とうとしている。
結局あの日のことは誰にもバレていなかったらしく、私の中だけで収束した。今年で私は十四歳。アリスとルイスは十三歳となる。
互いに健康状態を保ち、日々学びながら人間的で文化的な生活を送って来たと思う。けれど、城の人間の私を見る目は変わった。
当然だろう。透明人間がいきなり自己主張……いや狂い始めたのだから。毎日剣の受け渡しをさせている使用人を始め、何だこいつという視線が日々突き刺さっている。
でも私は自分が狂っていないと信じているし、誰も死んでいないのがその証拠、というのは冗談にしても私は正常だ。矛盾しているけれど、どうか安心して不審がっていてほしい。
ならその奇行は何なのかといえば、アリスを守るための秘策である。
私は思った。シナリオの悲劇以前に、殺戮衝動に流されかけた二重人格(?)の私こそ、アリスにとって最も身近な脅威ではないかと。理性を保つという大前提を抜きにしても、対策は必要だろう。
どうすれば私自身からアリスを守ることができるのかと考えた末に出た結論、それがこの奇行。気狂いと思わせて嫌われることで、アリスの方から避けてもらおうという作戦だ。
といっても、アリスとの接点は基本的に三度の食事の席しかないので限られている。無い知恵を絞って考えついたのが、異常な早食い(近づきづらい)、唐突な鼻歌(怖い)、剣狂いアピール(危険)の三つだった。
始めは恥ずかしいやら慣れないやらで、我ながら酷い大根っぷりだったと思うけれど、良い手本があると気づいてからはかなり楽になった。
――そう。『エスロワ』のビビットその人である。
本物の危険な狂人である彼女をイメージすると、自分自身だからかかなり自然に動けるのだ。今では結構、演技も板に付いてきたのではないかと思う。
もちろん、その思考までは真似しない。というかできない。ビビットはこの時期アリスをいじめ抜いていたと回想にはあったけれど、地獄絵図である。私はアリスを守りたい。だから狂人を演じる。今できるのはそれだけだ。
私が使用人に剣の受け渡しと迎えを命じることで、しきたりに反しないかが気がかりだったけれど、彼らが裏で咎められているような様子はないので続行している。
これで私がとち狂ってアリスや周囲に危害をもたらしても、奇行に巻き込まれた勢が10:0で私が悪いと証言し、断罪してくれることだろう。抜け目はない。
「あっ。お姉様、ごきげんよう。お会いできてうれしいですっ!」
ただ一つ誤算だったのが、現時点でのアリスの私への態度に全く変化が見えないことだ。
「ア、アリス。ごきげんよう……」
アリスは食事の毎に欠かさず笑顔で挨拶をしてくれるどころか、廊下で偶然すれ違った際には必ず嬉しそうに声をかけてくれるのだ。……困ったことに。
「お姉様はこれから剣のお稽古ですか?」
「ええ、まあ……」
「私は、城下を見学に行くところなのです! ここのところ座学ばかりでしたので、久しぶりに体を動かせて嬉しいですっ」
アリスの顔はいつもキラキラと輝いてはいたけれど、時々疲労の色も見えた。元貴族といえど、王族として必要な知識や作法を身につけるべく、今は勉強漬けなのだろう。
「そ、そうなの。じゃあ、気をつけて、ね」
「はいっ。お姉様も、お気をつけて!」
しきたりが怖くないのかという疑問はあるけれど、私は何も言われていないのでアリスもなのだろう。何故か、見逃されているらしい。
ともかく、アリスは変わってくれない。こんな姉、嫌ではないのだろうか。私なら嫌だし、普通に怖いけれど。
思えばアリスは、容姿と肩書き以外は曲者揃いの攻略対象全員をルートごとに受け入れられる、大らかで広い心の持ち主だ。生半可な狂いでは、揺らがなくて当然かもしれない。
というわけで、私は焦っていた。
ゲーム開始日は、アリスとビビットの出会いから約二年後。目前に迫るその日までにどうにかして気狂いの姉として認識してもらいたいけれど、自分から会いに行って奇行を見せつけるのは加害だと思い悩んでいた、数日前のことだった。
日課の剣の鍛錬中。アリスがこっそりとその気配を現したのは。
「ふふふっ……アハハハハハハッ!」
ゲームのビビッドの高笑いを再現しながら、私は今日もドン引きしている騎士を相手に木刀で斬り込む。
毎日使用人には真剣を預けているけれど、私が日々使うのは木刀である。それを知らないアリスからするとなんとなく締まらないかもという理由で、私は彼に真剣の受け渡し役をさせている。重いし危ないし、管理とかも大変だろう。
現場をアリスに見られた以上、もはや彼との木刀のやり取りに意味はない。それでも効果があるかもしれないという淡い希望。加えて、単に辞め時が分からないという惰性で続けさせてしまっている。
事実を知った彼が床に剣を叩きつけるところを想像しながら私が剣を一振りすると、カンッ……! と狙い通りに騎士の真剣の先端が折れた。
陽の光に反射しながらくるくると宙を舞う剣先を目で追うフリをして、私は気配の方へと目を向ける。
――訓練場の隅。
木の影に隠れるようにして、今日もアリスはそこに立っていた。ここ数日、アリスは何度かああして私の訓練を見に来ているのだ。
今の私がいくら鍛錬しても無意味なところを、相手がいることだしと形だけでも続けていたのが功を奏した。ここでの奇行が最後の砦だけれど、今日までのアリスの様子からして効果はほとんど見込めない。
ただ、アリスは王室の勉強で忙しいはずなのに。わざわざ抜け出して来ているのだろうか。私的にはありがたいけれど、怒られたりしないのか。
何がアリスの興味を引いているのかは謎であるものの、わざわざ来てくれたのだ。せめてその胸中に、少しでも恐怖や不快感が生まれていることを全力で願う。
私は三度の食事より剣が好きな気狂いで、真剣の騎士相手に木刀で一本取るような化け物を演じているのだから。後半は事実なのが虚しいけれど、普通なら通報案件だ。存分に見てもらって構わないから、明日には猛烈に嫌われていたい。
――なにせ明日はいよいよ、ゲーム開始日。いよいよアリスの、この世界の運命が動きだす日なのだから。
アリスは、ぽかんと小さな唇を半開きにして、信じられないといった顔で落下途中の剣の先端を見上げている。騎士は代わりの剣を取りに行ったところだし、夕食の後にでも声を掛けようと思っていたけれど丁度いい。
「来ていたのね、アリス」
私は今気づいたような顔を作ってアリスに近づき、声をかけた。
「きゃっ、お姉様……!」
するとアリスはぴくんと肩を上下させて、一瞬にして涙目になった。
「っええと、勝手に見てしまってごめんなさい……。あのっ、あのっ、お疲れ様です……っ!」
「ありがとう。今、少し話せるかしら」
私がそう尋ねると、ぼっと火がついたようにアリスの顔が赤く染まっていく。
「えっ! あっ、はいっ」
シナリオのこともあるし、何を言われるか怖くて仕方ないのだろう。傍からはいじめに見えているかもしれない。手短に済ませよう。
「明日、騎士団の詰め所に用があるのだけど、よければ同行してほしいの。今は私の管轄だけれどいずれ貴方も関わることになるし、勉強の気晴らしのつもりで気楽に――」
「わっ、私でよろしければぜひっ、ご一緒させてください……!」
昨日考えておいた原稿の途中、アリスは前のめりになりながら同意してくれた。
ぷるぷると震えているのがまるで小動物のようだ。こんなに怖がらせてしまうなんて、命令に聞こえてしまったのかもしれない。
あと少しだから耐えて欲しいと願いながら、私は事前にアリス付きの侍女に確認を取って決めた出発時間と待ち合わせ場所を伝える。アリスの護衛にも付いて来られると邪魔なので、既に話は通してあるし、善意の塊であるアリスは予定さえ合えば誘いを断れない。
つまるところ、明日の予定は私が誘った時点で確定。互いに地獄の二人きりである。
本当は詰め所には用はないけれど、普段から騎士の世話になっている私が言えば誰も疑わないと踏んだ。アリスを連れ出したいというのも、私との会話を許容されているらしいアリス絡みだしいけるのではとダメ元で試みたところ、驚くほどに事はすんなりと運んだのだった。
「……じゃあ、明日はよろしくお願いね」
「はいっ、こちらこそよろしくお願いいたしますっ」
アリスは最後にお辞儀までしてくれた。
痛々しくて見ていられなかったけれど、今日のアリスの反応はかなり好感触だったことに気が付いたのは、眠りにつく直前だった。
よくよく考えてみれば、笑いながら木刀で真剣を叩き折った直後の人間に話しかけられたら、誰だって怖い。他の奇行も、案外効果があったのかもしれない。
よかった、けれど。
「はぁ……」
――明日、私はアリスを傷つける。
そのことに心が痛み、ため息をついた自分自身に嫌気がさした私は、現実から目を背けるようにして眠りについたのだった。




