06 たとえ世界を救えなくても
暗くて狭い通路の中を、頭の中の地図を頼りにただ歩く。
城の敷地内は方々に迷惑がかかるから除外。人気のない森とか、当分誰にも見つからない場所まで行きたいけれど、城内……特に王族居住区の警備は常に厳重だ。
――ひとまず、誰にも知られずに城外に出るべく、私は自室直通の非常用通路に入った。
有事の備えとして地図は暗記済み。普通に城を出るのに比べるとかなり遠回りだけれど、夜になる頃には外に出られるだろう。
カツンカツンと、ヒールの踵が床を打つ音が通路に木霊している。歩き始めてしばらく経って気づいたのだけれど、着替えてくればよかった。一人で終わらせるのに、顔合わせ用にいつぶりかに袖を通したドレス姿はないだろう。死体がthe 死んだ王女になってしまう。急いで部屋を出てしまったから失念していた。
まぁ、引き返すほどの失態ではないからいいけれど。部屋を出る前と比べて、気分も大分落ち着いてきたし。
今は絶対的にシナリオに反している自信があるからかもしれない。ビビットは非常用通路なんて使わなかっただろうし、こんなこと絶対考えないもの。
『エスロワ』のビビットはさっき、あの子を叩いたのだろうか。今はゲームにない時系列だから、真相は闇の中だ。けれどもし叩いていたなら、あの時の私にはシナリオの強制力のようなものが働いたのかもしれない。こんな現実逃避みたいな考え方、本当はしたくないけれど。
「仮にこの世界が、シナリオという絶対的な法則の元に存在しているのだとしたら……」
意図して法則に逆らい続けなければ、世界を変えることはできない。それにはシナリオか、今みたくビビットの行動原理に反し続けるしかないのだ。
まぁ世界の仕組みがどうであれ、不安定故に危険すぎる私には土台無理な話ではある。
今回は運良く未遂で済んだし、悪くても平手打ちだったから即自決はまぬがれたものの、ゲーム開始後はそうはいかない。「殺さずに済んでよかった」か「殺しちゃった」かの世界だなんて、冗談じゃないのだから。
何より私は、家族に殺意すら抱いた人でなしだ。まだ誰も手にかけていない今のうちに、全てを終わらせる。これが私にできる、唯一の贖罪だ。
『――!!』
『――――』
『――』
『――!』
壁の向こう側が騒がしい。騎士たちが、私が消えたことに気づいたのだろうか。まだ部屋を出てから一時間も経っていないはずなのだけれど。
この通路は、王族専用の部屋としか繋がっていない。
騎士の権限で入れる部屋からは私の気配を探ることはできないし、そもそも通路の存在を知るのは王族だけだ。優秀な彼らでも私を見つけることは不可能であり、後に処分が下るだろう。恨まれるだろうが、背に腹は変えられない。
まだまだ先は長い。それらしく人生でも振り返ろうかと記憶を遡ってみるも、何の感慨も湧いてこない。
時間を、無駄にしてきたわけじゃない。王女としての責務を果たす。そのために生まれてきたのだと信じて愚直に、前を向いているつもりだった。
けれど記憶を思い出した瞬間、その全てが私の罪になった。信じてきたものは幻で、信じること自体無意味だったのだと思い知らされた。
だってこの世界は、たった一人の少女の幸せのために存在している。
『――――。――いるのか、アリス!』
唐突に耳に飛び込んできたその名に、一際大きく跳ね上がった心臓がドクンと嫌な音を立てた。
何を思う前に足は歩みを中断し、お約束のように震え出す自分の体に焦燥と苛立ちを覚える。ここまで来ても尚、運命は私を逃すつもりはないらしい。
頭に響く動悸の音を恨めしく思いつつ、私は現状把握に思考を集中させる。
今は、王族居住区の中服あたりにいるはずだ。聞こえたのはルイスの声だったけれど、おかしい。この辺りは全域母様の生活区域で……違う。それは昨日までだ。
王妃の席が埋まったのだから、当然部屋も全て夫人のもの。あの子達も、今は夫人の部屋で過ごしているのだろう。その声が聞こえたということは、夫人の部屋に繋がる通路への入り口が近いというこお。
再び足を前に進める。目的地は変わらない。しかし向かう足は、進路とは別の道へと入り込んでいった。
やめた方がいい。やめなければならない。そう思うのに、足は止まらない。自分で自分が恐ろしい。だからこそこの選択をしたし、今更揺らいだりしない。この期に及んで、干渉しようだなんて思わない。でも。
この壁の向こう側にいるはずのあの子の声が今、どうしても聞きたい。
理解不能の欲求と自覚しながら、私の足が止まることはなく、とうとう夫人の部屋の通路口までたどり着いてしまった。一体何をやっているのか。自分が信じられない。
でももう、ここまで来てしまった。もはやすぐに戻るのも聞いて戻るのも大差ない。どうせもう、最期なのだから。
大丈夫、のはずだ。
非常用通路は侵入者防止のため、部屋の内側からしか開かない作りになっている。私に無手で壁を打ち破る力はないし、また我を失ったとしてもあの子に被害が及ぶことは絶対ない。
とはいえ念の為、一歩、二歩。十歩ほど後退り、自己満足でしかない保険をかけていると、やがてそれは聞こえてきた。
「――お兄様は、お姉様の何を見ていらしたの?」
求めていた甘く可憐な声音に、自分の中の何かが猛烈にうずいた。ただ今はそれより、その声に怒りの色が滲んでいたことの方が気になる。
私に叩かれそうになったと訴えているのだろうか。なのに信じてもらえないとか。自己嫌悪で体が床に沈みそうだ。
「それは僕のセリフだ。王女は間違いなくお前を叩こうとしていた。あれは毒にしかならない類……お前が庇うような人間ではないと何度言えば分かる?」
どうやら状況を誤認しているのはあの子の方らしい。それを彼が正そうとしている最中のようだ。信じられない。
「何度言われても分かりませんし、毒にしかならない人なんてどこにもいませんっ」
「いい加減にしろアリス! ここが王城だということをもう忘れたのか。その甘さと危機感の無さ、そんなんじゃ先が思いやられる」
「お兄様こそお忘れでは? 王子といえどお姉様の方が地位は上なのですよ。不敬を指摘されても私は庇いませんから!」
あの子のトラウマにならなかったことは心底安心した。けれど、あんな目にあっておいて私を庇うのは人が良すぎる。心の綺麗さと危機管理能力は反比例するのだろうか。
そう考えかけて、首を振る。もういい、戻ろう。十分満足したはずだ。そうして通路を振り返ろうとした瞬間、
激しく咳き込む声が壁の向こう側から響き、私は思わず動きを止めた。酷く苦しそうだった。
「お母様!」
「……アリス、ルイス、こちらに来なさい」
「母上。無理なさらないでください」
咳き込みながら二人を呼んだのは、夫人の声のようだ。昼間に会った時と比べて、随分弱々しく聞こえる。まるで別人だ。
けれどこれでまた一つ、この世界がシナリオ通りに動いていることが証明された。
「二人ともよく聞いて。あのお方……ビビット様をこれ以上一人にしては駄目よ」
やっぱり誰も抗えはしないのだと、余計なことを考えたせいで判断が遅れた。これ以上は聞くべきじゃないと気づくのが、少し遅すぎた。
「お姉様……?」
「王女を……?」
きっと今、私はあの子たちと同じ顔で同じことを思っているに違いない。いきなり何を言い出すのかと。
「ビビット様は今、深い孤独に囚われているの。孤独であることが、この世で一番辛いことなのよ。だからあなたたちがお傍にいてさしあげて」
私は人に、ましてや夫人に気にかけてもらっていい人間ではない。母様たちを見殺しにした罪人で、こんな風に言ってくれる人たちに殺意を抱いた悪役。どうしようもない、死んだ方がいい人間だ。
長居し過ぎたと自省しながら、今度こそ通路を振り返ると、手の甲が暖かい何かで濡れるのを感じた。
――またこれだ。本当に嫌気がさす。自分の体なのに、どうしてこうも思い通りにならないのか。
ドレスの袖で両目を抑えるも、一向に止まる気配がない。私は仕方なく、目を開いたまま上を向く。
誰も見ていないのだから、泣いていようが笑っていようがどうでもいい。終わりへと続く道をこのまま歩きたくないと思うのは、くだらない意地だ。
だから、もう何も聞きたくないのに。
「大丈夫ですお母様。私はもう、ビビットお姉様の妹なのですから。お姉様を孤独になんてさせません」
「アリス! お前、まだ、」
「それに、家族は共に在りたいと願うから家族なのだとお父様も言っていました。だから私も、信じていたいのです。お姉様もきっと想いは同じだって」
――怖い。
この涙は私か、『エスロワ』のビビットか。どちらの感情かが分からないから。
世界を救いたかったのは?
あの子を叩こうとしたのは?
家族を殺したかったのは?
どっちの私? どっちも私? 分からない、何もかも。
自分のことなのに何一つとして自信が持てない。前世や『エスロワ』の記憶だって、全て私の妄想という可能性もある。今日までずっと、不安で頭がどうにかなってしまいそうだった。
「ですからお母様も、ずっとそばに。お願いですから死なないで……っ」
涙混じりになったあの子の震えた声が、通路に響いた。悲鳴にも似た魂の叫びに、心が激しく揺さぶられる。目が乾いていくのを感じた私は顔から手を離し、通路口を振り返った。
……このまま時が過ぎれば、運命は確実にアリスをも蝕んでいくだろう。滅びへと向かうこの世界を救えるのは彼女だけ。悪役である私が消えても、それは変わらないはずだ。
――アリスは全てを失うことになる。
今の彼女が望みもしない、未来の彼女の幸せのために。ひ弱な彼女を、運命を切り開く剣士へと成長させるために。
私が消えれば、死体と絶望の数が減ることは間違いない。でもそれだけだ。仕方ないじゃない。私にはこれしか道がないのだし、世界を救うなんてはじめからできるはずがなかったのだから。
きっとアリスは分かってくれる。許してくれるに違いない。だって、この子はいい子だから。
私が頬を叩こうとして我に帰った時、ほんの一瞬だったけれど、アリスの瞳は恐怖に染まっていた。本当は全部分かっているはずだ。
『大丈夫ですお母様。私はもう、ビビットお姉様の妹なのですから。お姉様を孤独になんてさせません』
分かっているはず、なのに。
『家族は共に在りたいと願うから家族なのだとお父様も言っていました。だから私も、信じていたいのです。お姉様もきっと想いは同じだって』
アリスは、私を見捨てずにいてくれた。共に在りたいと言ってくれた。こんなにも駄目な私との未来を、この世界の光であるアリス自身が望んでくれた。
悪役の私には世界は救えない。でも、アリスを救うことは、義姉の私にしかできないことだ。
その道がどんなに険しくても、どんなに嫌われても、醜くても。まだ私が足掻く価値はーーある。あなたのおかげで今、そう思えた。だったらもう、
――生きる理由なんて、それだけでいいじゃない。
「アリス、わたくしは大丈夫ですよ」
「そうだ。滅多なことを言うなアリス。母上は必ずよくなる」
不安はある。でもここでアリスの運命から目を背けて、自分だけ逃げてしまうのは嫌だ。何一つ守れなかった過去を悔いるなら、アリスの想いに応えたいのなら、終わらせるのは今じゃない。
泣いている少女一人守れずに、運命を変えられるはずがないのだから。
「っでも、お母様まで死んでしまったら私……」
大丈夫。私が守る。何からも貴方を守るから。
赤い少女は再び、闇の中を一人歩いた。その瞳に涙の代わりに、強い決意を宿して。




