03 新しい家族
「アリスと申します。よろしくお願いいたします……ビビットお姉様」
固まったまま動けずにいる私に、アリスと名乗った美少女が小さな手を差し出してくる。その瞳を恐る恐る見つめ返すと、彼女はふわりと花が咲いたように笑った。
この子が、アリス。
この世界の主人公。世界を救う、『剣聖』となる少女。
一年前の事故で父親を亡くすまで、彼女はただの侯爵令嬢だった。そして今日からは再婚という大人の都合で王家の姓を名乗り、この城で暮らすことになる。
こうして今手を差し出している人間の本性も、これから待ち受ける悲劇も、何も知らない。今はただの、小さく哀れな義理の妹。
そして、彼女が自分の運命を知る日はこない。この世界に降りかかる悲劇は、私が全て破壊するのだから。
「――お姉様?」
驚きと心配が混ざった呼び声に、私は反射的に動きを止める。アリスに向けて伸ばした手は……
◆◆◆
「ビビット・ハーティエです。今日からは同じ王家の人間として、共にこの国を支えていきましょう」
うまく笑えているだろうか。きっと、いや絶対引きつっているに違いない。この人生ではまともな会話なんてしたことないもの。頰が痛い。
捻りのない定型文を口にした私に、目の前に佇む赤毛の美女が一歩進み出た。
「お初にお目にかかります、ビビット王女殿下。ソフィア・ココットと申します。大陸の宝である殿下のお目にかかり、今日こうしてご縁が繋がりましたこと、至極光栄に存じます」
見惚れるほどに美しいカーテシーを披露され、不慣れな私は固まることしかできず、知らずの内に記憶を遡っていた。
――記憶を思い出してから一週間。
私は今、今日から家族に加わるココット夫人はじめ、主人公たちとの顔合わせの場に立っている。そう、陛下が再婚されたのだ。この日が来ることは、ゲームの記憶で今年中と把握していた。
ただ、知らされるのが当日とは思わなかったけれど。
再婚と今日の日程については全て、数時間前に侍女の口から伝えられた。驚いた。そして主役の一人である陛下は今この場にいない。これも驚いた。この国で最も多忙な方だから、無理もないけれど。私も母様の葬式以来、その影すら見ていないのだから。
正直、一応私も関係者なのだからもう少し早めに言って欲しかった。せめて前日とか。支障があるのかといえばないのだけれど、私にとっては主人公との初対面だから心の準備とか……そうだ。呑気に考え事なんてしてる場合じゃない。
この場においての私の役割。それはこの場に平和に存在した後、速やかに退室すること。
ゲーム開始前である現状、回想でも語られることのなかったこの出会いの場に活かせる情報は皆無。最高権力者が私なので進行も私なのだろうけど、透明人間の如く生きてきた私には正直、かなり厳しい。
周りの大人に進行役を投げることも考えはしたけれど、普段関わりのない私が言っても職務放棄とパワハラになる。腹を括るしかないのだ。
私は再び表情筋に意識を集中させ、夫人に微笑みかける。
「陛下からお話は伺っています。母の妹君であられる貴方とお会いすることができて、とても嬉しいです」
夫人は主人公の母親で、私の母様の妹でもある。
つまりは叔母だけれど、今日まで会う機会はなく、記憶を思い出す前まではその存在すら知らなかった。母様と私と同じ赤髪赤目で線がとても細く、儚げな美人だ。
家庭内不和など疑われないよう、陛下に聞いたと嘘をついてみたけれど、会えて嬉しいというのは月並みにも程がある気がする。
「わたくしも、兼ねてよりお会いしたいと願っておりました。姉とはずっと手紙でやりとりしておりまして、いつか夫と共にビビット様にお目にかかりたいと話していたのです」
柔らかな笑みを浮かべる夫人に見つめられ、思わず目を見張る。夫人は、陳腐な表現も許容範囲らしい。立場上許させてしまったのかもしれないけれど、ありがたい。
内心頭を下げていると、柔らかく微笑んでいる夫人の顔色がみるみる青ざめていく。
「も、申し訳ございません! とんだご無礼を……!」
突然目の前に晒された夫人のつむじに、一瞬で思考が吹き飛ばされる。え?
いきなり、どうしたというのか。ほんのさっきまでにこにこ話してしてくれていたのに。これだから普段、人と話していないと困るのだ。
焦りと共に強張っていく表情筋を気にする余裕もなく、私は動きの鈍い頭を全力で回す。
ええと、私の顔が怖すぎて怯えさせた可能性は……ある。大いにある。悪役だもの。ならすぐにでも退出して……いや、彼女も貴人だ。頭を下げたからには何かもっと、相応の理由があると考える方が自然だ。
話の内容自体は機密に触れるようなものではない。問題があるすれば、話に出てきた人物?
母様か、ココット卿……ココット卿。
主人公の父親、ジルサンダー・ココットは、侯爵にしてハルジオン王国の筆頭宮廷魔術師。一年前の事故の際、彼を含む母様に付いていた者たちは全員殉職した……。
そこまで考え、ハッと息を呑む。
ココット卿は母様を守れなかった。そして彼が故人である今、世間の批判の向けどころは限られてくる。
――彼の妻であるココット夫人が、この城で卿や母様の名を語ること。それ自体が王家に対する不敬に当たる可能性は、十分考えられるだろう。
外れていたらと思うと怖い。ただこれ以上黙っていると、本当に気分を害したと取られかねない。一か八かだ。
「頭を上げてください。残された者にできるのは、思いを馳せることのみ。誰に咎められる道理などないでしょう。……違いますか?」
やってしまった。最後の最後で不安のあまり、控えているだけの従者にすがってしまった。城の者は全員、しきたりに縛られている私と必要外に関わると罰せられるのに。
全員に速攻で目を逸らされたけれど、皆顔面蒼白だった。当然だろう。蒸発したい。けれど王女のくせに貴族社会に馴染みのない私にはこれが限界だ。どうか許してほしい。
それよりも予想が間違いでなかったことを祈りたい。けれど合っていたなら、夫人も今日から王家の人間なのだから不敬も何もない。そもそも、先に母様の話をしたのは私だ。無礼なんてあり得ない。
それを言うなら私の方こそ、本当なら夫人を慰める資格すらないのに。
「……ビビット様の、仰る通りですね。寛大な御心に感謝いたします」
顔を上げた夫人が弱々しく微笑む。礼をとる肩が、震えている。
予想は、当たっていたのだろうか。ならば洗いざらいぶちまけて、床に頭を擦り付けてしまいたい。卿だって、私が殺したのと何も変わらないもの。謝るのも頭を下げるのも、全部私の役目だ。でもできない。
真実を告げ謝罪したところで、理解してはもらえないだろう。余計に苦しめるだけと知りながら、自分だけ楽になるなど許されない。
何か、別の話題で空気を変えよう。何かないか、夫人と共通の話題。
陛下に関しては私が一番知らないだろう。ココット卿とも、何度か城ですれ違っただけで話したことはない。赤の他人同然で……あ。
これだ。
「王弟であるココット卿が選んだ女性として、陛下も貴方を信用なされたのでしょう。私としても、喜ばしいことです」
陛下に関する私の知識は、使用人以下。ただ、ココット卿が王弟であるという事実は、さすがの私でも知っている。
陛下は“死んだ妻の妹”であり、“死んだ弟の妻”と再婚したのだ。国王と王弟は姉妹とそれぞれ結婚し、片方をなくした者同士が再婚した形だ。あり得なさが異世界らしい。あり得なすぎて、陛下のお気持ちがちっとも分からないし、私自身もどういう感情を抱くのが正解なのか分からない。
ただ、既に王家にとって無害と証明されている夫人が妃に選ばれたのはいい事だし、私からも卿の話題に触れることで少しでも夫人の慰めになればいい。悪いのは全て私なのだから。
「っありがとうございます。ビビット様にそう仰っていただけると、本当に嬉しいですわ。ご期待に応えられるよう、努めてまいります」
どうやら話題の転換は成功したらしい。さっきまで首を斬られる寸前のような顔をしていたから心配した。
夫人の柔和な笑顔に、私は小さく息をついたのだった。




