32 騎士の現実
ビビット様は、血の臭いがすると言っていた左の道へと俺を置いて去って行ってしまった。
「っビビット様……」
聖剣と共に一人残された俺の声は、自分でも呆れるくらい弱弱しい響きとなって洞窟の中に木霊した。
——追いかけるべきか。
青々とした光で俺の周囲を照らす聖剣を見つめながら迷い、俺は即座に首を横に振る。
ビビット様は剣聖なんだ。どこかも分からないこの洞窟の中でも、一度も迷うことなく俺を導いてくれた。俺を置いていくと即座に判断したのも、それが最善だという確信があったからだろう。
第一、俺が行ったところで何ができる? 足手まといでしかない俺が勝手に動く方が、ビビット様からしたら迷惑だろう。
――そう思い直し、俺は右の道へと入り込んだ。
ビビット様は大丈夫だろうか……。
暗い道を一人で歩いていると、どうしても思考が後ろ向きになってしまう。
ビビット様の実力が信じられないわけじゃない。俺とドミニクが死霊に襲われたあの日に呪われた時代は幕を開け、死霊の脅威と共にビビット様の剣技の凄まじさは大陸中に広まった。
それでも、俺は今ビビット様が心配だ。つまり俺は、本当の意味ではビビット様を信じられていないのだろうか。
俺は聖剣の水晶に目を落とし、その吸い込まれるような美しさにビビット様の瞳を思い浮かべた。するとふいに微かな風が頬を撫で、俺は足を止めた。
――洞窟の出口が近いんだ。やっぱり、ビビット様の言った通りじゃないか。俺なんかが迷う必要なんてどこにもない。
そう思いながらも、俺は父さんなら今どうするだろうかと考えてしまう。
父さんならまず、ビビット様の前を歩いてその御身をお守りしながら洞窟を散策するだろうな。有事に備えて剣を抜いて、周囲を警戒しながら先へ進むだろう。それに分かれ道では、その先にどんな危険が待っていようとも絶対にビビット様を一人で行かせたりはしないだろう。
——そう。絶対に……。
俺は頭に父さんの姿を思い浮かべながら、思い出した。俺は、何ができるかを考えてここまで来たんじゃない。ビビット様にお会いしたくて。自分がどうしたいのかを考えてここまで来たんだ。
瞳を閉じると、父さんの姿が瞼の裏に浮かび上がる。俺が何かに迷った時、父さんはいつも言っていた。
『エドガー、お前はどうしたいんだ?』
俺は目を開き、手に持った聖剣のベルトを両手で強く握りしめると、洞窟の中を全速力で駆け出した。来た道を戻って分かれ道までたどり着いた俺は、今度こそ迷うことなく左の道へと入り込んだ。呼吸が苦しくなり、口から息を吸う。
……ああ、俺はどこまで馬鹿だったんだろう。
信じられる人がどれだけたくさんいようとも、一番に信じるべきは自分の心だ。俺はビビット様を一人で行かせたくなかった。行かちゃダメだったんだ……!
洞窟の中の冷たい空気が肺の中を満たしていくが、体は発熱しているかのように熱い。
——すみません、ビビット様。俺は貴方を信じています。でも、それでも俺は貴方のそばに居たいんです。
心の中で謝りながら無我夢中で走っていると、微かに血の臭いがしてきた。ここまで来てようやく分かる程度の臭いにあの場で気がつくなんて、やっぱりビビット様は規格外なのだろう。
そう考えると、何事もなく敵を殲滅したビビット様が俺に笑みを向けてくださる光景が鮮明に思い浮かぶ。
きっと大丈夫だ。俺は予定よりも早く、ビビット様と合流するだけになるに違いない。
どんどん濃くなる血の臭いの方へと、飛び込むようにして踏み出した瞬間――
――右腕を血で真っ赤に染めた、ビビット様の背中が視界に飛び込んできた。
「――ビビット様!」
俺は絶叫するかのようにその名を叫んだ。勢弾かれたようにこちらを振り返ったビビット様は一瞬、凄まじい殺気を俺に向けた。
「エドガー……どうしてここに」
俺の顔を見るや表情を緩めたビビット様の右腕は、よく見ると肘から先が無くなっていた。包帯で止血はされているが、そんな怪我で平気な顔をして立ちながら言葉を喋っているのが信じられない。
一体誰がこんな仕打ちをとビビット様の背後に目を向けると、顔に手を当ててうずくまる瘦せ身の男の姿があった。その傍らには、ピクリとも動かない子供達が山積みにされている。
「ビッ、ビビット様が、血の臭いがすると呟いておられたのに、聖剣も持たずに行ってしまわれたから……。俺っ、心配で、戻ってきたら……っ」
口で荒く息をしながら俺はなんとか言葉を紡ぐ。言いながら俺はビビット様の右腕に目が釘付けになり、体の底で熱い何かが沸騰するような気がした。
「そう……。ありがとう、エドガー。ごめんなさい。格好悪いところを見せちゃったわね」
ビビット様は悲し気な目で俺を見ながら微笑んだ。
……騎士とは、剣と共に命を捧げる者のことだ。その身には当然の如く、常に命の危険が伴う。だからこそ騎士という身分は気高く、俺みたいな平民にとっては憧れの的で。
そしてこれが、騎士の現実なんだ――。
惨いとしか言いようのない光景を目の当たりにして、俺は自分が夢に描いていた理想の騎士像がいかに非現実的で生ぬるいものだったのかということを痛感させられた。
「いっいえ……俺は……っ」
――やるせない。
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか。ぐちゃぐちゃに混じり合ったそれらに心を搔き乱された俺は、気がつくと涙を流していた。
どうして俺はこんなにも無力なんだろう。俺は、自分で自分が嫌で仕方ない……!
「……そこで待っていて。すぐに終わらせるから」
何も言えなくなってしまった無様な俺に、ビビット様は優しく声をかけて男の方へと振り返った。
「いってえなあああぁあ!!!! 剣聖サマよおおおぉお!!!!!!」
うずくまっていた男は怒号を上げながら立ち上がり、片目が血だらけの凶悪な顔つきでビビット様を睨みつけた。そのおぞましく、敵意を剥き出しにした姿は只人であれば一目散に逃げだす程の威力がある。
でも、俺の心に恐怖は少したりとも湧いてこない。
地面をひと蹴りし、凄まじい速さで男の元へ飛んでいくビビット様の背中を見て、俺はようやく気がついた。
……俺は、騎士になりたかったんだ。
だから俺はドミニクの誘いに乗ったし、今この場に立っている。魔法の才能がなくても、どれだけ手を伸ばしても届かないと分かっていても、俺は夢を捨てられてなどいなかった。
それどころか、俺を守ってくれたビビット様の全てに強烈に魅せられたあの日から、俺は酷く傲慢でおこがましい願いすら抱いていた。
――ビビット様の剣となってその身をお守りしたいという、叶うはずのない愚かな願いを。
ビビット様は、左手に構えた木の枝で一瞬にして男を気絶させた。そして地面に横たわっていた一人の子供のそばにしゃがみこみ、安心させるようにその身を優しく抱きしめた。
ほっとしたのか泣き出す子供の背中を撫でた後、ビビット様は地面に転がっている自分の腕を拾い上げた。
「ビ、ビビット様……」
俺はビビット様のそばに駆け寄って声をかけたものの、何を言えばいいのか分からなかった。もう二度と剣を振れないかもしれない重症を負っているというのに、その表情に疲労の色は少しもない。
黙りこくる俺を案じたのか、ビビット様は眉尻を下げて微笑んだ。
「そんな顔をしなくても、あの男はもう起きてこないから大丈夫よ。……あっ。でも意識がない子供たちの安否は、治癒術師に見せないと分からないけれど……」
ビビット様は自分のことには一切触れずに、ただ俺と子供たちを案じてみせた。
「俺は貴方のようには、決してなれない……」
ビビット様は剣聖の名にふさわしく、まさしく騎士の鏡として俺の目に映った。
そして俺はついに、決定的に、今日まで引きずり続けてきた夢に終わりを告げたのだった。




