29 彼が終わる日
「じゃあ、また後で合流しましょう!」
私は戸惑いを隠せない様子のエドガーをその場に置いて、左の道に向かって走り出した。
全速力の私の耳には、ヒューヒューと空を切る音が聞こえている。どんどん血の臭いが濃くなっていくと同時に、子供の泣き声のような音が聞こえて来た。
まさか、この洞窟に連続子供失踪事件の犯人が……?
私は嫌な予感に苛まれながら洞窟の中を駆け抜け、ふいにぴたりと足を止めた。動悸の音がドクドクと頭に響く中、目の前には――
――血だらけの地面の上で泣き喚く子供と、その子供の上に跨る、細身の男の姿があった。
その傍らには、死んだように動かない子供たちがまるで荷物のように積み重ねられている。
「……あはっ」
人は、どうしようもない怒りを感じた時ほど頭が冷えて冷静になれると、前世で何かの本で読んだのだけれど、どうやらそれは本当だったらしい。
噛み締めた口の中に鉄の味が広がっていくのを感じながら私は思いっきり地面を蹴り、子供の上に跨る男の頭を掴むと、勢いのままに地面に叩きつけた。
「ガッ!!!!」
私が触れる前の刹那、こちらを見て目を見開いた男は、地面に頭がぶつかった瞬間白目を剥いて呻いた。その様を眺めながら、私は自分の体の底にある冷たい氷のような何かがピキリと音を立てた気がした。
「――この期に及んで気絶のフリだなんて、許されるとでも思っているの?」
白目を剥いたまま動こうとしない男の腹を蹴り上げると、男は「グアッ……!」と呻き、敵意を剥き出しにした目で私を睨んだ。
「っぃぃいってえなあぁ……。オイオイオイオイ、出会い頭にひでぇじゃねえか。アンタ、噂の剣聖サマだろ? 民を守るのがアンタの使命なんじゃあねぇのかよぉ……?」
男は腹を押さえながらよろよろと立ち上がり、口から血と歯を吐きながら言った。
「そうね。でも、悪党を守る義務は私にはないの。そもそも、貴方の居場所は牢獄でしょう?」
「ケッ……! 言ってくれるじゃねぇの……」
男はへらへら笑いながら、私に近づいて来る。気絶させるのはいつでもできるけれど、それはこの男が今ここで何をしていたのか吐かせてからだ。
そう考え、私が再び口を開こうとしたその瞬間。
「……!」
――骨が抜けるような感覚と共に、私の右肘から先がボトリと地面に転がり落ちた。
途端に噴水の如く肘から血が吹き出すのを横目に見ながら、私は即座に左手をジャケットに忍ばせ、つかんだ包帯で口と手を使って腕を縛って止血をする。
すると、男がケラケラと笑いながら手を叩いた。
「オイオイオイ、声も上げねえとはさすがだけどよぉ、皆の英雄様がオレみてぇな悪党一人にそんな重症負わされちまっていいのかよぉ? もう剣も振れねえなぁ? この国ももうお終いってか、ケハハハハハハハハハハッ!!!!」
可笑しくて堪らない、と言うように笑い声を上げる男を眺めながら、私は思考を巡らせる。
男は私の右腕が落ちる前に、一瞬宙に手をかざすような妙な動きをしていた。恐らくそれが、この男が持つ才の力なのだろう。魔力を介さない才の力は、魔法の効かない私にも通用してしまう。
私は積み重ねられた子供たちに目を向け、一つの結論に辿り着いた。
「――貴方、人身売買に手を出したのね?」
私がそう告げると、男は目を見開き、口元を歪めた。
「ケハハッ。……こりゃあ驚いたぜ。自分の落ちた腕よりも、現状把握が先ってか? 今だから言うけどなぁ、さっきのアンタの蹴り、結構効いてたんだぜぇ? 立ってるのがやっとだったってのによぉ、もう動けるようになっちまった! どうするよぉ、剣聖サマ?! さっさと逃げてりゃぁ、てめぇの命だけは助かったのになぁ!」
「私のことなんてどうでもいいから、答えなさい。――貴方、人身売買業者の仲介人なんでしょう」
「ケッ。――あぁそうさ! アンタたちみてぇなお偉いサマは知らねぇだろうがなぁ、この呪われた時代ほどオレみてぇな人間にとってやりやすい時期はねぇのさ! 何やらかしてもバレなければ、ぜぇんぶ死霊に濡れ衣着せちまえるんだからなぁ!」
その言葉に、私は背筋が冷たくなっていくのを感じた。この男が言うことが本当なら、彼以外にも同じ考えで悪事に手を染めている人間が、国内外に大勢いるということになる。
「そう……。教えてくれてありがとう。貴方のおかげで、私もこの国の騎士もこれから動きやすくなるわ」
「これからぁ? ケハハハハハッ!! 笑わせてくれるぜ、剣聖サマよぉ。死人は喋らねぇんだぜぇ? 今日がアンタの最期の――」
プチッ。
「いってええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!」
柔らかいものが潰れる音と共に、男の絶叫が洞窟の中に反響する。
私がここへ来るまでの間、戦闘になった時のためにジャケットに入れていた小石を左手で投げ、彼の右目を潰したのだ。
男が血が滴る目を押さえて呻いている間に、私は何か使えるものがないか辺りを見回した。すると、男が焚火をした後のものだろう。木の枝が固まっているのを見つけた私は、その一本を左手に握りしめた。
「――ビビット様!」
背後からの叫び声に振り返ると、息を切らしたエドガーが顔を真っ青にして立っていた。
「エドガー……どうしてここに」
「ビッ、ビビット様が、血の臭いがすると呟いておられたのに、聖剣も持たずに行ってしまわれたから……。俺っ、心配で、戻ってきたら……っ」
ゼエゼエ言いながら話してくれたエドガーの目は、血だらけの上に肘から先がなくなっている私のジャケットに釘付けになっている。
「そう……。ありがとう、エドガー。ごめんなさい。格好悪いところを見せちゃったわね」
血の臭いに気がついた時、私は声に出していないつもりだったのに。あの時から私は冷静ではなかったのだろう。そのせいで、エドガーには見なくて済むはずだったものを見せてしまった。
「いっいえ……俺は……っ!」
エドガーは全身を震わせながら、その瞳から涙をポロポロと流し始めた。
それを見て、私はまた自分自身に失望する。どうして私は、傷つけたくないと願う人たちをいつも守れないのだろう。
「……そこで待っていて。すぐに終わらせるから」
情けない自分への怒りで左手が震えるのを感じながら、私はエドガーに笑いかけ、再び男へと振り返った。
「いってえなあああぁぁ!!!! 剣聖サマよおおおぉぉお!!!!!!」
地面にうずくまっていた男が叫びともに立ち上がるのを見ながら、私は地面を強く蹴る。そして彼が私の間合いに入った瞬間、左手に構えた木の枝で、男の首の横を打った。
「ウッ……!!」
男は白目を剥き、地面に崩れ落ちた。頸動脈を打ったから、間違いなく気絶しているはずだ。
私は腰を屈めて男の容態を確認した後、泣いていた子供の前まで歩いていき、その場にしゃがみこむ。
「怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
そう言うと、子供は静かに起き上がり、瞳から大量の涙を流し始めた。私はその背中を左手で抱きしめてからそっとその場を離れ、落ちた自分の右腕を取りに行った。
「ビ、ビビット様……」
丁度腕を拾い上げたところで、エドガーが青い顔で近づいてきた。涙はもう止まっているが、無傷のはずの彼は今にも死にそうな顔をしている。
「そんな顔をしなくても、あの男はもう起きてこないから大丈夫よ。……あっ。でも意識がない子供たちの安否は、治癒術師に診せないと分からないけれど……」
そう言うと、エドガーは苦虫を噛み潰したような顔で首を激しく振ったかと思うと、視線を地面に向けて言った。
「俺は貴方のようには、決してなれない……」
その言葉には、エドガーの絶望が込められていた。こんな現場を見たのだから、当然だろう。
私にとっては嬉しいことのはずなのに、何故か胸がずきりと痛んだ気がした。
――その後、私はエドガーと協力して子供たちを洞窟の出口へと運んだ。エドガーは全員自分が、と言ったけれど、大丈夫だからと私も片手の限界である三人ずつ運んだ。
その間に、この洞窟の周辺に散り散りに転移されたのだという騎士たちが私たちを見つけてくれ、騎士団本部に連絡を取ることができ、事態はひと段落したのだった。
私は、騎士たちの輪から離れた場所でまだ青い顔をして立っているエドガーの元へ行き、彼に預けたままだった聖剣とベルトを左手で受け取った。そしてベルトの中から一つの小瓶を取り出し、中の液体を全部右肘の切り口にかけ、取れた右腕を押し付けて包帯で固定した。
「そ、その怪我は……」
「治るわ。少し時間はかかるけれどね。城の薬はよく効くの」
「よかった、です……」
力ない声で私を心配してくれたエドガーの様子に、さすがに申し訳なくなった私は彼の目を見て言った。
「エドガー。今日私が話したこと、そして貴方に見せてしまったもの、全て忘れなさい」
するとエドガーは、目をまんまるにして私を見た。
「――えっ?」
意味がわからない、と言いたげな顔のエドガーに、それはそうよねと思いながらも私は小さく頷いた。
「私も、忘れることにするわ。貴方は今日詰め所には来なかったし、私と一緒に洞窟に転移されたりなんてしていない。――ねっ。だから貴方は明日からも、貴方の普通の生活を送るの」
「普通の、生活……?」
私は夕暮れの空に目を向けながら言い、エドガーの疑問には答えずに、部隊に報告をするために騎士たちの方へ向かった。
――そして、その翌日。
右腕を包帯で吊った私の前に、橙色の髪と鈍色の瞳の美少年が現れた。
「ビビット様! 俺……本日より、王国騎士団に入隊いたしました!」
彼は――エドガーは、真新しい王国騎士団の年少部隊の制服を身に纏い、瞳に強い光を宿して私にそう告げたのだった。




