24 ルイス・ハーティエ
――初めて目にした王城は、外装から部屋の家具まで全てが白で統一されており、なんとなく潔癖そうな国王の住まう城にはぴったりだと思った記憶がある。
城に入った初日、早速王女に面会することになった僕たちはすぐに支度をした。
母上も、早々に宮廷治癒術師による最高峰の治癒術を施された後、用意されたドレスを纏った。その姿は家にいた頃の母上の何倍も明るく見えて、僕は自分の憎しみを押し殺してでも城へ来てよかったとこっそり涙ぐんだ。
前もって面会の場に国王は来ないと言われていたから、僕は支度を終えて時間を待っている間、王家の一人娘である王女のことを考えていた。
父上がよく話していたのだ。王女は生まれながらに剣の天才で、この国の騎士には既にその腕に敵う者が一人もいないため、剣豪と謳われているのだと。
それを聞いて僕は父上との練習に一層気合が入った記憶があるが、父上は王女の話をする度こうも言っていた。
連合国の長きに渡る風習に縛られているこの国による王女に対する仕打ちは惨く、自分は到底許すことができないと。けれど、王弟であるが故に王位継承者ではなかった父上は、この国の法に乗っ取り王家の身分を捨てているため王室への発言権がなく、止めることができないと悔しそうに顔を歪めていた。
だから僕は、想像していた。
生まれながらに剣の才能に恵まれた上、呪われた時代が待ち受けるこの世に王族として生まれたばかりに、日々血生臭い訓練に耐え続け、壊れた人形のように身も心もボロボロになった弱弱しい王女の姿を。
僕を脅した国王の子供であり、憎きこの国の騎士に鍛えられてきた王女に思うところがないわけはなかったが、それでも僕はその境遇には同情していた。
――しかしその想像は、最悪の形で裏切られたのだった。
母上に引きつった笑みを浮かべ、初対面のアリスの頬を叩こうとした王女を、僕は即刻敵認定した。
それから二年間、王女は僕の予想通りに気狂いとして振舞ってみせた。そして突然アリスを詰め所へと連れ出し、死霊の脅威を見せつけて心に傷を負わせた日に、王女は剣聖となった。
僕は城に入る前から、アリスや母上の命が危機に晒されるような事態となった暁には、たとえ追われる身になろうとも三人で城を抜け出そうと決めていた。しかしそうなれば母上の病は間違いなく悪化するだろうし、当然僕やアリスとて無事では済まない。
だから僕はパーティーの最中、自分たちの身の振り方を決めるために、王女が黒である確証を得るべく彼女を中庭に呼び出したのだ。
「お前が剣聖なら、伝説の勇者なんだったらなんで! なんで自分の母親すら救えない!? 父上から何度も聞かされた。王女は剣の天才だと。まだ幼いのに、この国には王女に敵う剣士はいないのだと。それほどの実力があるくせに、実の母親すら救えず、僕の父上もろとも死なせたお前らに、騎士なんかに、何が守れる!?」
今にして思えば、僕は王女を敵と見なしながらも、この時から既に甘えていた部分があったのかもしれない。
「城に来て、実際に会って僕は確信したんだ! いつ何時も狂ったように剣にしか気を向けていないお前を見て! お前は、お前らは騎士は、何も見ちゃいない。全員、狂ってるんだ! そんなやつらの行動が、言葉が信じられると思うか? 何か言い返せるなら言ってみろ、この狂人が!!」
気がつくと、誰にもぶつけるつもりのなかった自分ですら知らなかった激情すら僕は王女にぶつけていた。
「ルイス、怪我はない?」
僕の短剣が深々と突き刺さった右肩から血を流しながら、それでも王女はまるで痛みなど感じていないかのように微笑み、僕の身を案じた。
それが僕には、怖かった。
王女を信じてしまったせいでアリスや母上を失うことにでもなったら、僕は悔やんでも悔やみきれないからだ。
――そしてその夜。
案の定寝言でアリスへの呪詛を吐いていたビビットを僕は黒と確定し、母上を亡くした朝にビビットを殺そうとして、アリスに頬を叩かれた。
アリスは幼い頃から虫も殺せない程生き物や人が好きで、暴言や暴力を嫌う。それこそ誰かに手を上げたことなどこれまで一度もなかっただけに、僕は一瞬ビビットへの殺意を忘れた。
そんな中、治癒術師までもが変なことを言い出し、苛立った僕にアリスは言ったのだった。
「全てはお姉様のおかげなのです。王立魔法研究所でこの国に剣聖が誕生した時のために開発された、“体の成長を遅らせる魔道具”。お姉様のために作られた、この世界に一つしかない貴重なものだそうです。それをお姉様は、自分よりお母様にとお譲りくださったのですよ」
亡くなった……いや、ビビットに殺されたはずの母上が生きている……?
僕はアリスの言葉に半信半疑で母上のベッドに近づき、微かな寝息を立てながら安らかに眠る母上の寝顔を見て、その場に崩れ落ちそうになるくらい安堵した。でも、そこまで貴重な魔道具をビビットが母上に譲る理由が分からない。
床に座っていたビビットは、僕とアリスの視線を受けて立ち上がり、微かに頷いてから口を開いた。
「……ええ。剣聖が長寿であればあるほど、連合国の平和も長く続くことになるわ。そのために、かつてこの国に存在したという“停止の才”を持つ者が残していった力を何十年もかけて閉じ込めてできた、力の水晶なんですって」
「なんで……。なんでお前は、そんな貴重なものを母上に……」
聞けば聞くほど魔道具の価値が僕の中で高まっていくばかりで、目の前で語るビビットは幻なのではないかと思える程、僕の頭の中は疑問でいっぱいだった。
「だって私は剣聖だけれど、その前に貴方たちの義姉だもの。貴方たちの幸せのためなら、なんだってするわ」
僕の疑問に即答してみせたビビットには……姉上にはきっと初めから、僕の心の内など全てお見通しだったのだろうと、今はそう思う。
「ルイス……。大切な人を守れないことは、酷く辛いことよね」
父上は、誰より強い人だった。
だからこそ父上を失い、母上が倒れ、毎日泣きじゃくるアリスを見て、思い知らされた。僕には何の力もないということを。
僕は父上や騎士を憎みながらも、僕自身の力がそれよりも遥に劣っているということは分かっていた。
――母上とアリスを守ることができるのは、もう僕しかいない。しかし、僕は無力だった。
そんな僕の絶望をとっくに見抜いていたのであろう姉上は、そっと寄り添うようにその心の内を語ってくれた。
「母様を救えなかったこと、私は生涯悔やむでしょう。私は母様と過ごす時間がほとんどなかったから、会って話したいことが今はあるけれど、それはもう叶わない。あたり前かもしれないけれど、大切な誰かに置いていかれてしまった人は皆、心に傷を負うのだと思うわ」
……ああ、同じだったんだ。
狂ったような言動を続けていた姉上も、肉親を失った僕たちと同様に心を痛めていた。僕はそんなあたり前のことに、この時ようやく気づかされた。
「けれどね、ルイス。人は皆、いつかは死んでしまう。大切な誰かを永遠に守り続けることは、どれだけ愛が深くても誰にもできないことなの。だから人は、生きている間にその願いを、大切な誰かに託すのだと私は思うわ。そう、貴方たちのお父様のように……」
でも父上を語られた途端、カッと頭に血が上った。
「っお前に、父上の何が分かるっ……! 何も知らないくせに、知ったようなことを――」
きっと僕は、怖かったのだと思う。……ずっと抱き続けてきた父上への憎しみが、間違いだと指摘されてしまうことが。
「分かるわよ」
この時の僕は、ほとんど自分の過ちに気づいていながら、それを認めたくなかったのだろう。無自覚ながらに、完全に姉上の優しさに甘えてしまっていたのだ。
「だってルイス。貴方は昨日、一人で私を呼び出したでしょう。そして今日は私を殺そうとしてまで、夫人とアリスを守ろうとしたじゃない。それは、貴方がお父様の代わりになろうと必死に頑張っているからでしょう? それはきっと、貴方のお父様が家族を守りたいという願いを貴方に託していたからだと思うの。……ルイスは、どう思う?」
そう優しく問われた瞬間――。
父上との最後の会話や、アリスや母上に見守られながら鍛えられた日々。父上が語ってくれた王室に仕える志など、僕が心の底から尊敬し、憧れた父上との思い出が頭の中を駆け巡った。
「っ父上は……っ。任務の前は僕にいつもっ、母上とアリスを頼むと、僕に……っ」
父上との時間は、僕にとって全て大切なものだった。決して憎んでいいような人ではないと、他の誰より僕が知っていたはずなのに……!
「ねっ、やっぱり。貴方のお父様や、ルイス、貴方自身も、大切な家族のために頑張ってきた。その全てが繋がって、今こうして皆が生きているのよ。……今まで、一人でよく頑張ったわね」
――姉上は醜い僕の全てを受け入れ、称え、労ってくれた。
己が使命のために日々腕を磨き、僕に願いを託してくれていた父上は尊い人であり、気高くして亡くなったのだと、そう僕に教えてくれた。
それどころか――
「――我、剣聖、ビビット・フォン・ハーティエは、賢者の末裔たるハーティエに名を連ねる者として、この身は連合国が平和のために。……そしてこの魂は、ハーティエ一族の平和に捧げることを、今ここに誓います」
その言葉に、姉上の心の全てがこめられた誓いに僕がどれだけ救われたか。きっと姉上にだって分からないだろう。
連合国共通の宝である剣聖が、僕たち一族に魂を捧げてくれた。これよりも大きな庇護は、この大陸には一つたりとも存在しないのだから。
「僕はっ、僕は姉上に何度も酷い言葉をぶつけた。ただ一心に、僕たちを想い続けてくれていた貴方に僕は、僕は今までなんてことを……っ!」
だからこそ、僕は許せなかった。
幾度も口汚い言葉で姉上を罵り、その誰より清く優しい心を信じようともせず、あろうことか剣さえ向けた己のことが。
それでも姉上は、僕の身勝手な自責の念さえも優しく受け止めてくれた。
「ルイス、そんなに自分を責めなくても大丈夫よ。私は貴方に少しも傷つけられてなどいないし、さっきも言ったけれど、私達は心から会話したからこそ、こうして今日仲直りできたじゃない」
「仲、直り……」
少しも傷つけられていないなんて、嘘だ。
だって僕は、昨夜確かに死霊から姉上に庇われ、姉上は決して軽くない怪我を負った。言葉でだって、姉上も同じく家族を失った一人であるのに、僕はその心の傷を抉るような無礼を何度も……。
その時、僕は気がついた。
姉上は――このお方は、どんな傷であろうと受け入れ、笑ってそれを隠してしまうのだと。
そう。あの日、騎士に怪我を見られた時に僕を一言も責めなかったように……。僕たちの前で狂ったような言動を続けていたのも、きっと僕たちに嫌われようとわざとそう振る舞っていたのだろう。
今なら分かる。――姉上は、剣聖として戦い続けなければならない己の宿命に、僕たち二人を巻き込みたくなかったのだ。
それにアリスは始めから気づいていたから、僕が何度しかっても姉上と関わることをやめようとしなかったんだ。……ああ、なんて僕は愚かだったのだろう。
姉上は王女としても剣聖としても、優しすぎる方なのだ。そして恐らく姉上には、その自覚さえない――。
この時僕は、父上が姉上の境遇を変えられないことを悔やんでいたときの気持ちが、少しだけ分かった気がした。
連合国の平和にその身の全てを捧げる宿命を抱いて生まれてきてしまった姉上は、これから心身にどんな傷を負ったとしても、その痛みを決して人に見せようとはしないだろう。
それが姉上の優しさなのだと、そう言い切ってしまうこともできる。でも姉上を想う僕たちからすれば、辛いと感じることさえできなくなってしまった姉上に対して、心が痛まないはずがない。
姉上は、僕を大切な弟だと言ってくれた。きっと今までもずっとそう思ってくれていたのだろう。
でも姉上は、僕が姉上にしてしまったように、僕やアリスに怒りや悲しみ、憎しみといった痛みをぶつけてくれはしないだろう。
痛みを痛みだと認識すらしていない姉上には、恐らくそんなこと思いつきもしないのだろうが、認識できたとしてぶつけられる相手も恐らくは……。
今のまま、僕が甘えるばかりの弟でいることを姉上は受け入れてくれるだろう。けれど僕は、それを許さない。
――本当の意味での、姉上の家族になる。
そしていつか姉上が自分自身の痛みに気づき、耐えられなくなった時、その全てを受け入れられるような人間に、僕はなりたい。
そのためにまず僕ができることは、王太子としてこの城で実績を積み上げることだ。
だから僕は、もう甘えない。父上にも、姉上にも。自分自身にさえ、甘えることを許さない。
「――なら僕もここに、姉上に誓います。僕はこの国の……ハルジオン王国の第一王子として、姉上が平和をもたらした世界でこの国と家族を守り続けると。……願いを託していくことを、誓います」
たとえこの身がどれだけ傷つこうとも、必ず成し遂げて見せる。姉上が頼れる弟に、姉上に託してもらえる王太子になるためならなんだってする。
――姉上。
いつか僕も貴方のように眩しく、何にも折れない一振りの剣のような立派な剣士になってみせます。
だからどうか、どうか僕を見ていてください――
「……姉上」
目を覚ますと、僕は羽ペンを握ったまま机の上の羊皮紙の上に頬をくっつけていた。部屋の中は、白く眩い朝日に優しく照らされている。
僕は身支度を整え、朝食をとりに大食堂へ向おうと部屋を出る前にふと思い出し、立ち止まる。
腰に携えた長剣を見下ろし、その柄にそっと指先で触れてから小さく頷くと、僕は扉の向こう側へと力強く一歩を踏み出したのだった。




