01 醒めない悪夢
三月とはいえ、春が来たとはまだ言い難い。
季節の変わり目に毛布も掛けず、床の上で目を覚ました私は、冷え切った体をゆっくりと起こす。
白い陽光がカーテンの隙間から差し込み、遠くから聞こえる小鳥たちのさえずりが朝を知らせている。まさに、平和そのものだ。もっとも、昨夜極めて特殊な事象に見舞われた私には悲報でしかないけれど。
すがる思いで首を回し、室内を見渡す。
白を基調としたロココ調。恐ろしく広い上に、恐ろしく豪華だ。
ここが超高級ホテルのスウィートなら納得できるものの、子供一人に与えられた私室である。これまで気にしたことなどなかったけれど、明らかに普通ではない。
つまりは、そういうことになのだ。
「全部、夢ならよかったのに」
絶望をため息と共に吐き出しながら、脳が本物と認識した現実を受け入れる。
――乙女ゲームのキャラクターとして生きているという、悪夢のような現実を。
事の発端は昨夜。
眠る前に紅茶の入ったティーポットを落として割り、片付ける途中で足を滑らせ転倒。後頭部から床に着地した衝撃で前世と言えば正しいのかも分からない記憶が蘇り、今に至る。我ながらなんて間抜けなのか。
「……あ」
ふと足元を見ると、盛大に散らかったティーポットの破片が紅茶の水溜りに浸っていた。
この部屋に掃除用具があるはずもなく。私はしばらく考えた後、備え付けのクローゼットからネグリジェを二枚引っ張り出した。
一枚を雑巾代わりにして床を拭いていく。生地がつるつるしていて拭きにくいし、体が重い。昨晩の疲労が残っているのだろうと、震える手を見ながら思う。
他人の記憶がとめどなく押し寄せる感覚というのは、筆舌に尽くし難く、永遠に続くかのようだった。気がついたら朝だったから、そのまま気を失ったということだ。こんなことが現実に起こり得るなんて、信じられない。信じたくなかった。
慣れない作業に苦戦しつつ床を拭き切った私は、床に敷いたもう一枚のネグリジェの上に破片と紅茶を吸わせたネグリジェを乗せ、風呂敷のようにそれらを包んだ。そっと持ち上げて部屋の隅に置き、床に座って息を吐く。以前の私ならこれくらい、掃除のうちにも入らなかったのに。
壁に背をつけてふと、前世(仮)を思い返す。
――私は、人生の大半を孤児院で過ごした。
父は幼い頃に家を出て行き、母は女手一つで私を育ててくれた。けれど無理が祟って病気になり、私が六歳の頃に長期入院が決まった。頼れる親族のいない私は孤児院に預けられたのだ。
寂しくて、悲しくて堪らなかった。世界で一番不幸なのは自分だと思いこみ、事情のない子などいない孤児院で堂々と毎日泣きじゃくった。
さぞ忌々しかったに違いないのに、咎められることはなかった。それどころか、いくらでも泣いていいよ。一人じゃないよと、いつも誰かがそばに居てくれた。
手のかかる妹のように扱われ、孤児院での生活に慣れ始めた頃、自然と涙は枯れていた。
少しずつ、他の子同様楽しく日々を過ごせるようになり、やがて私も小さい子たちの面倒を見る側になった。泣いたり笑ったり、毎日大騒ぎで。それこそちょっとした掃除なんかは、日常茶飯事だった。けれどそれが楽しくて、大切だった。
だからこそ、留まり続けるわけにはいかなくて。
高校卒業を迎え、隣町の役所への就職を決めた私は、孤児院からそう遠くない土地で一人暮らしをすることにした。別れを惜しんでくれる皆に、「いつでもまた会いに来るから」と約束をして。
けれど、その約束が果たされることはなかった。
仕事が始まる数日前のある日――。
夕方買い出しに出かけた私は、道の曲がり角を猛スピードで突っ込んできた自転車に撥ねられ、死んでしまった。
皆、私の訃報を知ってどう思っただろう。いい子たちだったから、泣かせてしまったかもしれない。⬛︎⬛︎と⬛︎⬛︎は、きっと怒っているだろう。
「約束、守れなくてごめんなさい」
皆とはもう、二度と会えない。過去も思い出も全部、この世界では私の記憶の中にしか存在しない。
私は今度こそ、本当に一人になってしまった。
何気なく部屋を見渡し、あまりの広さと静けさに怖気を感じて両手で肩を抱く。ふと、扉の傍らに立て掛けてある長剣が目に入る。すると一気に目の前の現実へと意識が引っ張られ、さらに気分が沈んでいく。
――この世界は、『エスプリ・ロワイヤル』という前世の乙女ゲームだとほとんど確信している。確か『エスロワ』と呼ばれていたはずだ。
主要人物は、全員が王族。剣と魔法の栄える四つの王国を舞台に、主人公と攻略対象たちが『死霊』という人類の害敵と戦いながら、恋を育てていくゲーム。
合間に挟まれる静止画の半分以上に鮮血が散る、物騒な商品だった。そのイメージに背くことなく、私も二歳の頃から剣に触れている。魔法の才能はからっきしだけれど。
⬛︎⬛︎の勧めで借り物をプレイした私は、ファンではない。けれど中々クリアできず何度もやり直したおかげで、細部まで思い出せそうだ。これだけは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
――私の名は、ビビット・ハーティエ。
ハルジオンという名の王国に生まれ、王女という地位の元、この王城で暮らしている。
王国、王女、王城。
⬛︎⬛︎で生まれ育った私には縁遠い響きだけれど、この身分で生まれてもう……十二年になる。ビビットとして歳を重ねてきたことに違和感はない。
問題は、一国の王女という肩書きに昨夜から付け加えられた要素。『設定』と呼ぶのだったか。
ビビット・ハーティエ
(CV.⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎)
ハルジオン王国の第一王女。義理の妹アリスを嫌い、日々付き纏って罵倒することを生き甲斐にしている。
死を唯一の救済とするサイコパスな一面があり、世界を滅ぼすため人知れず悪逆非道を繰り返す。
……この人物紹介のような画面は、場面が切り替わる度キャラクターの全身と共に表示されていた。何度も読んだから、全員分覚えている。
前半はまだいい。人として最低というだけで、法には触れていないのだから。問題なのは後半。
「悪逆非道を繰り返す」とぼかされているけれど、ビビットは攻略対象を含むキャラクターたちを大量に手にかけていた。それもまるで、道端に咲く花でも摘み取るかのような手軽さで。
そう。
ビビット・ハーティエは、私は――悪役だ。




