18 夢と現実
ルイスを殺すことなく死霊との戦闘を終えた私はその晩、ネグリジェを纏ったアリスを部屋に迎え入れていた。
「わあぁぁっ……! ここが、お姉様のお部屋……!」
アリスは声を弾ませ、楽しそうに部屋を見回している。その様子を微笑ましく見つめながら、私は内心冷や汗だらだらだ。
――だってこれから、アリスと朝までこの部屋で二人っきりなのだから!
眠るだけとはいえ、この手がまた悪さをして知らずのうちにあの細い首を締め上げたら? あの小さな顔を両手で覆って窒息させたら? あの小さな体ごと抱き上げて窓から放り投げでもしたら?
考えるだけでまた鳥肌が立ってきた。なにせ私は、私自身のことをこれっぽっちも信用していないのだから。
かといって全く眠らないというのも、明日の防衛任務初日に支障が出かねない。何とかして乗り切るしかないのだ。
幸い、私は長きに渡る訓練のおかげでどんな場所でも眠ることができるし、睡眠の質もある程度コントロールできるようになっている。
今夜は浅い眠りを保ったまま、朝を迎えることにしよう。ひっそりとそう決意していると、アリスが私の腕を引いてはしゃぐように言った。
「私、ずっとお姉様と二人で過ごしたいと思っていたのです! それが叶うなんて、私は幸せ者ですっ」
寝室に向かって歩きながら、私の方を振り向いて笑みを浮かべるアリスを見て、私はハッとした。
「あの、アリス……」
「……? どうかされたのですか?」
足を止めて切り出した私を、アリスは不思議そうな顔で見上げている。
「昨日、アリスは私を責めなかったけれど、改めて謝らせてほしいの。私が貴方を詰め所に連れ出した日、あんな目に遭わせてしまって……本当にごめんなさい」
目をぎゅっと瞑り、私はアリスに頭を下げた。
「お姉様……」
アリスはそう呟くと、震える私の両手を掬い上げるようにそっと握ってきた。びくりと体が反応し、思わず頭を上げると、アリスは瞳に悲しみなのか憂いなのか、よく分からない色を浮かべていた。
「お姉様、大丈夫です。お兄様から何か言われたかもしれませんが、私はあの日、お姉様に傷つけられたとは少しも思っておりません。ずっとお部屋に閉じ籠っていたのは……お姉様に会わせる顔がなくって……っ」
そこまで言うと、アリスは瞳を潤ませた。
「アリス?」
私は焦ってアリスの名を呼ぶ。また私が何かしてしまったのだろうか。
やっぱり一緒に眠るなんて無謀過ぎたのだと考えていると、アリスは私から手を離し、瞳から零れ落ちた涙を手で拭いながら首を横に振った。
「ごめんなさい……っ。違うのです……! 私っ、私は、あの場でただ、泣いていることしかできませんでした。けれどお姉様はあんな恐ろしい人にお一人で立ち向かわれて、闘い続ける運命を受け入れられました。私はっ、お姉様を尊敬しています! けれど、だからこそっ、次にお会いした時に私に言えることが、思い、つかなくて……っ」
アリスは涙ながらに、心の内を語ってくれた。
私はアリスを勝手に生きる意味にして、勝手に自分の指針にしている。そのアリスが、私を尊敬していると言ってくれた。胸の中に、じんわりと心地いい何かが広がっていく。
「……ありがとう、アリス。そんなにも私のことを、想ってくれて」
もっと、伝えたい何かがあるような。そんな気がする。そうでないとせっかく伝えてくれたアリスの思いに釣り合わないと思うのに、私の口からはありきたりな言葉しか出てこなかった。
「こちらこそ、です。お姉様。あの日は私を、そして今日はお兄様を守ってくださったお姉様が大好きです! 私のお姉様になってくださって、ありがとうございますっ」
アリスは両手で涙を拭うと、満面の笑顔でそう言ってくれた。そのあまりの眩しさに、私はこくりと人形のように頷くしかなかった。
私のために泣いてくれているアリスを目の前にしても、私は何も変わらない。口下手で無感情な、剣で人を傷つけることだけが取り柄の悪役のまま……
「もう眠りましょう、お姉様っ。本当はもっとたくさんお話していたいですれど、お姉様の任務の邪魔になってはいけませんから」
落ち込んだ私はアリスに手を引かれるままに寝室に入り、二人でベッドに横になった。
「おやすみなさい、お姉様……」
アリスはとろんとした顔で呟くと、すぐに瞼を閉じて静かな寝息を立て始めた。思えば、私のせいであんな風に泣きじゃくった後だもの。疲れていて当然だ。
幼く、あどけない寝顔をしばらく見つめた後、アリスを背にして私もまた瞼を閉じたのだった。
◇◇◇
夢なんて見るのはいつぶりだろう。
――私は、剣聖お披露目パーティーに剣聖の義姉として出席しながら、考える。
『可愛い妹が戦地に赴かなければならないことは、悲しくて溜まらないことですわ。けれど、それも剣聖が定め。私もこの国と連合国の平和のため、妹を精一杯サポートして参ります』
感覚からしてこれが夢だというのは間違いないけれど、私の体は私の意思に関係なく動いている。今見ている光景は、『エスロワ』と全く同じだ。
まだ痛覚に体が反応していた時期は上手く眠ることもできなかったから、眠るたびに悪夢を見ていた。そうなると数年ぶりということになる。悪夢の度に何かに包まれる感覚があった気がするけれど、目が覚めるとほとんど忘れてしまっていたからそれがなんだったのかも分からない。
過去に思いを馳せている間に、ルイスに呼び出された私は中庭に立っていた。
『こんな場所で何を話すつもりか知らないけれど、さっさと済ませてくれないかしら? いい子にお勉強だけしていればいい貴方と違って、私は忙しいのだけれど。……ああ。あの下品な女が倒れた話? ちょっと責められたくらいで倒れる軟弱な女が母親だなんて、貴方も大変ね』
憎悪に目を濁らせるルイスを前に、私は片手で髪の毛先を持て余しながら適当に言った。
『僕はそんな言い訳を聞くために、わざわざこんなところまでお前を呼び出したわけじゃない』
ルイスは、キッと私を睨んだ。
『三日前、母上の部屋に乗り込んだお前に口汚い言葉で罵られたあの日から、母上は目を覚まさない。元々体が弱い母上は、この頃調子がよくなかった。治癒術師がずっと母上を診ているが、心身ともに消耗が激しいから体力を消費する治癒魔法だってろくにかけられない……!』
『あら、そう。ご愁傷様』
私は欠伸をしながら返事をした。その態度が怒りに火をつけ、ルイスはギラギラと瞳を燃やしながら叫ぶ。
『それだけじゃない! お前は昨夜、剣聖になんてなってしまったアリスまでもをいつものように責め立てた! 儀式から帰ってきた後、アリスは覚悟を決めたと言っていたが酷く憔悴していたのにだ! 元々虫も殺せないアリスが、剣聖になんてなれるはずがない! そもそも、剣聖なんて汚れ役はお前の宿命だろう!』
ルイスは苦しげに眉をひそめ、芝生を蹴り上げた。
『――あはっ。何よそれ。あれが剣聖になったのも、虫も殺せないほど臆病なのも私には関係ないじゃない。あれよりは利口な子だと思っていたのに、そんなことも分からないくらい貴方も頭が弱かったのね。可哀想に』
真剣に訴えるルイスを私は嗤い、罵る。
『――お前のせいだ、何もかも! 何が剣聖の定め、この国と連合国の平和? ふざけるな! アリスと母上を失うなんてことになってみろ、お前と刺し違えて僕も死んでやる!』
『……ふうん。そう。そこまで言うなら、今ここで相手をしてあげてもいいわよ。どうせ今も、武器か何か持ってきているんでしょう? ほら、かかって来なさいよ』
ドレス姿のくせに長剣を腰に携えていた私は剣を抜き、ルイスを挑発した。
『っいいだろう……! 母上とアリスの痛み、思い知れ!!』
ルイスが叫び、懐から取り出した短剣の剣先を私に向けた瞬間、
私の後ろで、地面がボコッと音を立てて盛り上がった。
『キャハハハハハハハハハッ!!!!』
耳をつんざくような笑い声が響き渡るのと、私が二ヤリと口元を歪め、死霊の攻撃を後ろ手で受けるのは同時だった。
『っこいつが、死霊……!』
ルイスが剣先を私から死霊に向け直すのを見ながら、私は死霊をルイスの方向に弾き飛ばした。危うく死霊と衝突するところだったルイスは間一髪で地面から飛びのき、それを躱した。
『ふふっ。アハハハハハハハハハハハハッ!』
突如笑い出した私を、ルイスが地面から体を起こしながら凝視する。
『――丁度いいわ! 魔災のせいにでもして殺してしまおうと思ったけれど、全部この死霊とひ弱なあれのせいにしてしまえばいいんだものっ!』
笑いながら私はそう言い、ルイスに向かって剣を構えて突進した。その私に向かって、死霊が氷柱を発射する。
私は舌打ちし、くるりと死霊の方に向き直って剣で氷柱を全て砕き切ると、一撃で死霊の左腕を切り落とした。
『ギャアアアア!!』
『邪魔よ』
死霊の黒い血飛沫を被った私は、腰を抜かしたのか地べたに座り込むルイスにゆるりと歩み寄る。
――ボコッ。ボコボコボコッ。
すると泥が泡立つような音が脇から聞こえて振り向くと、地面に転がっていた死霊の左肩が瞬く間に再生した。
私は『あはっ。面白い。伝説通りってわけね』と嗤いながら、再び氷柱を作ろうと魔力を練っている死霊に向かって行った。その足で死霊の横っ腹を思いっきり蹴り飛ばし、絶叫する死霊を地面になぎ倒す。
『穢らわしい……』
すかさず私は、長剣で死霊の心臓をまるで地面に釘付けにするように深々と突き刺した。死霊の頭に直接響くような絶叫にも顔色一つ変えず、私はドレスの下から数本の短剣を取り出すと、心臓と同じように手足も短剣で地面に釘付けにした。
『これで、しばらくは動けないはずよね』
全身を黒い血で真っ黒にした私は、動けなくなった死霊から離れた。地べたに座ってこちらを睨みつけているルイスの方へ歩いていき、目の前で立ち止まると、首を傾げて笑いかける。
『どれだけお馬鹿さんでも、次が自分の番ってことくらいは分かるわよね?』
そう言い終えた瞬間、
私の右の頬を、炎を纏った短剣がかすめた。ルイスが背中に隠し持っていたのだ。
『――くそっ!』
『ふっ。アハハハハハハハッ! 中々、根性あるじゃない。せっかく避けないであげたんだから、もっと喜んだら?』
悔しげに顔を歪めるルイスを嗤いながら私は頬の血を拭い、ルイスが投げた短剣を取りに行った。
拾い上げたルイスの短剣を片手でくるくると回しながら、私は目線を短剣に固定したままルイスに語りかける。
『どうでもいいけれど、聞いてあげる。――何か、言い残すことは?』
『っ死んでも、お前を呪ってやる……! お前の先に待っているのは地獄だけだ! そこで母上とアリスを貶めた報いを受けろ……っ!』
『はっ……くだらない。もういいわ』
そう言うと、私は迷いなくルイスの首を横から短剣で突き刺した。そこからじわじわと、もったいぶるようにして刃を押し進めていく。
『ッぎ……。あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙……!』
『ふふふふっ。変な声……』
心底面白そうに笑いながら私はルイスにゆっくりと止めを刺していき、命が消える瞬間を待ち焦がれるように大きく瞳を開いていく。
やがてルイスの首がガクリと垂れ、瞳から光が失われるのを見届けると、私は満足そうに吐息を漏らした。
すると、遠くからガタッと何かが倒れる音が聞こえ、私は目を光らせながら振り返る。
『ぅあ……!』
城の一室の扉の前で、くすんだ青髪の少年が床に倒れていた。右腕を包帯でぐるぐる巻きにした少年は立ち上がると、青ざめた顔で私を見た。
見て、しまった。
『――あはっ。貴方、見ちゃったのね』
私は即座にルイスの血がしたたり落ちている短剣を、青髪の少年に向かって投げつけた。宙を舞う剣は真っすぐに彼の胸元へと突き刺さり、彼の『ぁぐっ……!』という悲鳴が耳に届く。
私は彼の元まで歩いていき、息がないのを確かめると、彼の胸元から短剣を引き抜いてドレスの下にしまい込んだ。深く息を吸って吐き出し、宙に向かって大きく伸びをしながら私は一人呟く。
『途中で人が来ないか気が気でなかったけれど、いくらなんでも遅すぎるわ。こんなのが剣聖だなんて、あはっ。笑っちゃう……』
私は呻いている死霊の元まで歩いていき、突き刺した剣を全て抜いた。
『キャハハハハハッ!!』
ボコボコと一瞬にして傷を修復した死霊は氷の大剣を作り出し、私目掛けて振りかぶる。
『アハハハハッ! そう、それでいいわ。精々私の役に立ってちょうだい――!』
しばらくして、騎士たちに支えられながら青ざめた顔のアリスが中庭に現れた。
そこには絶命したルイスが。そして頭から黒い血を被り、破れたドレスのあちこちから赤い血を滴らせながらも死霊と剣を打ち合う私の姿があった。
『ようやく、来てくれたのね……!』
私はアリスを見つめながら、力なく崩れ落ちて見せた。
『お、お姉様……お兄様……』
『……アリス、さあ。今は早く、死霊を……』
全身を震わせながら声を絞り出すアリスに、私は満身創痍を演じて口を動かす。
私の言葉にアリスはなんとか聖剣を構え、私が負わせた回復前の腹の大穴に剣を通して死霊を絶命させた。アリスは青い顔でふらふらと息絶えたルイスの前に歩み寄り、目の前で崩れ落ちる。
『いやあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ああああああああぁぁぁぁ――!!!!』
泣き叫ぶアリスを憐れむ表情で見つめながら、私はひっそりと呟く。
『アリス、お前の大事なもの、私が一つ残らず奪ってあげる……。お前が私から全てを奪ったのと同じように……ふふっ』
――こうして、アリスの剣聖に目覚めてからの初陣は最悪の形で終わった。同時に私は、後に”吸血姫”と呼ばれる悪役への道の一歩を踏み出すことに成功したのだった。
◇◇◇
「――!」
何かに急き立てられるように目を覚ますと、私は全身汗だくになっていた。横を見ると、アリスがすうすうと可愛い寝息を立てて眠っている。その姿に何故か安堵し、不思議に思っていると、静かに部屋の扉がノックされた。
返事をすると、剣の受け渡し役だった男が息を弾ませながら部屋に入って来た。その目はわずかに涙で潤んでいる。
「ビビット様……! 王妃様のご容体が、急変いたしました……!」
彼の言葉を耳にした途端。私は思い出した。
――『エスロワ』では、夫人は私に責め立てられて倒れた日から目を覚ますことはなく、ルイスが殺された翌朝に亡くなってしまうということを。アリスもルイスも何も言わないから忘れていた。
どうしてこんな時にアリスは……? いや、今はそれどころじゃない。私は急いでアリスを起こし、アリスと共に夫人の部屋へと走る。
――お願い! あなたは生きていなくちゃダメなの……!
心の中で強く願いながら、使用人が夫人の寝室の扉を開け放つと、立ち尽くすルイスの背中が見えた。ルイスは扉の音にピクリと体を震わせたかと思うと、ぐるりと首を回して虚ろな目を私たちに向けた。
「ルイス……?」
「お兄様……?」
私とアリスが同時に彼を呼ぶも聞こえていないのか、ルイスは懐に手を忍ばせた。そしてその手に短剣を握りしめ、鞘から剣を抜きながら焦点の定まらない目で私を射止める。
「よくも母上を……よくも――!!」
弱弱しい瞳を絶望と怒りの色で濁らせたルイスは、私に向かって突進し、剣を振り上げたのだった。




