16 悲劇の始まり
夫人が今、倒れているのだとしたら。――それが、私がアリスを連れ出してしまったせいなのだとしたら。
今の状況は、私が剣聖という部分以外『エスロワ』とほとんど変わらないということになる。夫人の安否まで確認しなかったことが、今になって悔やまれる。
「お願い、どうか無事で……!」
日はすっかり落ち、薄暗くなった廊下を走りながら、どうにかして今からでもシナリオを変えられないかと考える。夫人の安否に関わらず、ルイスはきっと私を責め立てるだろう。けれど今日は、今日だけはどうしても、外でルイスと二人きりになるわけにはいかないのだ。
「何かないの、何か」
必死に考えている内に、私はパーティーの後アリスと一緒に居る約束をしていることを思い出した。
「そうだわ!」
アリスに一緒に来てもらうことができたら! ルイスも少し落ち着いて話すことができるだろうし、シナリオだって変えられるじゃない……!
そう思い立ち、王族居住区の夫人の区域に繋がる通路の前で曲がる。急いでアリスの部屋へと通じる階段を上ろうとした瞬間、
「――やはり、ここにくるだろうと待っていて正解でした」
背後から、ぞっとするほど冷たいルイスの声が、パーティーの警備のため誰もいない廊下に響き渡った。恐る恐る後ろを振り返ると、数歩先。炎すらも凍りつくような冷たい瞳で、ルイスが私を見据えていた。
「ルイス……貴方、先に行ってたんじゃ……」
「貴方こそ、どうしてここにいるんです? この先にはアリスと僕の部屋しかない。中庭とは、真逆の方向でしょう」
「それはっ」
アリスを呼ぼうと思ってと言おうとして、私は今のこの状況さえも『エスロワ』と全く同じであることに気がつき、言葉を飲み込んだ。
『あの小娘の話をするのに、本人がいなくちゃおかしいじゃない。全部あの子が悪いのよ?』
『エスロワ』では、アリスはなんとかパーティーに出席し挨拶まではしたものの、その後すぐに部屋へと戻ってしまう。そんな中ルイスに呼び出されたビビットは、当人を引っ張り出そうとアリスの部屋へ寄るところを今のようにルイスに止められていた……。
シナリオに逆らうつもりが、逆効果になってしまった。事情が違うとはいえ、どうしてあらかじめ『エスロワ』の記憶をきちんと整理してこなかったのだろう。いい加減自分が嫌になる。
「言い訳もしないんですか? 剣聖ともあろう貴方が」
皮肉のように、鼻で笑いながらルイスは言った。こうなってしまったらアリスを呼ぶことはできないだろう。
「……ええ。昨日からずっと、貴方にも謝らなければならないと思っていたの。でも、話をするなら中庭でなくても構わないでしょう? 私やルイスの部屋でも、どこでだって話はできるわ」
「やけに必死ですね。そんなに僕と外で話したくないのは何故なんです? ……ああ、密室でなら、都合のいいことが色々とできるからでしょうか」
「密室って……そんなわけないじゃない!」
「――なら、中庭で何の問題もないでしょう。さあ、行きましょう。早く!」
ルイスは最後はほとんど怒鳴るようにして言い、私に先に行けと目で語った。こうなったら、これ以上彼を刺激せずに一刻も早く話を終わらせるしかない。
「……分かったわ」
私とルイスは縦に並ぶようにして城内を歩き、中庭に足を踏み入れると、一定の距離を取って向かい合った。
「……ルイス、アリスを連れ出してしまった件だけれど、本当にごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけれど、あんな目に遭わせるつもりは」
「僕はそんな言い訳を聞くために、わざわざこんなところまでお前を呼び出したわけじゃない」
先に切り出した私の言葉を遮り、ルイスは私に憎悪を向けたあの日のように、アイスブルーの瞳を濁らせて私を睨んだ。
「お前が三日前、突然アリスを連れ出し、偶然そこに死霊が現れたせいでアリスは酷い目にあった。気を失っていたお前は知らないだろうが、アリスは気が動転してしばらく誰も手がつけられなかった。お姉様が、お姉様が、と何度もお前を呼び、泣き叫んでいた」
「アリスが、そんなことに……」
「それだけじゃない。母上は……。元々体が弱い母上は、この頃調子がよくなかったのに、アリスがお前に連れ出されたせいで部屋に閉じこもったと知り倒れてしまった! 治癒術師がずっと母上を診ているが、心身ともに消耗が激しいから体力を消費する治癒魔法だってろくにかけられない……!」
「……やっぱり、夫人も倒れていたのね」
思わず心のままに声に出してしまい、気づいた時には遅かった。
「やっぱり、だって?」
ルイスはその瞳を大きく見開き、汚物を見るような目で私を見た。
「なら、今起きていることは全て、お前の計算どおりってわけか……」
「違う! 違うわルイス! 私はっ」
「――僕は! この二年間、ずっとお前を見ていた。お前がアリスや母上に敵意を持っていることを知りながら! お前は僕の予想どおりの気狂いだったが、僕たちに関わろうとはしなかった。それどころか、避けるようなそぶりさえ見せていた。だから泳がせていた。……それが、間違いだったんだ!」
ルイスは苦しげに眉をひそめ、芝生を蹴り上げた。
「お前のせいだ、何もかも! 何が剣聖の定め、この国と連合国の平和? ふざけるな! アリスと母上を失うなんてことになってみろ、お前と刺し違えて僕も死んでやる!」
彼の言うとおり、私は約二年間ルイス達の前で気狂いを演じてきた。アリスを私から遠ざけるために。そしてアリスに何かあった時に、今のように私だけに責任が課せられるように。
――その狙いは今、最悪の形で叶ってしまった。
今日、シナリオ通りにこの場所でルイスとこうして話すことに繋がってしまうのなら、私がこれまでやってきたことは全て間違いだったかもしれない。
だって、今日は
「ごめんなさい、ルイス。本当にごめんなさい。私には謝ることしかできない。けれど、これだけは信じてほしいの。私はアリスや夫人のことはもちろん、貴方のことだって守りたいと思って」
「どうだっていい……。もうそんな事、全部どうだっていい!」
再び私の言葉を遮ったルイスの瞳は、憎悪だけでなく底知れない怒りでギラギラと燃えている。
「お前が剣聖なら、伝説の勇者なんだったらなんで! なんで自分の母親すら救えない!? 父上から何度も聞かされた。王女は剣の天才だと。まだ幼いのに、この国には王女に敵う剣士はいないのだと。それほどの実力があるくせに実の母親すら救えず、僕の父上もろとも死なせたお前らに、騎士なんかに何が守れる!?」
一人で抱えてきたのであろう鬱憤を吐き出すように叫び続けるルイスを眺める。一刻も早く、彼を連れてこの場から立ち去らなければならない。分かっているけれど、加害者である私が何を言っても聞き入れてはくれないだろう。
「城に来て、実際に会って僕は確信したんだ! いつ何時も狂ったように剣にしか気を向けていないお前を見て! お前は、お前らは騎士は、何も見ちゃいない。全員、狂ってるんだ! そんなやつらの行動が、言葉が信じられると思うか? 何か言い返せるなら言ってみろ、この狂人が!!」
ルイスがそう言い放った瞬間、私の後ろで地面がボコッと盛り上がる音がした。
「キャハハハハハハハハハッ!!!!」
耳をつんざくような笑い声が響き渡るのと、私が腰に携えていた聖剣を抜くのは同時だった。
――ガギンッ!!
後ろ手に剣を構えると、硬いものがぶつかり合う尖った音が鳴り響く。目だけで後ろを振り返ると、赤い目をした長い白髪の女が、その手に持った氷でできた大剣に全体重をかけ、ケラケラ笑いながら私を見つめていた。
ついに、この時がやってきてしまった。
「――っ! こいつが、死霊……!」
ルイスは突如現れた死霊に怯んだ様子はない。それどころか、隠し持っていたらしい短剣を手に構えたのを見て、心臓が早鐘を打つ。ここまでほとんど、『エスロワ』のシナリオ通りに進んでしまった。このままだと、まずい。
だって今日は
私が彼を、ルイスを殺す日なのだから。




