09 ゲームスタート
もうすぐ人が来ると言い、枯れた井戸の傍に生えている茂みの後ろに身を隠すように座ると、アリスも習うようにして私の隣に座った。
心を落ち着かせている私の横で、アリスは楽しいのかそわそわと落ち着かない様子だ。城に来てからは毎日分単位の予定をこなしているのだろうから、こうしてただ座っているだけでも休まるのかもしれない。
するとふいに頭上から、ガサガサッと木の枝をかき分けるような音がした。
アリスと私が上を向いたのとほとんど同時に、チェリブロの枝の中から橙色の頭がにゅっと顔を出す。驚いた顔で私を見るアリスに、無言で人差し指を口元に当てて静かにするよう伝える。
アリスが小さな両手で口を覆うと、枝の中から人影が飛び出し、静かに地面へと着地した。橙髪の少年が、数メートル先の地面に立っている。
素朴なシャツにハーフパンツ姿の少年は、きょろきょろと周囲を警戒するように見回した。やがて人が来ないとを悟ったのか井戸の縁に腰掛け、肩に担いでいた麻の巾着袋を地面に置く。随分と慣れた様子だ。
私の隣で、待ち人はこの人かと尋ねるように口を覆ったままのアリスが小首を傾げてくる。私は無言で首を横に振り、片手でこのまま待つようジェスチャー。
しばらくの間、私が周囲を。アリスが橙髪の少年を見つめている間に、人の気配を感じて私は首をかすかに動かす。しばらくすると、詰所の方から足音が聞こえて来た。
「よっ。待たせたか?」
現れたのはくすんだ青髪の、橙髪の少年と同じくらいの背丈の少年だ。王国騎士団の年少部隊の制服を身に纏っている。
「ああ。けどいいよ別に。俺はヒマだしさ」
声をかけられた橙髪の少年は、親しげな雰囲気で言った。
「これでも、急いで来たんだぜ。昼間抜け出すのって結構大変なんだからな」
冗談めいた響きで肩をすくめる青髪の少年を前に、橙髪の少年は井戸の縁から立ち上がった。その横顔には、どこか寂し気な笑みが浮かんでいる。
「わかってるよ……。ありがとな」
「礼なんて言うなよ、気持ち悪い」
青髪の少年がおえっと舌を出してみせると、二人はどちらともなく笑いだした。
「ほらこれ。母さんが焼いたパンと庭で採れた青リンゴ。少しだけど」
橙髪の少年は、麻の巾着袋を青髪の少年の胸に押し付けるようにして渡した。青髪の少年はその中身を見るや、嬉しそうに飛び上がる。
「うわっうまそー! ここのメシ、味気ねえからさ。助かるぜ」
「母さんが聞いたら喜ぶよ。時間もないし、早く始めよう」
橙髪の少年は再び井戸の前まで歩いていくと、その中へとほとんど体が見えなくなるまで両腕をつっこんだ。やがて井戸から体を起こした少年の手の中には、二本の汚れた木刀が握られていた。
「これもそろそろ寿命かな」
言いながら橙髪の少年は木刀を一本放り投げ、青髪の少年が片手でキャッチする。
「かもな」
「いつでもいいから、またくすねてきてくれよ」
「簡単に言うよなぁ、全く」
楽し気に二人は語らいながら距離を取り、それぞれが剣の構えを取った。
「怪我して上官に叱られても、俺に文句言わないでくれよな」
「そっちこそ、おばさんにバレて怒られても知らないぜ」
二人の目はきらきらと輝き、まさに今秘密の打ち合いが始まろうとしていたその時――
「ウガアアアアアアアアアアアア!!!!」
突如二人の間の地面が大きくひび割れ、割れ目から浅黒い腕が勢いよく這い出て来たかと思うと、薄汚い恰好をした男が地中から飛び出し、着地と同時に正気とは思えない怒号を響かせた。
「な……っ」
驚きで尻餅をついた橙髪の少年の声に男が反応し、血走った赤い瞳に少年を映す。刹那の沈黙の後、男は狙いを定めたかのように橙髪の少年に襲い掛かかる。
「グアアアッ」
男の手が、橙髪の少年の胸倉に届く寸前。男の横っ面をものすごい勢いの水が殴りつけた。
「――逃げろ! エドガー!」
青髪の少年が叫んだ。
標的を変えた男が、頭ごと青髪の少年に突っ込んでいく。青髪の少年は、水を纏わせた木刀で男を危うく受け止めた。エドガーと呼ばれた橙髪の少年は、地面に座り込んだまま放心したように動けずにいる。
そして彼らの様子を、隣にいるアリスが口を押えたまま大きく見開いた涙目で見つめているのを、私は横目で祈るような気持ちで見る。
――この赤い目の男こそが、死霊。
人類を絶やす為だけにどこからともなく湧いてくる害敵であり、今この瞬間に呪われた時代は幕を開けたのだ。
『エスロワ』が、いよいよゲームがスタートした。
「くっ……!」
死霊の頭を木刀で受け止めた青髪の少年に、死霊が口から火を吹いた。水を纏った木刀は無事だが、受けきれなかった分の炎が少年の毛先を焼く。
私は茂みの裏で、相性は少年に有利でも、実力では敵に分があると分析しながら焦れていた。あとはアリスが、剣聖の才を発現させるのを待つだけだ。それだけでいい。
けれど肝心のアリスは、まだ動かない。
「ウウウウゥゥゥ」
ふいに死霊は青髪の少年から飛びのくように距離を取ったかと思うと、火の玉を両の掌に浮かべ、少年に向けて幾つも投げつけた。少年がなんとか火の玉をさばいていく間に、死霊は少年の間合いに入り込む。
――そして死霊は、少年の木刀を持つ右腕を潰す勢いで握り、容赦なく炎で焼いた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!」
青髪の少年は呻きながらも左手でありったけの水を死霊に向けて放射し、顔面からもろに喰らった死霊が地面に転がる。
そんな中、アリスは
――アリスは、引きつけを起こしたかのように全身を強張らせ、丸い瞳から大粒の涙をポロポロとこぼしていた。
「アリス……」
何も口出ししないと決めていた私は、思わず声を漏らした。するとアリスはその声にさえビクンと大きく体を跳ねさせ、死霊の方を見つめながら全てを拒むように首を振ると、体の芯まで凍えたかのように小刻みに震え始めた。
その瞳は、私が幾度となく見てきた、死という圧倒的な恐怖を前に生気を奪われた者のそれだった。
それでも、剣聖の才に目覚めるのはアリスだ。
ゲームにはそんな描写はなかったけれど、『エスロワ』のアリスは馬でここまで来た。ここへ辿り着くまでの間に、今のように恐怖で震えていたのかもしれない。
そう思いながらも、私は心のどこかでアリスはもう動けないとほとんど確信していた。
少し目を離したうちに、青髪の少年は死霊にのしかかられていた。頭を掴まれたところを、どこからか弾丸のような速さで駆けてきたエドガーが、体ごと死霊にぶつかっていく。
「やめ……にげ、ろ」
青髪の少年の静止の声は届かず、エドガーは木刀を構え、地面に倒れた死霊に向かって突っ込んでいく。
その様子を嘲笑うかのように死霊は咆哮を上げると、エドガーの木刀を歯で受け止め、口から火を吹き燃やし尽くした。熱さに耐えかねたエドガーは、手に炎が燃え移る寸前で死霊から飛びのき、呻きながら地面に転がる。
死霊は両手に炎を宿し、エドガーに向かって歩みを進めていく。
私は青白い顔で震えているアリスと、火傷を負ったのか腕を押さえながらも尚、立ち上がろうとするエドガーを交互に見た。
――考えるよりも、体が動き出す方が早かった。
「駄目――――!!!!!」
私は今まさに命の灯が消える寸前だったエドガーと、死霊の間に体を滑り込ませ、決死の覚悟で瞳を閉じた。
「うわああああああああっ!!」
背後からの叫び声に目を開くと、視界が黒で埋め尽くされていた。
目を凝らすと、どす黒い液体が真下から噴き出していた。黒い飛沫の隙間から、一筋の光がこちらに向かって伸びている。その光に照らされた何か、断ち切られた肉と骨のようなものが、微かに見える。
光の元を目で辿ると、焼き尽くされると思っていた右手が無傷で生えていた。黒く汚れていくばかりで痛みもないが、手の中に何かある。
――そう思った時だった。
耳をつんざくような衝撃に近い、絶叫のような大声が、黒い雨の降り注ぐ辺りを蹂躙したのは。
目の前から発される音圧が、耳朶を容赦なく打つ。酷い耳鳴りに、耳の奥から血が吹き出す感覚。消し飛びそうになる意識を保つことだけに、気力を集中させる。
どれくらい経った頃か。
叫びは小さな呻きに変わり、かろうじて意識を保った私の目の前には、地面に膝をつき頭を垂れた人型の炭のような塊があった。頭部が綺麗に真ん中から割れていて、吹き出していた黒い飛沫は止まっている。
すると、瞬く間にその全身に細かい亀裂が入り、背中の真ん中あたりから一つ。また一つと小さな欠片が剥がれていき、浮かび上がっては消えていく。そんな姿になってもなお、死霊は弱々しく呻いている。
一体、こんな体のどこから声を発しているのか。
まるで己の体に自ら止めを刺しているようだと、傾いていく視界の中でぼんやりと思う。
視線の先。だらりと下がった腕から伸びた黄金。
それは黒い雨に晒されても汚れることを知らず、絶望を歌うような断末魔の中でも輝きを絶やさずにいた。
――私の掌の中には、一振りの長剣が固く握られていた。
少しずつ地面が近づいてくるのを肌で感じながら、その黄金の輝きをただ、美しいと思った。




