十五夜
十五夜。それは中秋の名月などと呼ばれ皆この月を見んと空を見上げる日である。この日に豊作を祈願したりするという。また十五夜に月を見るのは中国からのものらしい。そして平安時代には暇を持て余した貴族たちがその月をオカズに数多の和歌を作ったのだという。
さて本作を書こうとPCをいじっている間窓は黒に染まっていた。しかしまだ月は見ていない。ただ一つ思うことは今宵の月は隈なきを望むといったとこだろう。この思いは平安時代。いや上代の頃より遺伝して現代にいたるのだろう。しかし、それと同時に完璧でないものもよいという風潮が生まれていったらしい。実際に兼好法師の徒然草より「徒然草花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」と説いてこの完璧な物のみを風情だという考えを否定して「移ろいゆく美」を褒めたたえ不完全なのもまた良いとした。ただ今度は本居宣長が玉勝間にて「いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。」と説いて兼好法師の考えを「人の心に逆ひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。」と徹底的に批判をした。
ただ私はここでどちらの考えがよいとかを説かんとしているわけではなく折角美しい伝統ある文化が今日あるのだから一回だけでも良いから月を眺め、このあげつらいについて考えてみてほしい。どのような価値観を持っていようと別に良い。ただ折角の機会を逃さぬようたった今、スマホやらPCやらでこのエッセイ的な粗末な短文をみているこの刹那の間で良い。ふと外に出て空を見上げて遥か昔から続く中秋の名月を見てほしい。丁度上には隈なき月があることと思う。(実際に書いてる最中窓には黒一色に月光が円状に差し込んでいた)その金剛石よりも輝ける月を見ながらに兼好法師より続くあげつらいについて考えるのもまた風情だろう。