バーで大いに飲む。そしてゲット・バック
「私は伊勢崎と言います」とベージュのスーツの男は言った。
「赤城です。ワイン、ご馳走になってます。」
「私は、伊勢崎といいます。どうぞ、遠慮なく飲んでください」
と言って伊勢崎は、自分のグラスに入ってるワインを一気に飲み干し、自分でグラスにワインをなみなみと注ぎ、ガバガバ飲んだ。
俺もつられて、かなりのハイペースで飲んだ。あっという間に、高額なワインは空になった。
伊勢崎は、新たにワインを頼もうとした。
「ちょっと待ってください。次は俺に奢らせてください。今のワインみたいな高級な物は無理ですけど」と俺は言った。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてご馳走になります」
爽やかな笑顔だった。酒の値段なんか全く気にしてない気持ちの良い笑顔だった。
「苦手な酒はありますか?」俺は訊いた。
「特にないです。何でも飲みますよ」
「じゃあウイスキーなんてどうですか?」
「良いですね!」
俺はクラウン・ロイヤルをボトルで注文した。カナダのブランドウイスキーだ。ウイスキーの中では飲みやすい部類だ。
伊勢崎は、したたかに飲んだ。グラスに酒を注ぐとすぐさま空にして、また注ぐ。それを繰り返した。
バーでは小さな音でロックが流れていた。
「あ、この曲知ってますよ、なんて曲名はだったかな」と伊勢崎が言った。
「ビートルズの『ゲット・バック』」
私は答えた。
「そうそう、それです。詳しいんですか、ビートルズ?」
「いや、俺くらいの年代かそれより上の人なら誰でも知ってますよ」
帰ってこい、帰ってこいよ。元いた場所に。
良い歌だ。
ビートルズ。久しぶりに聴いた。嫌いじゃない。
俺は酔っ払って少し饒舌になった。
「この『ゲット・バック』は、ビートルズが解散の危機のある時期に作られた歌なんだ。
リーダーのジョン・レノンは当時付き合ってた小野洋子(結婚したいかもしれない)とベッタリで、バンドへの興味が薄らいでいた。
ギターのジョージ・ハリソンはポールの独裁的なリーダーシップにウンザリし数日間バンドを脱退までした。ポールがいちいちギターの手本をジャージに聴かせたりするわけだ。ベースのポールはギターもとても上手い。ジョージは最年少メンバーだし、ポール言うことは絶対に感じていたんだろうな。
リンゴ・スターは変わらずな態度をとってはいるけど、バンドの状態は感じ取っていたはすだ。
ポール・マッカートニーだけがバンドの維持を希望していた。
そんな時期にポールが作ったのが『ゲット・バック』なんだよ」
「へえ、そんなことがあったんですか」
帰ってこい、帰ってこいよ。元いた場所に。
ポールの切実さが胸を打つ。もう精神的にはバラバラになってしまったメンバー。ポールはかつてのビートルズを取り戻すのに一生懸命だった。
「この時期のビートルズは、さぞ雰囲気の悪い状態なのかと思うけど、その時期のドキュメンタリーを見ると、意外と和気あいあいとしているんだよ。
ジョージが脱退を表明した前後は流石に険悪なムードが漂ったけど、なんの予告もなくジョージが脱退を意思表示したその日でも、ジョンが小野洋子と常に一緒にいることをネタにして笑ってるんだ。
レコーディングでは、まるで合コンというか、気楽な飲み会みたいなんだ。メンバーそれぞれガールフレンドたち(ジョンのガールフレンドはもちろん小野洋子だ)を連れてきて、楽しそうに演奏してる。
人間関係は壊れかけてるけど、みんな超一流のミュージシャンだ。演奏や曲作りはやっぱり好きなんだな。スタジオではご機嫌なんだ。特にジョン・レノン。その時期のジョンはヘロインにかハマってたという説がありガリガリなんだけど、メンバーたちとふざけてあったり、レコーディングも自由奔放に楽しそうに歌っているんだよ。
そういうシーンがあるから、なおさらポールはバンド継続の可能性を感じたんだろうね」
「まるで、破局寸前のカップルみたいな話ですね。さっきの俺たちみたいですよ」
俺たちは笑った。
そして、乾杯をしてグラスを空にして、そのグラスにクラウン・ロイヤルをグラスを注いだ。
俺たちは、かなりのハイピッチで飲んでいた。グラスを空にして酒を注ぐ。そしてまた空にする。そんな飲み方を繰り返していた。
言い訳にしかならないが、伊勢崎のハイペースな飲み方に俺もつられてしたたかに飲んだ。
その間、伊勢崎は陽気にいろいろなことを話した。内容は詳しく覚えていないが、最近の政治への文句であるとか、最近のオーバーサイズすぎるファッションの文句であるとか、エピソード7以降の『スターウォーズ』の文句(俺は嫌いじゃない)であるとか、だいたい文句ばかりだった(大谷翔平と『トップガン マーベリック』のことは褒めていた)。
そんなペースで飲んでいたら、よほどの酒豪でない限り、あっという間に酔い潰れるはずだ。
俺は途中でペースを落としたが、伊勢崎のペースは衰えない。
伊勢崎は陽気に飲んでいたが、しばらくすると予測通りちゃんと酔い潰れた。伊勢崎はカウンターにうつぶした。
俺は伊勢崎を起こそうと声をかけたが、反応がない。バーテンがカンターから出て身体をゆすってみると、微かなうめき声が聞こえるだけで、ピクリとも動かない。
「どうしたもんですかね。まあしばらくこのままにしておきますか」とバーテンは笑って言った。商売上こういう客は慣れているのだ。
俺はそろそろ帰ろうとおもっていたが、挨拶なしで帰るのも気が引けた。
俺はグラスにわずかに入っているクラウン・ロイヤルを少しずつ飲んで時間を潰した。
そうこうしてるうちに伊勢崎は目を覚ました。フラフラと歩き出し、「そろそろ・・・・・・」と言った。
バーテンはレジに移り会計額を伊勢崎に伝えた。伊勢崎はカードで支払い再びカンターに戻ってきた。
「今日はワインご馳走さまでした」
「いや、こちらもウイスキーありがとうございました」と呂律がうまく回ってない口調で言った。
「それでは」と伊勢崎は言い、千鳥足で店を出て行った。その数分後にバーテンと少しだけ話し、俺も支払いをして店を出た。
ポケットの中のスマホに吉井から着陣が入っていたことを、俺は気づいていなかった。