赤ワインとベージュのスーツの男
焼き鳥屋で満足したら俺は、家に帰ることにした。しかしその途中で小さなバーが目に入った。しばらく顔を出してなかった。特に思い入れのあるバーではないが家が近いので、たまに行っていたバーだった。
時間なら腐るほどある。俺はバーの扉を押した。
「あ、お久しぶりぶりです」
バーテンは元気よく俺に挨拶をした。
カウンターの奥の席はカップルが座っているので、少し距離をとるように、俺は入り口手前の席に座った。
「何にします?」
「サミュエル・アダムス」
サミュエル・アダムスは、アメリカボストンの地ビールだ。ボストンの地ビールだが全米で飲まれている珍しい地ビールで、しっかりとした味と色が特徴だ。
アメリカのビールはバドワイザーのような薄いビールばかりと思っている日本人は多いが、サミュエル・アダムスのように地ビールはしっかりとした味わいの物や個性的な味がするビールが多い。
バーテンがサミュエル・アダムスを小瓶で出した。俺はグラスにビールを入れず、直接瓶に口をつけて飲んだ。
俺はバーテンと会話を交わした。
大した話じゃない。挨拶代わりの中身のない会話だ。
最近何してたんですか?
仕事だよ。貧乏暇なしさ。
編集の仕事って楽しそうですね(彼は俺の職業を知っている)
そんなことないよ。
でも取材でいろんな所に行くんでしょ?
そうだな。
海外とかも行くんですか?
たまには。
良いなぁ。
そんな会話だ。
この中身のない会話が心地良い。何も決断しなくて良い。
人生決断の連続だ。決断しながら生きていると言っても良い。
その日着る服を決め、仕事ではさまざまことを決めなくてはならず、一日三食何を食べるのかを決めて食べる。
何も決める必要のない空っぽの会話。バーでの会話の良いところだ。
奥にいるカップルが少し騒々しかった。痴話喧嘩をしてるようだった。
二人とも清潔な身なりで、整った顔立ちをしている。男は三十代半ば、女は二十代半ばという感じだ。
男は趣味の良いベージュのスーツをネクタイなしで着ている。女はビームスだかジャーナルスタンダードだかそういったようなセレクトショップで売ってるようなカジュアルなブラウスにスカートをセンス良く着こなしていた。
女は男に飲みかけの赤ワインを男にぶちまけた。
「ふざけないで!」
そう言って、女は店を出て行った。
男と目が合った。
男は照れ笑いをした。良い笑顔だった。
バーテンが男に、顔とスーツを拭くためのタオルを渡した。
顔は良いとしてベージュのスーツに赤ワインは絶望的だろう。
「お騒がしちゃってすみません。お詫びと言っては何ですが、一杯ご馳走させてください。バーテンの方も良かったらご一緒にどうぞ」
男は何かワインを注文したようだった。バーテンは驚いた顔をしてワインを取りに行った。
バーテンは少し緊張した顔でワインボトルを開けて、ワインを我々と自分に注いだ。
俺はワインの味の良し悪しはわからないが、建前として「うまい」と言った。
男はワインに満足したような顔つきで飲んでいる。
「失礼。ちょっとトイレに」と言って男は席を立った。
バーテンが俺に話かけてきた。
「赤城さん、今飲んでるこのワイン、シャトー ラヤス シャトーヌフ デュ パプ ルージュ っていって、40万円するやつですよ。うちのオーナーが個人の趣味で置いてるやつなんですが、売れたら儲けもん、って感じでメニューに載っけてるワインです。あの人、すげえ金持ってるんですね」
そんな金持ちが、この辺りのバーに入ってくることに違和感があった。この辺りは繁華街から少し離れた住宅地に近い。またこの辺りの住宅は庶民的な値段だ(それでも俺は買うことはできないが)。
男がトイレから戻ってきてた。
「いやあ、このスーツ気に入ってたんですが、赤ワインが豪快にかかちゃって、これは落ちませんね」と笑顔で言った。
言ってる割には大して気にしてないようであった。
「まあ、飲みましょう!」