魔女とせんせい 1
草木も眠る丑三つ時。後ろでゴトンと何かが落ちた。
「…あっ」
その音でうとうとしかけていた意識が覚醒した。誰もいないのに首を右へ、左へと動かしてしまう。まだ引っ越して二週間も経っていない、殺風景な部屋だった。少し休もうと椅子から立ち上がるけど、体を休めるためのソファも無い。あるのは寝室にあるベットだけ。
「……」
物音は寝室の方から聞こえた。正直入りたく無い。けど体は休めたい。何が落ちたのかも確かめたい。いや、あの音からして落ちたのは多分ベッド脇に置いている時計のような気がする。きっとそうだ。それか積み重ねていた本の塔が崩れたかだ。
そう自分を納得させてボクは椅子に座り直した。時計を見ると、針はちょうど午前二時を指している。嫌な時間だなとため息を吐いた。
さて、机に戻ったはいいものの何も浮かんでこない。当たり前だ。だって何も浮かんでこなくて寝かけていたんだから。真っ白な自由帳は真っ白なまま。今日こそは新しい絵本のネタを出そうと思ったのに。
今日もこうして、朝まで座りっぱなしか。あーあ。
何もできない自分が嫌になってくる。でも、何かがしたくて引き出しから色鉛筆を取り出した。箱に入っているのを全部取り出して、赤、オレンジ、黄色……と虹と同じ色合いになるよう並べ直す。そして、一番濃い赤から順番にノートの上に線を引く。一本ずつ、丁寧に。
こうしていると、なんだか頭が冴えてくる気がする。色鮮やかな線を一本、また一本と引くたびに自分が虹を作り出しているような気分になる。
線は次第に増えて今は黄色へと移っている。紙の三分の一を暖かい色が埋めていた。赤、朱色、緋色、橙、オレンジ、みかん色、山吹色……なんだか太陽が解けてるみたいだ。
「……太陽がほどけて……ほどけた太陽は一本の紐になって……ミートソーススパゲッティになったのでした」
レモン色の線を引いた後、その下の余ったスペースにミートソーススパゲッティを描いた。母さんが作るミートソースにはみじん切りにした椎茸が入っていて美味しかった。玉ねぎも飴色に炒めていて、にんじんも入っていて……
頭の中がミートソーススパゲッティでいっぱいになってくる。それと同時にお腹も減ってきた。一応夕食は食べたけど、あれから六時間は経ってる。そりゃお腹も空く。
スパゲッティの下に玉ねぎとにんじん、椎茸を描いた。入ってたひき肉はどの肉だったか。ウシか、ブタか。肌色と黒で迷っていると、後ろから手が伸びてきて、たった今ボクが描いたスパゲッティの絵を指した。
「これ、太陽がほどけてスパゲッティになるなら、ナポリタンじゃだめ?」
柔らかい女の子の声が耳元でした。その瞬間今まで感じたことのない恐怖心が胃から迫り上がってきた。息が吸えなくなった。目玉だけ動かして手の伸びてきた方を見ると、視界の端で黒くて細いものが揺れた。多分髪の毛だ。それがボクの方に触れそうなところで揺れてる。怖い。ヤバい。体が動かない。
「……あ……な、なんで?」
返事をする声が裏返った。というか、何で返事なんかしたんだって、一秒後に後悔した。
いつか出ると思ったんだ。あの内見をした日。不動産のお兄さんは一から十までこの部屋のことを説明してくれた。何も隠さず、ベランダ付き、風呂トイレ別、2LDKのこの部屋が何故相場より二万円も安いのかぜんっぶ説明してくれた。悪いのは話を半分も聞いてなかったボクのほうだ。
この部屋一年前、この部屋で女の人が首を吊ったらしい。
ちょうどベランダの前で、発見は早かった。だから部屋はそこまで汚れなくて、でもクリーニングはきちんとした。その二ヶ月後から新しい入居者を募集した。相場より二万円も安いこの部屋に入居はほ殺到して、けれど誰も二週間も続かなかった。
二週間、つまり十四日も続かない。十三日になる前に皆この部屋を出て行く。今日は十日目。もうおしまいだ。おばけがボクを殺しにきたんだ。
言いようのない絶望感が身を包む。それは髪の毛が、動いた瞬間重みを増した。
「だってナポリタンの方がオレンジ色だし……ベーコンも入ってるし」
「えっ、ナポリタンってウインナーじゃないの?」
振り向いた瞬間、何で振り向いたんだろうと後悔した。何でボクってした後で毎回後悔するんだろう。
ボクの後ろにいたのは女子高生だった。
ボクの肩先で揺れていたのは思った通り彼女の髪の毛だった。肩の上で二つ結びにしてる。前髪は少し長くて、服はどこにでもあるようなセーラー服を着ていた。
「あー、ウインナーも美味しいよね」
女子高生のおばけはそう言って首を傾げた。思わず目線を下にする。おばけは今どきの女の子らしく、スカートの丈は膝の少し上だった。そのすぐ下には靴下があって、部屋の中だからか靴は履いてなかった。黒い爪先が見えた。と、同時にボクは体勢を崩して床に倒れた。
「ダァッ!!!!」
「わっ……!ちょっと、大丈夫?」
「あ〜〜……っ!う、はい……」
思いっきり二の腕を強打した。あまりの痛みに床を転げ回っていると、おばけがなぜか膝をついてボクの顔を覗き込む。眉を下げて、ちょっと心配そうにボクを伺ってる。
「ねぇ、お兄さん大丈夫?」
ボクを殺しにきたはずのおばけがなぜかボクの心配をしている。
「あ……は、はい。うん、まぁ」
「そっか。ならよかった」
おばけがボクを見て笑った。そしてその場で膝を抱えて体育座りをする。
「それでさっきのナポリタンの話だけど」
「う、ん」
「私はね、ベーコンが入ったナポリタンが好き。ピーマンは輪切りにして、ケチャップじゃなくてトマト缶で作るの」
「それは……すごく、手間がかかってる、のかな?」
「そんなことないよ〜。あっ、でも先にベーコンを焼いてると凄く美味しくなるよ!」
「あ〜、うん」
「あと隠し味にウスターソースと、最後にバターを入れる!」
おばけはその隠し味がいかにナポリタンの味に深みを増すのかを力説している。食い意地の張ったおばけだな、とぼんやり思った。
「ねぇお兄さん、話聞いてる?」
「あ、うん、聞いてる。今度作るときはそうするよ」
「うん!」
とにかくおばけの意に反するのが怖くて適当に頷いたら、よく分からないけどおばけはニコニコ笑っていた。よかった、なんとかなったらしい。いや、何の話だっけ?そうだ、ナポリタン。ベーコンを焼いて、バターとウスターソースを入れて。
「ところでお兄さん」
「えっ?」
おばけがきょろきょろと部屋の中を見渡している。
「この部屋、何にもなさすぎ。ソファくらい置いた方がいいよ」
「あ、はい」
「あと本棚もね。床に置きすぎ」
「本棚、ね。うん、それは買う」
「あと植物とかも置いた方がいいよ。花とか」
「花?花は世話が大変だし、多分枯らしちゃうからなぁ」
「でもあると部屋に彩りが生まれるよ」
「う〜ん……」
「仕方ないなぁ」
煮え切らないボクの態度に、おばけが息を吐いた。えっ、おばけって呼吸するんだ。というか、このおばけ、足があるんだ。
おばけは部屋の隅を指差して何か呪文のようなことを言った。何を言ったのかは聞こえなくて分からない。意味を理解する前におばけは指を下ろした。
「これは私からの引っ越し祝い。あとは全部揃えてね」
「え?あぁ……ありがとうございます」
何もない空間を見るおばけにとりあえず頭を下げた。もうほとんど怖くなくなっていたけど、それでもちょっとだけ怖い。
おばけは立ち上がる。膝を少し払ってベランダへと向かって行く。やっぱり窓とか壁とかすり抜けるのかな、なんて考えながら背中を見ているとおばけが振り返った。
「ねぇ、まずはソファを買った方がいいよ。床で寝ると体が痛くなるから」
「えっ、ああ、うん、分かっ」
「た」
た?
「た……た?」
目が覚めると同時に、変なことを言っていた。ことというか、単語というか。
ベランダから朝日が部屋を照らしている。もう朝か、と体を起こすと何故か背中や右脇からボキボキと音が鳴った。布団がない。いや、固すぎる。見るとボクが寝ていたのは布団の上でなく床の上だった。
「あぁ……いって……」
腰に手を当てながらのろのろと起き上がる。全身が痛い。今が何時か,分からないけど、朝食を食べたらもう一度、今度は布団の上で寝ようと思った。
とりあえず水を飲む。お腹も空いてる。頭の中に何故かケチャップライスが浮かんだ。何故か分からないけど、無性にケチャップライスが食べたかった。
体を軋ませながら冷蔵庫を開ける。ケチャップと冷凍ご飯、あと卵があったのでオムライスにすることにした。具なんて豪華なものは無い。
フライパンにバターを溶かして揺すっていると、何となく腕が痛かった。変な体勢で寝たな……と思いながら腕まくりをしたら、二の腕の外側に青あざが出来ていた。
「は……?」
まるでどこかにぶつけたような。でも、どこに?あざが出来るようなことした覚えがない。強いて言えば二週間前の引っ越しの時だけど、そんな怪我してない。
どこかゾッとする気持ちでオムライスを作る。眠かった頭は変に覚醒してしまって、もう眠れそうになかった。
ご飯をバターとケチャップで炒めたものの上に焼いた卵を乗せる。机に戻ろうとして、ふと部屋に違和感があることに気づいた。
「……?」
5秒で見渡せる部屋。家から持ってきた家具の中に、異彩を放つものが一つ。
「なんだこれ……」
部屋の隅に植物の鉢が置いてあった。茶色い鉢植えに細長い草が生えてる。
ボクのものじゃないし、母さんか姉さんが置いたものじゃない。多分あいつらでもない。けど、引っ越し祝いでもらったような気がする。誰からかは覚えていないけど。
「えー、誰だっけ……不動産屋さんか、編集さんかな……まぁ、いいや」
どうせ昼から編集さんと話すし、その時聞こうと勝手に解決させた。ボクは具なしオムライスを手に椅子に座る。真っ白な自由帳にはいつも通り、色鉛筆で一本一本線が書いてあり、その下にミートソーススパゲッティの絵が描いていた。