そして君は空を飛ぶ
『空を飛びたい。雲の上で休みたい』
あの時、たしかに君はそう言っていたね。
いつものように真面目な話かと思っていた。それとも、たまに言う君の冗談とか夢に見ていたことだと思った。
君はいつも勉強熱心で、真面目で友達思いで、誰かの期待に答えられるように、と頑張ってた。必ずみんなのためになるようにと、自分の思いを殺して周りのことだけ考えていた。
僕は、そんな君のことをずっと見ていた。
君が辛くなれば僕は助けるつもりだった。あの家族やクラスメイトから守りたかった。だから、君が友だちをつくった時、寂しかったけれど嬉しかった。君が、心を開けるようになったから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「今日、図書館にいかない?」
無邪気な笑顔で言う君はまだ何処か幼くて、可愛かった。君が笑顔を見せるのが、小さい頃よりも少なくなった事を僕は知っていた。けれど、それを口に出すのはためらわれた。それを口にして、君の笑顔が曇るようなことをしたくなかったから。今は、そんな事を考えずに過ごせるようにしたかったんだ。
「良いよ。時間は――いいっか、そんな事」
「いいよ、時間なんて。本を読んでいたら時間なんて関係なくなっちゃうもん」
本好きならわかる、その至福。僕の顔が自然と笑顔になった。そんな僕を見て、君もふふっと笑い声を漏らした。そんな時、僕達の間には穏やかな雰囲気が流れていた。
「さっ、じゃあ行こう!時間もったいないよ」
「そうだね。行こうか」
僕達の足は、ゆったりと図書館へ行く道に歩きだしていた。
その日の雲はふわふわの、ベット見たいな雲だった。勉強で疲れていた僕にとって、それはとてもふかふかなベットに見えた。
河川のそばの散歩道を歩いていた僕達は、顔を見合わせると岸辺に座った。芝生はわずかに湿っていたけれど、それが妙に気持ちかった。
少し冷たい風が吹くと、君は僕に体を寄せてきた。
君と寄せていた体の接していた部分は暖かくて、安心した。君の手は、いつも冷たくて、細くて今にも壊れてしまいそうだった。
君は強かった。精神的にだ。あんなに細くて何処にそんなパワーがあるのか、いつも不思議に思っていた。
いつもはっちゃけていたけれど、何でもできる君のファンは多かったよね。
僕達はしばらく空を見ていた。寝そべって空だけを見ていた。時間なんて気にしていなかった。
「あの雲の上で寝ていみたいな。ベットみたいだよ」
そう僕が言うと君は大きく笑った。
「そんなこと言っているから勉強が進まないんじゃなくて?居眠りさん」
そんな君の返事に僕も笑った。君はユーモアでもあった。
「まったく、ひどいね。……で、あの雲を見て何を思ったの?」
君の返事は面白そうで気になった。僕が聞くと、君は少し真剣な顔をしてからごまかすように笑った。
「私は……、そうね、雲の上で寝ながら本を読みたいな」
「君はいつもそうじゃないか」
そう言うと冗談というようにふふっと笑った。
そして、再び空を見上げると何処かつぶやくように言った。
「空を飛びたい。雲の上で休みたい」
その声は、微かにしか僕の耳に届かなかった。僕は何も言わなかった。ただ、沈黙していた。
ふと横を見ると、君は何故か寂しく微笑んでいた。
その時、何か声をかけるべきだったかもしれない。変だと気づいていても、君のその一言に返す言葉を持っていなかった。
僕達はしばらく無言で図書館に言った。その間、僕達の周りの空気は何処か冷たかった。
図書館につくと、僕達は笑顔になった。
君は読書家だったから、いつも本を十冊借りていた。勿論、僕も十冊借りていたけれど、君は読む時間など無かったのではないのかな。暇な僕と違って。
本を返し終わると僕達はそれぞれ読みたい本のコーナーに向かう。
僕は政治論や推理小説のところへ。君はファンタジー本や冒険ものSFのところへ。僕達は好きなジャンルは違ったけれど、本を読むことに関しては気があった。僕の家には沢山の本があったから、君は毎日のように僕の所に本をかりにきていたよね。
「ねえ、この本面白いよ!」
「……よく見つけたね、そんな本」
君は面白い本を見つけてくる子だったよね。ほんとによく見つけていたよ。
今となっては忘れられない。そんないたずらなやり取りとかも。君は……どうかな。
そんなやり取りをした後、僕達は図書館を出た。
暗くなっていたけれど、僕も君もそんな事は気にしなかった。二人で月明かりの中歩くのは輝いていた時だった。
途中、僕達は駅に行った。その時、君の友達に会ったよね。その時、君は一瞬強張った表情をしていた。
その時に気づいていれば良かったかもしれない。あいにく僕は、鈍感だったんだよ。知っていて君は言わなかったのかい?……やっぱり僕は、鈍感だから分からない。
「大丈夫?」
そう僕が問うと君は小さく笑ってから君の友達の所に行ったね。
「本持っていてくれる?あと、一緒に帰ってくれてありがとう。……ちょっと待ってて。いま、話してくるから。……絶対来ないでよ、お願い」
そう言い残して。
最後は消え入るような声で、でもはっきり言った。そして、行ってしまった。その時僕は、追いかけられなかった。君が知って欲しくないことだと目で言っていたから。
僕は、手にある荷物に目を落として、君のことを待っていた。暗くて、静かで寂しい夜は、僕のことを不安にさせた。心配していたのは君のことについてだ。あまりにも遅かった。君を待っている間に何人、僕の前を人が通り抜けていっただろうか。あまりにも遅すぎた。
僕は君のことを心配して君が行ったところを探した。君の約束を破ってね。
君は――真っ暗な所にいた。街灯一つの下に、君を入れて四人の影があった。
その場に流れている空気は、明らかに友達と話しているのとは違った。冷たくて、鋭くて、何処かブラックで僕は思わず身震いをした。
故に僕は君たちの前に行った。
君の友達は僕が近づいたのに気づかなかったらしい。顔を真赤にしてまくし立てていた。
「いいよね、図書館で本を読んでいても学年一位なんだから。学校に来なくても勉強できるでしょう?」
案の定、君は言葉に詰まった。悔しそうに顔を歪めてあえぐように声を出した。
「そ、そんな事は……」
「あら、では何でできるのかしら?」
僕は君のことを知っていた。君にそれは、言ってはいけなかったのだ。君はその話をとてつもなく嫌がった。――トラウマ、心の傷。あの子達はそれを知らなかったのかい?そう問いかけても、答えてはくれない。
「ごめん、待たせて。……はい、本」
「あ、ありがとう」
君は助かったように表情を緩めた。そんな君に僕は微笑んだ。
「もう、帰ろう?遅いから」
「うん。ありがとう」
君はその時、君の友達には挨拶をしなかった。彼女たちには顔を向けず、挨拶もせず、僕の腕を引っ張ると早足で去ってた。
僕は一旦立ち止まると目礼をして、彼女たちの元を去った。
「なによ、あの女。ひどいわ。なんで、なんで……」
そう彼女たちは呟いていた。
君は帰る時、何も言わなかった。僕の顔を見なかった。多分、泣いていたのだろう。僕の耳に、微かに、微かに君の泣き声が聞こえた。
僕もあえて、何も言わなかった。言えるはずがない。それを言ったら君が傷つくと分かっていたから。でも、君はなにか言ってほしかったのかな。僕には分からない。そして――、今もわからない。僕はついに、その事を知ることは無かった。
君と僕の家につくまで、僕達は何も話さなかった。
君と僕の家は隣だった。でも、家庭は遥かに――真反対だった。
「ただいま、帰りました」
そう君が君のお母さんに言うと、中から怒鳴り声が聞こえてくる。
「また、図書館に行っていたの!早く中に入って、勉強して寝なさい!こんな遅くに帰ってくるなんて、悪い子ね」
君のお母さんは、――君の家族はいつも君に圧力をかけて、君に理想を押し付けていた。そして、君のお父さんは――。
「ごめんなさい、お母さん。図書館で勉強していたの。本当にごめんなさい」
それは勿論嘘なのだがあえて何も言わなかった。そう言ったら何が待っているか僕は知っていたから。
「そう、あの人が待ってるよ、早く行きなさい。行かなかったらどうなることか……、そうなったらあんたのせいだからね」
その扉の奥で何が起きているのか僕達は察していた。だが、何も言えなかった。僕も、僕の家族も。言ったらその後、君に何が降りかかるか――。
君のためは、それはいけなかったのかな。そうかも知れない。でも、言っても今は駄目だったよね。言ったら、君に全て降りかかってしまうから。
「そう、ごめんなさい。今すぐ行きますから許してください、お母さん。じゃあ、今日はありがとう」
「いいや、なんてこと無いよ。じゃあ、お休み。……夢の中では平和なことを祈っているよ」
「どうもありがとう。お休み」
そう、寂しく微笑んで君は行ってしまう。その背中は、君が学校にいるときよりずっと小さくて、ずっと痛々しかった。
その時に声をかければ、まだ違ったのかな。でも、いつも見送ってしまうだけだった。
「あら、おかえりなさい。また、図書館行ってたの?……はあ、まあ良いわよ」
母さんは僕が声をかけるより前に、何かを言うより前に悟ったみたいだった。君の――お隣の家を見て、ため息を付いた。
「ごめん、母さん。今日は特別」
「そう、良いけどね。さ、そんな所に立っていると冷えるわよ。早く入りなさい?」
そうして僕達は中にはいった。
そして、君の泣き声が、僕の耳にははっきりと聞こえた。
僕の部屋の窓から、君の部屋の窓が見えるけれど、君の部屋の窓は、はっきりしっかり閉じられていた。
君は結局、何も言わなかった。僕も結局、何も言えなかった。
僕は君のことが、ずっと好きだった。君はあの家族に耐え続ける力を持っていて、たくましかった。だから、僕が気づくべきだったのかな。
その日の君はおかしかった。何処か、いつもと違った。君は訪ねてほしかったのかい?でも、君は尋ねると傷つくよね。
学校でも、君は笑っていた。それは、君が無理やり貼り付けたような笑顔だった。
僕は君とクラスが違った。だから、君のクラスのことは、僕の友達から聞いていた。君の口からクラスのことが語られる事は無かった。
僕はそれとなく君に手をかして、助けたことが、それこそ僕の知っている範囲で数え切れないほどあった。
君は、一人それに耐えていたのかい?
いつか、いや、あの日の朝、君は僕の耳元で、はっきりと言ったよね。
『好きだよ』
僕が、悲しむと分かって、そう言っておいたのかい?
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『空を飛びたい』
その君の一言に、気づかなくてごめんね。
それは君の、SOS――救難信号だったんだね。
分かっていても、どうなったかわからないけれど。
それとも、わざとわからない僕に言ったのかい?君は僕が鈍感なことをよく知っていたからね。
君は確かに空を飛んだんだよ。雲の上で、休めるんだよ。やっと。
それを君は望んでいたんかい?
でも、君には休息が必要だった。いつも頑張りすぎの君に、あの家族は休息を許さなかった。
僕は悲しい。気付けなかった自分に、止められなかった自分は、とても情けなくて腹が立つ。けれど、君がそれで、その休息を幸せと感じているのなら、僕は嬉しいと思うことにするよ。僕が後悔することを君は望んでいないだろう?
君は空を飛んだんだ。あの、ふわふわな雲の上で休んでいるんだ。
あの家族と、友達のことを置いてね。それで良いんだよ。やっと君は、自由になれるんだ。
だって、君はもう……。
ありがとうございました^^
ちょこっとサラッと何か書きたくて(笑)
気分的にです。