夏の終わりに
次の台風が近づいていた。
空には、不気味なほど暗い積雲が重くのしかかっている。
予報によれば、沖縄本島へもっとも接近するのは明後日の未明だそうだ。
「……あきさみよ」
船つき場の桟橋から不穏に渦巻く空を見あげ、亮太はため息をついた。漁港もかねた小さな埠頭には、ひとの姿はなかった。亮太をここまで乗せてきたフェリーも、乗客を吐き出すと逃げるように那覇へ引き返していった。台風が大潮の時期と重なることもあって、見れば船つき場のクルーズ船はすべてロープで厳重に固定されている。
「こりゃ、しばらくフェリーは欠航だな……」
北半球でもっとも美しいとされるサンゴ礁の海が、今は空と水平線の境界を暗くよどませながら、嵐のまえの不気味な静けさに凪いでいた。
「ニィニィーっ!」
ふと元気な声に呼ばれ、振り返ると、妹の愛理がちぎれんばかりに手を振りながら駆けてくる。
「あいッ、今日帰ってくるとは思ってなかったさー」
「台風のせいで明日の飛行機が取れなかったばァよ。いいやし、今夜は家でのんびりさせてもらうさー」
「ウフフ、じょーとーじょーとー」
そう言って、汗ばんだ腕をからめてくる。
「なら、うちも一年ぶりでニィニィにいっぱい遊んでもらいましょうねー」
「フラー(ばーか)」
ずいぶん背が伸びたなと思った。去年会ったときには自分の肩までしかなかった背丈が、今は鼻の高さくらいまである。体つきも丸みをおびて、だいぶ女らしくなってきた。
「ヤーのおっぱい、会うたびに大っきくなってゆくなあ……」
「ニィニィの変態っ。うちもうわらび(子ども)じゃないばァ」
「おまえカレシ出来たか?」
「ああっ、ひとが気にしていることをー」
口をとがらせ両手でポカポカ殴ってくる。オフショルダーのTシャツからのぞく肩には、くっきりと水着のあとが残されていた。
「ところで、ヤーは港になにしに来た?」
「オバァから買いもの頼まれた」
「コープのチャーター船なら来ないはずよ。台風が過ぎるまで移動販売は見合すってフェリーの発着場に張り紙してあったさー」
「あいー、あきさみよー(なんてこったい)」
たいして困っているふうに見えないのは、愛理のほうでもコープの移動販売をそれほど当てにしていなかったからだろう。台風のせいで物資が届かなくなるのは、島ではよくあることだ。
「買い物なら比嘉商店ですればいいさ。コンビニとまではいかないけれど、大抵のものならあそこでそろうし」
「ニィニィ知らないの? 比嘉のヤッチィ入院したばァ。当分のあいだ店は休業するって」
「じゅんに(マジで)?」
比嘉商店は、島内にただ一軒しかない雑貨屋だ。営んでいるのは比嘉のヤッチィ(兄貴)と呼ばれるひとで、元自衛隊員だけあって体つきも頑丈で、おまけに空手もやっている。たしか週に一度、那覇にあるカラテ教室で子どもたちを相手に剛柔流空手を教えていると言っていた。
「あのヤッチィが、なんでまた?」
亮太が尋ねると、愛理は少し声をひそめて言った。
「コロナ」
「だいぶ悪いのな?」
「酸素ボンベつないでる」
「でーじやっさ(大変だな)」
観光業で成り立つこの島にはつねに多くの旅行者がおとずれる。沖縄本島でコロナ患者が爆発的に増えたとき、それに呼応するようにこの島でも急に感染者が出はじめた。
「なんだか、バタバタしてるうちに夏終わっちゃったなー」
愛理がポンと小石を蹴る。
「コロナコロナで明け暮れて、気づいたらうちらの高校生活終わってる、みたいな?」
「ヤーは、卒業したら島出るんだろう?」
そう尋ねると、愛理は急に大人びた顔になった。
「わかんない……でも当分はここへ残るつもり」
「なんで? この島でやりたい仕事でもあるのか」
「それはまあ、あれだ。うちにも色々と大人の事情が」
「この、くさぶっくわーが(生意気なやつめ)」
「たがひがプー(あっかんべー)」
愛理は、護岸のコンクリートを蹴って走り出した。
「島を捨てたひとが偉そうにゆうなー」
海鳥がゆるいカーブをえがいて岬のほうへ飛び立った。
ここで育った子どもの多くが、大きくなるとやがて島を出てゆく。水着の日焼けあとがだんだん薄れてゆくように、島での楽しかった記憶も日々の忙しさに忘れ去られてゆく。だけど……。
「ニィニィ、早くー」
愛理が立ち止まって、大きく手を振った。
「あとで一緒に花火やろう」
「花火?」
「夏にみんなでやった残りがあるばァ」
「台風が来るのにか?」
「ぐずぐずしてたら青春終わっちゃう!」
思わず苦笑が漏れた。
「あいつには、かなわんさー」
荷物を背負いなおし、足を早める。
海から吹いてくる風が、そっと背中を押してくれた。
「やっぱ……いいもんだよな」
どこかよそよそしかった島の景色が、このときようやく心のなかで故郷の風景と重なったような気がした。