第十九話 妄執は這って寄りたつ
「うす」
「はよ」
玄関のドアを開くと、卯乃原がいた。
「ごめん、もうちょっと、時間かかる」
「そっか、だったら、先にエレベーター呼んでるよ」
「ありがと」
「……早くな」
そう言って、エレベーターの方へとかけていく。
「うん…………………………はっ」
何となくその背中を見送っていると、後ろからくすくすと悪魔の忍び笑いが聞こえてきた。
「見たぞ、聞いたぞ」
慌てて振り返ると、今日はまた凄まじい寝癖の姉ちゃんが、何故かズルリズルリと地面を這っていた。
足元まで来て、陽炎が立つようにゆらりと体を起こす。
いつもみたいに歯ブラシを口に突っ込んで、口の周りを泡だらけにしながら、頭はエヴォリューションじゃない方の孫悟空みたいな感じ。
パジャマ代わりのジャージは埃だらけだ。……這ってたからね。
とてもじゃないけど、人様にお見せできる姿じゃなかった。
「ぬきゅきゅきゅきゅきゅ」
そんな社宅育ちのサイヤ人が、口元に手を当てながら「ぬきゅきゅ」と笑って(?)いるのを見ると、底知れない不気味さがある。
「な、なんすか?」
「『よう』……『お、おはよ』」
「は?」
わけの分からない俺を尻目に、姉ちゃんは言いながら、体を左右に向けたりしている。
「『ご、ごめん、もうちょっと、時間かかる』」
え、えーと。
良く分からないが、どうやら今のは俺らしい。
やけになよっとしてる気はするけど、姉ちゃんはさっきの俺と卯乃原のやり取りを見ていたようだ。
呆れつつ眺めていると、体をぐいっと動かして、反対の方向を向く。
「『いいよ、じゃあ、俺がエレベーター呼んどいてやるよ』」
対して、こちらは卯乃原なのだろう。
三割増しぐらい男前の声で言うと、ニカっと歯を見せて笑う。
さすがに歯磨きを欠かさないだけあって、姉ちゃんは綺麗な白い歯をしていた。キラリン。
それは、いいけど、これ一体……。
「『あ、ありがと』」
あ、まだ続くんですね。
「『いいって、早くしろよ子猫ちゃん』」
言ってない。
絶対に言ってない。
子猫ちゃん呼ばわりされた俺はくらっと眩暈を覚える。
そんな事にはお構いなしで、背筋が寒くなるような小芝居は続いていた。
姉ちゃん演じるちょっとなよっとした俺が、もたれかかるように壁に寄りかかる。
「『うん…………………………好き(ボソッ)』」
「言うかあああああああああああああああああああっ!」
小芝居が許せない所まで行ったので、俺は叫び声を上げた。
というか、これは一体なんだ。
「耳鼻科と眼科行け!!! 五感関係の医者全部いけ!!!!」
「いやぁ」
いやぁ、じゃねーよ。
「つい、邪な妄執が」
「よ、邪な妄執……!?」
「何ていうか、そうなればいい? いや、なるべきだ。なれ!」
最後強く言い切って、姉ちゃんは一瞬で表情を戻す。
「……そんなことより」
「豹変!?」
「時間いーの?」
「だ、誰のせいだと……」
しかし、言っても無駄だと気が付いて、準備のために俺は部屋に戻った。
卯乃原たちとあんな事があってから、週があけて最初の月曜日。
俺らしい朝には、少しだけ変化があった。
制服をハンガーから下ろし、きちんと着込んでから、鞄を手にする。
襖を開く。
忘れ物をチェックする意味を込めて部屋を見回して、頷いて、部屋を出た。
玄関まで急いで戻ると、そこには未だにシャコシャコやってる姉ちゃんが、口の周り泡だらけのままぼけ―ッと突っ立っている。
俺を見つけてにこりと笑った。
「ほんじゃ、気をつけてね」
「……はいはい」
靴を履きながら、お座なりに返事する。
ちゃんと返事をするのは何となくシャクだった。
つま先を地面で叩いて踵をあわせると、後ろで姉ちゃんが動く気配があった。
多分洗面所に戻るんだろう。
その時、ふと思いついて、俺は姉ちゃんに声をかける。
「あ、ねえ」
「うん?」
姉ちゃんは洗面所に入るところで、足を止めてこちらを見ていた。
「あのさ、もし俺が死んじゃったら、姉ちゃんどうする?」
「…………は?」
唐突な質問に、少しびっくりしたような顔をした後、姉ちゃんは真っ直ぐ俺を見てきた。
「い、いや、だから、例えばですよ、今日帰り道で突然の胸の痛みに襲われるとかして……」
さっきの仕返しのつもりで言ったんだけど、思ったより真剣な表情に、視線を逸らしながら俺は訊ねる。
確かに、ちょっと、言って良い冗談じゃなかった気もする。
そう思ったとたん、きょとっと表情を戻して、姉ちゃんはうーんと一度唸った。
「……そうねー。どうだろ、案外直ぐにケロッとした顔して笑ってんじゃないかな?」
「あ、そう……」
がくッと肩が落ちた。
いや、まあ、らしいっちゃらしいっす。
「それで、多分ずーっと寂しいの」
「え」
顔を上げて、俺は姉ちゃんの顔を見た。
クスッと笑って、姉ちゃんは俺のほうに歩いてきた。
パシンと頭をはたかれる。
「アキは弟なんだから、何でもお姉ちゃんが先なの」
そう言って、両手で髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
……ちょっと嬉しい自分が不思議。思春期ってホント不思議。
「いってらっしゃい」
「……うん、いってきます」
素直に答えて俺はドアを開ける。
「あ、スキンシップ大事だからねスキンシップ」
「だから、アドバイスいらねーっての!」
姉ちゃんの笑い声を聞きながら、思いっきりドアを閉めて、俺は家を出た。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ! 血だあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ミニトマトをたくさん食べた後の歯磨き時の風景。
小さいのは脳か肝っ玉か……。




