第十八話 ありえない距離
「……そろそろ戻ろっか」
ボソリとカナがそういった。
二人、金網を背もたれにして、薄くなっている青空を見ていた。
今から帰れば、最後の授業には出られそうだ。
別にそこまで授業に出たいわけではないけど、そうする事で、カナの居る日常に戻れるような気がした。
「うん」
ホッとしながら頷いて、俺は歩き出す。
扉の前に着いたとき、カナに声を掛けられた。
「ねえ、アキ」
「ん?」
振り返るとカナが駆け寄ってきて、俺の隣に立った。
「ありがと」
満面の笑顔で、ぎゅっと手を握ってくる。
ドキッと心臓が跳ねた。
「い、いや、そ、そんなの全然いいですけど」
なぜか敬語になってしまった俺に、更に笑みを深める。
カナの顔を見ていられなくなって、俺は視線を暗い階段の方へとそらした。
心の中で、体は男を三度唱えたのに、今度はドキドキは収まらなかった。……いよいよ飲むか。
「じゃ、じゃ、じゃ、じゃあー、い、行きましょうかね」
どこの中間管理職なんだ、と、尋ねたくなるような台詞を吐いたくらい動揺していた俺は、だから、「それに」とカナが言った時にも、特に何か考えることもなく彼女の方を振り返っていた。
「それに」
え? と思ったときには。
……もう遅かった。
唇に柔らかく何かが触れて、卯乃原の顔がアップになっていた。
ちゅっというより、ちょんって感じで、ホントに軽く触れるみたいに。
それはキスと呼ぶにはあまりにもあっさりしたもので、想像していたよりもずっと衝撃的だった。
「か、カナ?」
「ごめんね」
呆然と見つめる俺に、カナが謝ってきた。
それが、「それに」の、続きだと気が付いた時には、俺達の手は離れていて、カナは一歩後ろに下がっていた。
「アキの事は好きだけど、私には、やっぱりカナエが大事なんだ」
そう言ってもう一歩下がる。
顔が赤くて、本当に嬉しそうなのが悲しかった。
「だ、ダメだ!」
一体何がダメなのか自分でも分からない。
必死で手を伸ばしても、届かない。
それどころか、扉の縁でつまずいてしまい、その場にすっ転んだ。
最後にとんでもなく格好悪い姿を見せて……。
浮かんできた言葉にゾッとしてしまう。
なんとか起き上がったときにも、カナは笑っていた。
どこかスッキリしたような笑顔に、俺は動くどころか、喋ることすらできない。
「……カナエの事よろしくね、ちょっと顔怖いけど悪いヤツじゃないから」
光に溶けるように彼女は目を閉じる。
「カナ!」
その瞬間呪縛が解けたみたいに足が動いて、俺は慌てて彼女の方へ近寄る。
「カナ! カナ!」
精一杯背伸びして、カナの体をゆする。
返事はない。
黙って目を瞑った顔は石膏像のようで、俺の焦燥感を煽る。
しばらく呼びかけていると、唐突にホントに突然ぱちりと目が開いた。
「か、カナ」
不安に声が揺れる。
しがみついている俺を怪訝そうに見下ろしながら、
「どうかしたのか浮塚」
「……あ」
卯乃原が俺にそう言った。
腰が抜けたみたいに膝が落ちた。
ずるずると卯乃原の体を滑り落ちる。
「お、おい、大丈夫か?」
何も知らない卯乃原が、慌てたように俺を支えてくれた。
そうだ。
卯乃原は何も知らないんだ。
「……う、卯乃原ぁ……ど、どうしよう……」
「な、なんだよ」
事態を掴めていない声で訊ねてくる。
卯乃原の服を掴んで、なんとか立ち上がった。
教えなきゃ。
「……どうしよう……俺……どうしよう」
言わなきゃいけないのに、きちんとカナの最後を伝えなきゃいけないのに、言葉が嗚咽になって出てきた。
頬に暖かい湿り気を感じて、心底情けなくなってくる。
滲む視界の中、俺を見つめる卯乃原の表情は静かになっていった。
その一瞬で全部が分かったみたいに、小さく頷く。
「…………ひっく……ううぅ……ひっく……」
そんな卯乃原の姿を見てると、俺のほうが我慢できなくなった。
小さい頃からの癖で、泣くとしゃっくりが出てしまう事がある。
よりにもよって、こんな時にその癖が出た。
あまりの情けなさから拳を握っていると、大きな手に頭を掴まれた。
そのまま引き寄せられて、何か硬いものに鼻をぶつける。
「……れ?」
痛いのより、不思議が勝った。
気が付けば、俺は卯乃原に抱きしめられていた。
スッと背中に手が回ってきて、小さい子供にするようにトントンと叩かれる。
「……そっか……」
――俺が、卯乃原の目の前に立つなんて、有り得ない筈だった。
それなのに、頭の上から聞こえて来る声はとても寂しげで、俺のか細い声は鳩尾に跳ね返されもせずに、小さく染み込んでいって跡を広げていく。
「あいつ……馬鹿だから」
諦めたみたいな声。
少しだけ抑揚を欠いた、卯乃原の低い声。
「……そっか……」
それから、もう一度、疲れたみたいに、そう呟く。
多分、無意識に俺の髪を弄りながら、もう一方の手で背中をさすっている。
俺は、ただ泣く事しかできなかったのに。
「……ごめん」
卯乃原が何故か謝っていた。
残り二話を残すのみとなった今でも、この更新ペースに慣れないです。




