8.カラー
「変わらない」
駿太郎はペンション タカシナのベンチに座って空を見上げた。初夏の爽やかな青い空を支えるように木々の緑は萌え、庭の緑が美しかった。この高原にももうすぐ夏が来る。短い、夏が。あの夏、どこまでも青い空に身を投げ出すように、駿太郎このベンチに寝そべっていつまでもいつまでも空を見上げていたっけ、まるで、時間を忘れたかのように。
変わったのは自分だけだ。駿太郎はベンチに座って空を、緑を見ていた。緩やかにカーブを描く敷石の目地を眺めていた。足音が近づいてきていることに気づきもせずに、ぼんやりと、思考は過去と現在を何度も何度も行き来した。
「シュン」
その時、自分の名前を呼ばれて、駿太郎はいまここが、過去のいつかなのか今現在なのか判断がつかなくなって声のする方を振り向く。自分を呼んだ男が立っていた。
あぁ、そうだ、時が流れて、季節が巡って・・・。
「コーさん」
と駿太郎はその男を呼んだ。
高科が呆れたように溜息をついて
「お前ってやつは」
と笑った。
「相変わらず強情だな。」
「相変わらずって・・・。」
駿太郎は複雑な気持ちになった。俺は強情だろうか、いつ、高科の前で強情な自分を見せたんだろう、でも彼がそういうなら自分は強情なのだろうか。よく分からない。
「もう、いいや。どっちでも。お前はシュンだしハナさんで、俺はタカシナだしコーさんって呼ばれてて、・・・。つか、結局、お前はお前だし、俺は俺だ。」
高科は少しぶっきらぼうにそう言った。
「うん」
駿太郎は頷いた。確かにそうだ、高科はコーさんだし、自分は駿太郎でハナさんと呼ばれている、過去のどこかから突然飛んできた訳ではなくて、ずっと一本に続いている道の先にいる自分だ。
ベンチを取り囲む縁石から高科はゆっくりと芝を踏んでベンチへと歩を進め、駿太郎の斜め前に立った。駿太郎は高科を見上げたまま少し座る位置をずらして高科にスペースを空けた。高科はそのスペースと駿太郎を見比べて、でも座らずに立ったまま手にしているものをすっと駿太郎に差し出した。それは、一輪のカラーの花だった。
「・・・?俺に?」
「あぁ。」
「なんで?」
「なんで・・・って、別に。理由なんてないよ。」
「ふうん・・・」
カラーの花は上質な不織布でできているようにしなやかに硬く、くるりと芯を包み凛としていた。美しい花だ。
「カレシでもない男から花をもらったら、困る?」
高科はいたずらっぽく笑ってそう言って駿太郎の横に座った。
「カレシに怒られちゃう?それとも、そんなガキとは付き合わないか。」
高科は駿太郎から目をそらしてまっすぐ前を向いて言う。まるで試すような言い方に駿太郎は少し腹が立った。
「そういうお前こそ、あの子が見てないからってこんなことしていいの?俺ならヤダな。俺以外の男に花を上げる男なんて。」
「あの子?」
「・・・・。とにかく、受け取れないよ、綺麗だけど。」
駿太郎はカラーの花を高科の胸元に突き出した。高科はじっとその花を見つめていた。駿太郎も高科の胸元に頼りなげにしな垂れかかるカラーの花を見つめた。花に罪はないし、本当のことを言えばとても嬉しかった。意地を張った手から少し力が抜けた。それを見計らったように高科が優しく駿太郎のその手首を下から包むようにした。高科の手は大きく、温かかった。
「昨日さ、テーブルやら椅子やらセッティングしながらね、なんとなくなんだけど、もしもお前が花を持つなら、カラーかなって思ったんだ。カサブランカみたいに華やかじゃなくて、チューリップとかマーガレットみたいに愛らしい訳でもなくて、分かりやすそうで、分かりずらい感じで、そんでなんか、カラーって少しロングのカクテルグラスに似てるよな」
高科の手が、離れた。不意にその部分が寂しくなって、駿太郎は高科の手が触れた部分を撫ぜた。
ずっと、忘れられなかった。
ずっと、ずっと、高科のことを好きだった。
誰かが自分を求めても、求められた自分を与えたいと思っても、高科に抱いた想いとは違う。高科に抱く、想いとは違う。
今にになって、そのことに気づいても、この男はもう。
『それが、そういう運命だったってこと』
二十年も前に、このペンションの居室のベッドの上に座って、今よりも少し硬さのある少年時代を終えたばかりの声がそう言って、自分に大きな愛を伝えたことを駿太郎はその声ごと思い出した。あんなに若かった、恋とか愛とか言葉ばかりで、彼を信じることができなかった自分。好きだ、君が欲しいと言われたら、それが愛の証のように思えて、与えて、与えて、けれどけして満たされることはない自分のこれまでの生きざまを、記憶の中のその声がまるで叱るように思えた。
運命、か。
もう一度出逢えたら、そういう運命だし、
もう一度出逢っても、お互いを選ばないかもしれない。
それが、そういう運命だった、ってことだよ。
「ありがとう。」
駿太郎はカラーの花を抱いた。ありがとう、自然とその言葉を口にすることができた。思い出はいつも自分を支えてくれた。きっとこれからも。駿太郎は立ち上がって、ベンチに座り自分を見上げる男を見つめた。これが見納めのようにじっと見つめた。この場所にも、もう二度と来ることはないだろう。次にこの男に会う時には、この先はずっと、自分はカウンターの中からこの男に対峙する、ハナというバーの人間だ。
目に、焼き付けるように、フォーカスを絞るように、駿太郎は少し目を細めた。そして、一歩、二歩、後ずさって、駿太郎の靴が、敷石を擦って音を立てた。
「シュン」
懐かしい呼び方に駿太郎は胸が痛くなる。もう、そうやって呼ばないで。そう言おうとした瞬間だった。
高科が立ち上がって、駿太郎の腕を引いた。
あ
花が・・・潰れる。
胸が・・・ 。




