7.ジグソーパズル
フナイがバー華のオーナーだということはほとんど知っていたはずだった。フナイがバー華でふんぞり返ってロックグラスを揺らしていた時だって、スナック富士子で富士子ママに尋ねてほとんど確信に近くやっぱりそうなんだって知った時だって、穏やかな気持ちではなかったけれど、どこかでまだ二人の関係を見て見ぬふりでいたのかもしれない。
フナイがバー華のオーナーであるという事実に初めて動揺した。決定的な気がした。
「フナイなんだ。本当にフナイなんだ。」
さすがに疲れていたのか、前の晩が寝不足だったこともあったのか、その晩はベッドに身体を横たえるとすぐに眠気がやってきた。考えていることがあるのにまどろむ。
まるで映画を観ているように記憶と想像とが切り刻まれたモザイクになって一つの物語を紡いで高科の夜を彩る。それは鮮やかであったり、まぶしさに色が飛ばされていたりした。フォーカスが甘く、素人が撮った映画だと頭のどこかはっきりしたところで高科は自分が作り出すその映像を罵った。
そこはペンションタカシナのキッチンだ。
駿太郎が叔父を呼ぶ。
「春さん!」
と駿太郎が叔父を振り返って、彼の手にはソーサーとティカップが乗っていた。駿太郎がニコニコと笑っている。叔父が自分の肩を押しやって駿太郎の方へ向かっていく。けれど、あれは、あれは秀春だろうか・・・?
駿太郎の唇が「春さん」と動く。
ティーカップを受け取っているのは、叔父の秀春ではない。あれはカサブランカのオーナーだ。フナイだ。
それから、急に場面が変わった。
どこかのシティホテルの白い壁が、夕闇の中で薄く紫色に染まっている。ちょうど、バイオレットフィズのような色だ、と夢の中の高科は思っている。窓際に黒い影が立っていて、それはハナさんだ。
「ハナさん」
と呼ぶけれど、高科の声は声にならない。けれどハナさんには届いたらしく、ハナさんはこちらを振り向く。それからハナさんがこちらへ近づいてくる。高科は椅子にでも座っているのだろうか、ハナさんを見上げた。ハナさんがかがむようにこちらを覗き込むと、昼間に着ていたボートネックのカットソーが少しずれて、そこにキスマークがあった。カーキ色のようなベージュ色、そんな雑味のある色を着ても彼の白い肌は綺麗で、キスマークはその肌に浮いているように赤かった。
「なにそれ、だれがつけたの?」
と高科は尋ねる。ハナさんは一瞬高科を見る。それから高科から目をそらした。背けるみたいに、目をそらした。
その時チャイムが鳴ってハナさんは「はーい」と、高科から離れてドアに向かっていく。「待ってよ」と高科はハナさんを引き留めようと思うけれど、なぜか体が動かない。
高科はその時、自分がカラーの花になってドレッサーの前に飾られていることに気づいた。夢の中でそのことに気づいた高科は、これから目の前のベッドで繰り広げられる景色を想像して「厭だ!」「厭だ!!!」と騒ぐ。この部屋を出ていきたい、と思う。けれど高科の叫びは声にならないし、体は動かない。
そしてふいに身体が軽くなった。汗をびっしょりかいて気持ち悪い。高原の初夏、時折こうして油断して窓を閉め切っていると蒸し暑い夜がある。高科はベッドから降りて窓を開けた。
月だ。空が都会とつながっているとはとても信じられないほど、この高原の夜の空は黒い。暗いのではない、黒いのだ。鋲をさしたような星が散りばめられていた。月は甘い蜜のようにほんのりと黄味を湛えた白さだった。この月を、ハナさんは見ているだろうか。ただ、白い糊のきいたシーツに気だるい身体を横たえて・・・。あぁ、そうだ、ホテルの部屋の暗がりに、ハナさんの肢体は白くぼんやりと浮いているように見えるだろう。
高科は自分のベッドへ戻った。月を見ていたくて足元に丸まった薄掛けを枕にして、月を見ながらまたまどろんだ。きっとまた素人の映画のような夢を見たのに違いないが、そのあとはただただ貪るように眠った。
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白い半そでのワイシャツに蝶ネクタイ、あるいはスリーピーススーツのベストの背、もしくは赤いスパンコールのボディコンシャスなロングドレス、または往年のアイドルのような淡いピンク色のドレスや、淡い水色が爽やかなラメ入りのスーツのスカートは太ももの結構上までスリットが入っている。誰もがにこやかにほほ笑んで左方向を向いてシャンパングラスを手にしていて、その中央に、やはり穏やかにほほ笑みを湛えた男がシャンパングラスがいくつも載ったシルバーのお盆を手にしている姿が遠慮がちな大きさで映っている。真っ白なドレスシャツに黒いパンツ、長めのエプロンをつけたその姿は、その日のパーティの主役であった新郎たちに負けず劣らず凛々しかった。
少なくとも、駿太郎にはそう見えた。
駿太郎は細い白い指でスマートフォンの画面をピンチアウトして白いドレスシャツの男をズームアップしてみる。そして画面をタップしてもとに戻し、もう一度ズームアップする。何度かそれを繰り返し、スマートホンを膝に伏せると小さくため息をついた。
シティホテルの窓には高級過ぎず安っぽくもない遮光カーテンとレースのカーテンが掛かっていた。レースのカーテンに透けて窓の向こうには長野の街の中心街が見えるはずだ。そして夜景は、どこの街も同じように冷たく、同じように少し優しい。それを実感としてよく知っていた。
駿太郎はスマートホンをベッドに置いて立ち上がり窓際へ寄るとレースのカーテンをよけた。夜景を魅せる窓に自分の姿が映った。実際の年齢よりは少し若く見える。けれど、本当は若くもない自分の姿が映った。
ペンション タカシナは、向こうの方・・・と、そちらの方向と思われる方を見つめてみる。街の明かりが少なくなって、ぽつぽつと民家の明かりが柔らかく見えるその向こう、あの辺?それともあっちの方か、あの明かりがその窓の灯であったら…。その窓辺に立つ男を想像する。
* * *
あのドアを、バー華のあのドアを押して入ってきた長身の男が高科だと気付いた時、駿太郎は夢の中にいるような気がした。習い性になった台詞を吐いて、少し驚いたように目を見張った彼に知らんぷりでほほ笑む。何度も想像した瞬間だった。
ただ、男は、駿太郎が想像で思い描いていたよりも少し精悍で、目尻の皺が深く、そしてほんの少し軽薄なもの慣れた感じがした。それだからその夢はやけにリアルな夢だとそんな風に思えたのだった。
おかしな話なのは、彼が留まった時間が過ぎ去りその夜が終わって自宅のドアを開けた瞬間に突然すべてが現実にあったことだと胸に押し寄せて、駿太郎は玄関ドアに凭れてしゃがみこんだ。手の震えが止まらなかった。嘘だ。嘘だ。こんなの、本当な訳がない。きっとよく似た人だっただけだ。でも。だけど、でも。
その夜、カウンターに座った彼の、時折見せる真剣な目、探るように自分を見つめた目。その目を縁取る濃い睫毛、目尻の皺、肉感的な唇、ほんの少し唇の端を曲げるようにする彼の微笑み方、グラスを持つ手、寄せた眉間の皺・・・・。
高科だった。高科だったんだ。
駿太郎はその夜、どうしても眠ることができなかった。
彼が、駿太郎だろう?と何度もそう確かめようとしていたのは知っていた。自分だって、こんな風に再会するのでなければ「高科!懐かしい!」と昔を懐かしみたかったのだ。大事な、大事にしている思い出を、一枚一枚、アルバムを繰るように。
それができなかったのは、
それが、できなかったのは。
駿太郎はもう知りすぎていた。人が出会うこと、行き過ぎていくこと、そうやって人生を積み重ねて、けれど結局人はたった一人なのだということ。
だから駿太郎は、スナック華のハナさんでいることを選んだ。夜の街で「あの人ちょっといいよね」と誰もが秋波を送りたくなる男を迎える店で、遊びなれたやり取りに笑って取り合わないでいる、そういうゲームを続けることを選んだ。
「コーさん、ごひいきにしてね。」
そうやって彼の中に自分の居場所を作ることを選んだのだ。
* * *
目の前の窓の外に長野の夜が広がっていた。
「高科・・・」
とふいに駿太郎の口からその名がこぼれる。
高科を呼んだ駿太郎の声は、ほんの一瞬だけ窓にその跡を残して消えてしまった。高科といた季節が一瞬であったのと同じように、駿太郎が高科を呼んだその事実もまた一瞬で消えてしまったように思えた。
ペンション タカシナの窓辺に、あの男は立っているだろうか。
遠い遠い昔にその窓辺から、庭を、空を、眺めたことがある。その窓辺にあの男は立って、そして、どうしているだろうか。
駿太郎は胸の痛くなるような想像をする。
例えば、スマートフォンでメッセージを打っている高科を。
「おやすみ」
と送信して満足そうにしている高科を。
あるいは、スマートフォンを片手に窓の外を見つめて愛の言葉を紡ぐ高科を。
「愛してる」
と、あの唇で囁いて困ったように微笑む高科を。
ペンション タカシナのキッチンで、魔法にかかったように昔と同じ時間が流れた。あの時、『高科、』と、呼びかけてやめた。ただ、「紅茶、入ったよ」とそれだけ言った。高科がスマートホンを見て優し気にほほ笑んだのを見てしまったからだ。そして、勝手口で見てしまったあの景色が決定打だった。新聞紙にくるまれた、あれはおそらく花だ。
飾った花束なんかじゃなくて、新聞紙にくるんであったところが高科らしいと思った。
若い子だったなあ。
一回りは若い。
ピアスしてた。
シュッとしてた。
駿太郎はひとり苦笑いをしてしまう。「シュッとしてる」そんな表現が急に年寄りじみて思えたからだった。
そして、これでよかった、あの男に、シュン、なんて呼ばせなくて良かったのだ、と思った。




