5.バイオレットフィズ
薄紫色のフィズが、水割りのグラスの半分くらいを満たしていた。アテに出てきた塩気のあるプリッツは少し湿気ってしまっていた。
「コーちゃん?玉砕、したの?」
富士子ママがテーブル席から戻ってきて、空のグラスをバーテンの青年に手渡した。今日の富士子ママは熱帯魚のようなグリーンのドレスを着ている。肌を上手に隠しながら纏うドレスは富士子ママによく似合っているしとても上品に見える。いくつになっても素敵な人だよな、と高科も思う。
「玉砕?玉砕なんかしてないよ。」
させても、もらえないよ。
高科はその一言をフィズと一緒に飲みこむ。
富士子ママは青年からグラスをそっと受け取ってテーブル席へグラスを届けるとまた静かに高科の横に立った。
「なんか掛けてほしい?聞きたい曲とか、ある?」
富士子ママは優しい。
「ん~。そうだなぁ。」
何も思いつかない。
「隣にいてほしい?」
「うん。」
富士子ママは優しい。
高科はカウンターに臥せって、隣の椅子に座ろうとしている富士子ママを見上げた。富士子ママは背の高いカウンターの椅子に座るのに四苦八苦しているようだった。
高科はバイオレットフィズをもう一杯頼んだ。
◆ ◆ ◆
バー華に行かない、という選択肢はなかった。けれど、たった一度「シュン」と呼びかけてしまったあの日から、以前のように駆け引きめいた冗談を軽く口にすることもできなくなってしまった。どこかに滲んでしまう自分の本気が怖いからだ。本気?本気ってなんだ?この男ともう一度付き合いたいと、自分は本気で思っているのだろうか。高科にはよく分からない。思い出の中の駿太郎を想う気持ちがこうしてハナさんに執着させるのではないか。きっとそうなんだろう。彼はもう、あの頃の駿太郎ではない。彼だってもう、あの頃の高科を求めてなどいない。それなら、もう何もかもゼロから、頭ではそう思うのに高科は割り切ることができなかった。
そして、バー華のドアを開けては眩暈を覚える。「シュン」と呼びかけたい気持ちに抗いながらバー華のハナさんが笑顔をこぼす度にまるで中学生のように胸は鳴って、あの頃のように訳の分からない気持ちで胸がいっぱいになった。
胸が痛い。訳が分からない。それでもやはり高科はバー華を訪れた。
◆ ◆ ◆
冬は去って、春が来た。
季節は巡る。
季節は巡り、バー華のドアを開ける瞬間の眩暈に、ハナさんの笑顔に覚える胸の高鳴りに、あるいは胸の痛みに、慣れる。眩暈を覚えない訳でも、胸が高鳴らない訳でも、胸が痛まない訳でもないけれど、小さな自分の心の動きに動じなくなる。それが、オトナになるということだろうか。
季節が巡る。自分の想いは降り積もる雪に埋もれることもなく、古い想い出とともに芽吹く。もしかしたら、自分はとても長い冬を過ごしているのかもしれない。ずっと、あの冬の日からずっと、静かに、音を消し去る雪の中に自分はいたのかもしれない、と高科は遠い冬の夜を思い出した。
──遠い、冬の夜。
何となく様子が変だと思っていた。いつからだったろう。あの冬、その年の夏と同じように高科は駿太郎を誘って叔父のペンションでバイトをしていた。年が明けて冬の繁忙期も一山越えた。それでもまだスキーを楽しむ客は絶えず、その日も一日働き、夜になって駿太郎の部屋を訪ねた。ベッドサイドの紅茶のマグカップ。メールの着信を知らせる音。降り続いている雪が揺れるように見える窓の外の夜の闇。
「初恋の話をして…?」
マグカップを包む華奢な手。手の甲の人差し指の下に、かすり傷だろうか、赤く擦れたような跡があった。駿太郎が尋ねる、たかだか十数年分の過去、初めての恋、初めての人の温もり、そんなものが大事な誰かを遠ざけてしまうなんて思いもしなかった。あの、冬の夜に、駿太郎の手を放した。
あの日からずっと、きっと、高科は冬を終わらせていなかったのかもしれなかった。
その日、高科はいつもよりも早くバー華のドアを開けた。スナック華はまだ昼間の香りを残している。ハナさんがドアに立った高科を見ていつものようにいらっしゃい、と、微笑んだ。
「ハイボール?」
とハナさんが尋ねる。うん、と高科は答えてカウンターのどまんなかを陣取った。それから
「あ、やっぱり今日は、まずは生ビールにしようかな」
と、いつもと違うアルコールを注文する。いつもと違う夜の始まり、そうだったのかもしれない。
「ビールは、キリンとエビスがあるけど。」
「んー、どっちでもいいよ。」
「そう?んー、コーさんはどっちが好きかなあ。キリンかな。」
ガラス張りの冷蔵庫から瓶ビールを取って、グラスに注ぎながらハナさんは鼻歌を歌っていた。
「ハナさん、ご機嫌なの?」
黄金色のグラスを受け取って、高科は尋ねた。ハナさんは首を傾げてふふと笑った。
「んー?うん、そう、ご機嫌だよ」
高科はビールをあおって、どうして?と尋ねてもいいかどうか探った。高科の目がそう尋ねていたのか、ハナさんはまた少し笑って答えた。
「ひとの幸せを喜べたから。」
そう言って、ハナさんは口元をほころばせている。
「人の幸せを喜べるのって、自分が幸せだから。」
じゃない?と、ハナさんはニコニコしている。
幸せ、か。
ハナさんは幸せなんだ、
俺は、どうだろう?
「幸せ、か。」
幸せだと言える。
ハナさんの笑顔が伝染ったみたいに、高科は笑顔になった。そうだ、たとえこの人の手を握れなくても、たとえあの肩を抱けなくても、あの冬の夜に手放した大事な人が、今幸せだと笑っている。それでいいと思える自分も、幸せ者だ。
「コーさんは、ここがカサブランカだったときって来たこと、あります?」
「いや、それが、ないんだよ。」
「そうなの?ここがカサブランカだったときのバーテンさんが、タカシさんって言うんだけど、よく浮名を流した人ですけどね。」
「あぁ、うん、それは聞いたことがあるな」
高科は肩を竦めて、ビールをもう一口飲んだ。
「友達なんです、同僚だったこともあって・・・。まぁそれはいいんだけど、本当に色々あったんだけど、タカシさんがここをやめたのっていわゆる寿退社なんですよ、その関係でわたしがここのお店を預かった、というか、そういう経緯があって。でね、タカシさんが、この度めでたく結婚するんだって!それ聞いて、本当に嬉しくて。」
いつだったか、スナック富士子のカウンターの向こうの端で客同士の話の漏れ聞こえた部分と今の話がなんとなく繋がる。
「結婚かぁ。」
「もちろん、法律的にはどうあれ、ね。幸せそうだったから、タカシさん。ハウスウェディングやりたいって言ってた。ハウスウェディングなら、ほら、ね。身内とか仲間内だけとかで・・・って、なんか、いいですよね。そういう話ができるのって。」
「ハウスウェディングか、いいねえ。まだ決まってないならぜひ、ペンション タカシナもご検討くださいって、伝えて。長野の自然に囲まれたペンションには、離れで新婚さんが過ごせる小さなロッジもあるんですよ。ガーデンパーティプランっていうのもあるから、ジューンブライドなら・・・って、俺も、商魂たくましく」
そう高科は言って大きな声で笑った。よどみなくそんなセールストークをする自分がおかしく、半分呆れてもいた。
ハナさんは綺麗に並べられたグラスをパズルのように並べ替えている。
「・・・・」
「あ、ごめん、押しつけがましくするつもりは、ぜんぜんなくて・・・」
「あ、ううん、違う。違う。違うんだ。」
ハナさんは高科を見つめて、それからまた手元のグラスを並べ替え始めた。
「ハウスウェディングなんて始めたんだね。」
ハナさんは、グラスを端まで並べ替えると今度は、また並べ方をもとに戻し始めた。
「うん。── 俺の、案なんだよ。大学卒業して叔父のペンションに就職して・・・ハウスウェディング、もう、十五、六年位にはなるのかな。」
高科は空になったグラスにビールを手酌した。ハナさんは高科の手元を見ているみたいに見えた。
「あの・・・」
言い淀むハナさんを見上げると、ハナさんは綺麗に磨いたグラスを手にしてじっと何かを考えているように見える。
「なに?」
高科は先を促した。言わせた方がいい、とそう思った。
「あの、・・・いいの?」
「ん?何が?」
「ハウスウェディング、ペンション タカシナ のこと、教えてあげてもいい?」
「いいに決まってるじゃん。」
ビールをごくごくと飲んだ。
いいに決まってんじゃん、高科はぐいっと眉を上げて少し前に傾ぐと、カウンター越しの当惑気味の美人を覗き込んだ。
「お前も来るんだろ?」
「え?」
季節が、巡る。
── どうして俺の名前・・・?
── あったよ、下心。
── 本当は女の子が好きなんじゃないの?
── タカシナのこと、好き。
── でも、分からないんだ。
歪む時間の軸。艶と微笑むバー華のハナさん。
── コーさん、いらっしゃい
「お前も、来るんだろ?呼ばれて、来るだろ?」
お前と、二度目に口にするときに少し緊張した。自然に聞こえたかどうかが気になった。ごまかすみたいにビールを足そうとしたら残りが少なかった。
「あ・・・ビール・・・?」
ハナさんが救われたように言う。
「うーん、そうだな、うん。ビール。」
(良子さんが、会いたがってた。春さんもお前に会いたいと思うよ。)
お前と呼べたのに、次の瞬間にはもう勇気を出すことができない。駿太郎の手を手放したときに置いてきてしまった勇気だ。タイミング悪しく、バー華のドアが軋んで開いた。
「ハナさ~ぁん!」
「あ、いらっしゃーい」
「いらっしゃったよ~う。ハナさんに、会いに来たよ~」
ハナさんはビールの栓をあけ高科に渡した。
その夜もいつもと同じように更けていく。ハナさんは微笑み、高科の胸が鳴る。誰かがハナさんを呼び、ハナさんは優しく返事をする。
幸せだろう、と高科は思った。
もう二度と会えないと思っていた人に、再び会えた。
どこにいるのかも知らなかった。
いまはもう知っている。
どこに住んでいるのか知らなくても、ここに来れば会える。
ただそれだけのことがどんな奇跡の積み重ねなのか、高科はよく分かっていた。
高科は帰り際にかろうじて名刺を探るくらいのことはできた。
ドアまで見送りに来たハナさんに名刺を渡す。
「パンフレットは、来週持ってくるよ。」
そう高科が言うと、ハナさんは軽く握った手を口元にやって小さな咳払いをした。
「あの、・・・。あの、タカシナ、ありがとう。」
え?
「いつもありがとうございます。コーさん、また、いらしてくださいね、来週?ね。」
そう言ってハナさんは微笑む。初めてこの店に来た時と同じように、ハナさんは微笑んでその微笑みで高科を夜の街へ押し出した。
ネオンの街を歩く。長野行きの最終は23時。今日は間に合いそうだ。高科は足を速めた。春だ。風が優しい。ふと見やるとアスファルトの境目に小さな紫色の花が咲いていた。スミレだ。こんな都会のど真ん中で。
それから高科は、ペンションの庭のベンチの脇に咲くスミレを思い出した。駿太郎がよく空を見ていた、あのベンチの横に毎年咲くスミレ。春を告げるあの花のことを気にしたこともなかった。そのことに、気づいた。
◆ ◆ ◆




