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4.カサブランカ


 穏やかじゃない。


 カサブランカのオーナーらしい。仕立ての良いスーツを着ているけど背は低い。髪も綺麗に整っているけれど整いすぎて人間の髪じゃないみたいだ。靴はピカピカだ光りすぎだし、時計もいまどき金色なんて。


 カサブランカのオーナー。恋をしたバーテンダーが去り、この店は結局あのカサブランカのオーナーの店なのかもしれない。奥のソファ席に一人で座っている。カウンターの中のハナさんは今日は口数も少なく、時折、濃い琥珀色のお酒を揺らしてロックグラスをそのソファ席へ運んだ。


 ソファ席に座るハナさんはロンググラスで紫色のカクテルを飲んでいた。腰を下ろして少し話をして、どんな大事な話をしているのか、ロンググラスを持った手を膝に置き、時折、オーナーの方へ身体を傾げて頷いたり顔を見上げたりしていた。それから少しすると、薄紫色のロンググラスをその席に置いたまま、また店内の様子を見るようにカウンターへ戻ってくる。




 おもしろくない。



 高科はハイボールを飲み干して立ち上がった。ハナさんと目が合う。ハナさんはいつものように微笑んだ。


 「置いとく」


 伝票を手にしたハナさんを待たずに高科はコースターの下に一枚挟んだ。


 「あ、でも、頂きすぎ・・・」


 聞こえないふりをする。重たいドアがギギギギと軋む。ハナさんはカウンターの中から高科を見送っていた。




   ◆    ◆    ◆



 「コーちゃん・・・!んもう!あたしのことなんて忘れちゃったのかと思ったわ!」


 富士子ママが赤い爪の手を振りながら高科の側まで来た。


 「忘れる訳ないじゃない、富士子ママ、今日もキレイだね。」


 「そぉお?実はね、パックを変えてみたのよ~、金粉入りなの。ちょぉっとしか入ってないけど、コーちゃんがそう言ってくれるんなら効き目があったわねえ。」


 無地に見えた着物は濃い紫色の極細のストライプだ。黒い帯に帯留の宝石が光っている。その宝石の色も紫色だった。ちょうど、ハナさんが飲んでいたカクテルのような。


 「バイオレットフィズ・・・とか、できるっけ?」


 「できますよ」


 カウンターの青年は今日も安定の落ち着き加減だ。物静かで丁寧。若いのに大した子だ。


 「ふたっつ。」


 富士子ママが高科を見上げる。


 「今日の富士子ママのアクセサリーに、一杯どうですか?」


 「あら、ずいぶん素敵なことしてくれるじゃないの。じゃ、ありがたく。…カウンターにする?それともたまにはしっぽりしようか?」


 「じゃ、ママとしっぽりしようかなあ。」


 高科は笑った。少し楽になる。



 紫色のカクテルが洒落たロンググラスではなくていつもの水割りのグラスに入っているのはスナック富士子らしさだ。コースターを左手で抑えてグラスを持ち上げると、富士子ママはわざとらしくシナを作って「かんぱぁい」と高科に掲げた。高科も答えるようにグラスを持ち上げて、少し口にする。爽やかな飲み口が心地よかった。



 「結局、カサブランカのオーナーがやってるの?あの店って。」


 「・・・・。」


 富士子ママは高科の尋ねたいことの真意を探るように高科を見つめた。


 「う~ん、どうなのかしらねぇ。・・・でも、華のママって若いじゃない?あの年でオーナーママだったら相当なやり手だと思うけど。コーちゃんも知ってる通りあの人ってこの辺りでお仕事してなかったしねぇ。」


 「つまり、やっぱり、カサブランカのオーナーがかんでるってことか。」


 「誰がオーナーだっていいじゃないの、あのお店はハナちゃんが切り盛りしてんだから、ハナちゃんのお店よ。けっこういいお店みたいじゃない?エライもんよ」


 「42歳」


 「・・・・。」


 「若く見えるけど、42だよ、あの人」


 「やだ、コーちゃん。そういうのヨソで言うの反則だと思うの。あたしが33歳だってこともヨソで言わないでよね」


 富士子ママは笑って紫色の液体を口に運んだ。


 「コーちゃん。」


 水割りグラスをコースターに置いて、富士子ママは少し真面目な顔をした。


 「コーちゃんに言ったことあったっけ?あたしね、このお店をいつ辞めてもいいって思ってるのよ。だけど、忘れ物を取りにくる人がいるかもしれないでしょ?


 忘れ物を取りに来たよって、その人が来た時のことを、あたし、眠れないときはいつも想像するのよね。お帰りって言おうかな、お久しぶりって言おうかな、忘れ物はこれでしょって、言おうかな。でもね、いつもしっくりくるのは、『あら、いらっしゃい』っていつものように、そう言うのよ。その人は、戸惑うかしらね、忘れ物のことを言い出せないかもしれないわよね。でも、あたしからは言い出せないなあって思うのよ。あまりにも長い時間が過ぎてしまって、あまりにもいろんなことがありすぎて、彼にもきっと、色々あったんだろうなと思うから、あたしのことなんて憶えててくれてなくていいのよ。あの時の忘れ物のことなんて、そもそも憶えてないかもしれない。もしその人がこのお店のドアをくぐったとしても、それは忘れ物のことでも、あたしを懐かしんでのことでもない。そう思うと一番しっくりするの。だから、やっぱり『いらっしゃい』って普通に言うの。その時初めて会ったみたいに。次にもう一度来てくれたとしてもやっぱり『あら、いらっしゃい』って言う。あたしはもう、あの頃のあたしには戻れないし、戻りたくもないし、今この時のあたしがスナック富士子を訪れる人に言うのは、やっぱり『いらっしゃい』って言葉なんだからさ。」


 富士子ママは帯の間からハンカチを取り出してテーブルの上の水割りグラスを持った。水滴を拭われた紫色の液体をたたえたグラスを少しだけ見つめて、富士子ママは喉を潤すようにふた口、み口飲んだ。


 「ふふふ、古い常連さんを忘れるなんて、富士子ママも耄碌したね、って言われたらどうしよう~」


 富士子ママは身体を左右に揺すって笑った。



 カクテル言葉、というのがあるのだそうだ。


 バイオレットフィズのカクテル言葉は「わたしを覚えていて」。


 高科はまだそれを知らなかった。知っていたらどうだという訳でもないけれど。



 夏が来る。


 都会のアスファルトに灼けた夏から逃げ出した人々が日常を忘れるために過ごすひと夏。


 高原の夏は、ツクリモノの夏だ。空も、風も、星も、緑も、ただ美しく、そしてどこか脆く、手からこぼれていく。


 


 その夏を紡ぎだすために、高科は忙しい日々を過ごす。


 人々が忘れ去る何かと、自分が捨て去りたい何かを天秤にかけるように。



 覚えてなどいなければよかった、あの夏のことなど。


 覚えてなどいなければよかった、あんな若い頃の恋のことなど。



   ◆    ◆    ◆


 忙しい夏が来た。今週は一週間休みはない。もう連続12日間休みはなかった。


 「これ、こんなに買ったの?」


 と秀春が手にしているのは箱買いをした例のクラッカーだった。年齢のせいか秀春も疲れが見える。ペンション用の買い物は量も多く重いので秀春か高科が行くことが多い。この日は高科の運転で良子が一緒だった。



 「康煕君の東京のお友達に送ってあげたらどうかなあって思ったから。ね、康煕君、そうしたら~?気に入ってくれたんでしょ?」


 「なんだ、そうなの。コーキ、送る分持ってって。」


 秀春は段ボール箱から次々に食材を取り出してこれは冷蔵庫、これは戸棚と仕分けていく。


 高科はクラッカーの山に手を出して良子を見た。そういう意味だったのか。


 「ふたつ・・・みっつ、よっつじゃ多い?あ、ちょうどいい大きさの箱があったな。ちょっと待ってて」


 良子は速足で勝手口の裏へ空箱を取りに行った。


 「あれだよ、ちゃんと電話番号とか書いておいた方がいいよ。ありがとね~って言いやすくしてあげるのも大事なことだと思うから。」


 クラッカーの箱をみっつ入れてその上に宅配便の伝票をポンと放った。高科を見上げて、ね?とその箱を押し出し、あとは知らない顔をして秀春と食材を片付けている。世間知らずなように見える良子のどこにこんな駆け引きめいた知恵があったのだか、と高科は少し呆れたような気持ちになった。


 高科は箱を抱えて食堂のテーブルへ移動し箱を置いた。一筆箋があったはずだ。食堂と玄関をつなぐ廊下の突き当りのカウンターテーブルの下を探ってそれらしいのを一つ選び食堂へ戻った。椅子を引いて箱の前に座る。


 『ハナさんへ』



 ハナさんへ、それが一番正しいと思う。けれど「ハナさん」と書きたくなかった。 それで一枚めくって今度は



 『駿太郎へ』



 と書いてみる。駿太郎へ、これでいいのだろうか。それも違う気がした。それでもう一枚めくって、今度は何も書かずに少し考えた。



 クラッカー、どうぞ、送ります、華でも使ってみてください、よかったら、気に入ってくれたみたいだから、。




 『よかったら、使ってください』




 シンプルにそれだけを書いた。クラッカーの箱の上に置いて蓋を閉じる。ガムテープ、ガムテープ、とまたカウンターテーブルへ行く。カウンターテーブルの上にはノートパソコンがある。予約表や入出金簿が入っている。LANでつながっているからネットも使える。高科は、アドレスバーに、「バー華」と入力した。




 『東京都新宿区・・・・・バー華 御中』



 『長野県 ・・・・・・・ ペンション タカシナ気付 高科康煕』


 電話番号は高科の携帯電話の番号にした。



 ペンションの電話が鳴った。ボールペンを握りしめたまま、高科は受話器を取った。



「ペンション タカシナです。はい、8月は…」



 予約メールも来ている。高科は明るい声で答えながら眉間を押さえた。




   ◆    ◆    ◆





 そう、来たか…。



 高科は絵葉書を手にしてじっと立ち尽くした。クラッカーを送ってから一週間。買い物から帰ってバンから段ボールを勝手口へ何往復かして、少し傾いでいるポストを覗くと、ダイレクトメールに交じって一葉の絵葉書が届いていたのだった。


 「康煕くん?」


 良子は赤いバンのハッチを両手で力を込めて閉めて、そこに立ち尽くしている高科を呼んだ。


 「どしたー?」


 良子のスニーカーが砂利を踏んで高科に近づく。高科は絵葉書を良子に見えるようにした。


 「駿君から?」


 「うん。」




 『長野県・・・・・ペンション タカシナ気付 高科康煕様


  お気に入りのクラッカーを ありがとうございました

  華特製シメジ茸のアヒージョによく合うのでとても嬉しかったです


  ぜひまた、アヒージョとレーズンバターも楽しみに、


  バー華にもお寄りくださいますように  バー華店主』




 「そう、来たか」


 良子はつぶやいた。

 

 「手ごわい」


 良子は砂利の音をさせて勝手口へのんびりと歩いて行った。



 ── 手ごわい。



 絵葉書から目を離せないまま、高科も良子の後を勝手口に向かった。



 絵葉書に並ぶ文字に見覚えがあった。ルーズリーフに走り書きされた講義の内容。レポート用紙に丁寧に書かれた自信なさげな考察。硬い芯で書く薄めの文字は右肩が少し角ばっていた。ボールペンで書かれた葉書の文字は確かに駿太郎の文字だろう。


 「手ごわいなぁ・・・」



 高科は呟いて勝手口のドアをくぐった。高原の夏が終わろうとしている。清かな葉ずれの音に後ろ髪を引かれるように一度外を振り返って、高科は勝手口のドアを閉めた。






   ◆    ◆    ◆





 けれど、良子のその作戦が功を奏したことには間違いがないように思える。少なくとも高科自身には。

 バー華のドアが重い。そう、確かに重いドアだったなと「思い出す」位には久しぶりにそのドアを開けた。カウンターの中からハナさんがほほ笑む。


 「あ、いらっしゃい」


 高科はやはり時間が歪む感覚に陥る。その一瞬を堪能する。


 「どーも。」


 高科はできるだけいつもどおりを装ってカウンターに目を配った。今日はいくらか混んでいるようだ。少し迷ってスタンドのテーブルへ向かった。


 おしぼりを持ってきてくれたハナさんは「ハイボール?」と首を傾げる。


 「あー・・・、うん、ハイボール。かな。」


 ハナさんは頷いてカウンターへ戻った。


 久しぶりなのに今日はもしかしたら話すチャンスはないかもな、と思っていたところに、ハナさんがハイボールとプレートを持って来た。


 「これ、へんなキノコ。へんじゃないけど。あと、”大事なお客様”からの頂き物なんですけど、クラッカーも。」


 そう言ってハナさんは少しいたずらっぽく笑った。


 「あ、ありがとう。」


 それから姿勢を正すようにハナさんはお盆を持つ手を下げた。クラッカーのプレートを見ているのか、目を伏せている。睫毛の長さが懐かしい。『怒ってるのかと思った』そう言った駿太郎の声が聞こえた気がした。


 「怒っているのかと、思った?」


 何を言ってるんだ?高科は頭の半分で自分にそう突っ込んだ。何を言っているんだ!?そう焦っている自分が確かにいるのになぜか動じていない自分が一番外側にいる。


 「長く、来なかったから…。俺が怒ってるから来ないんだと、思わなかった?」


 「いえ…ただ、お忙しいのかと。」


 「そう、残念だな。気にしてほしかったのに。」


 「気には。してました、もちろん。」


 そう言ってハナさんは顔を上げた。


 「コーさん、お忙しくて、華にもお寄りいただけないんだなあって、気にしてました。」


 そう言ったハナさんは、いつもの『バー華』の『ハナさん』だった。


 「今夜もゆっくりしてらしてくださいね。」


 ハナさんは微笑む。カウンターへ戻ろうしたハナさんを引き留めるみたいに、高科は言った。


 「ハガキ、ありがとう。」


 「・・・。」


 「ハガキ、ありがとう。懐かしかった。」


 懐かしかった。その一言を、言ってよかっただろうか。嬉しかった、で良かったのではないか。



 ハナさんが固まっている。


 肩が、震えている…?


 「ハナさん・・・?」


 高科を見上げた瞳が濡れているように見えるのは気のせいだろうか。


 「シュン…」


 ハナさんが大きく首を振った。



 駄目だ、まだ、駄目だ。



 「コーさん、レーズンバター、は?一緒に、いかがですか?」


 「レーズン、」


 嫌いじゃなかったか?




 胸が痛い。



 胸が痛い。



 大好きだった人。



シュン、ちょっとでいいんだ、ほんのちょっとだけ話せないか?



何を話そうと言うんだ?



よりを戻したいなんて思ってるわけじゃない。



いや、思ってるのか?




「・・・レーズンバター、もらおっかな、華の、ソルティクラッカーで。」




 涙は、塩の味がする。


 それを知ったのはまだ年端もいかぬ頃だった。


 涙は、塩の味がする。


 それを思い知ったのは二十年も前。


 涙は、塩の味がする。


 そう、そうだった、涙は、塩の味がするんだった。


 ── 不惑を超えて思い出すだなんて。




 ハナさんは頷いてカウンターへ戻って行った。その後ろ姿は心なしか頼りなさげに見えた。けれど、カウンターの中に戻ったハナさんは、高科の注文したレーズンバターを用意する手を動かしながらもう客の会話に頷いて笑っていて、ほんの一瞬垣間見えた動揺が嘘のようだった。


 カウンターのいつも自分が座る席の反対の端に大きな花生けがあった。


 カサブランカ。


 あれは、カサブランカだ。


 ペンションタカシナでも、ハウスウェディングのプランがある。カサブランカはジューンブライドを思い出させた。



 だれかが持って来たのだろうか。


 ハナさんに、と?



 高科はカサブランカから、目を、そらした。



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