3.へんなキノコ
「コーちゃん、コーちゃん、ってば!」
「あ?」
「で、どうだったのよ、華、どうだったのよ。」
富士子ママはカウンターをプラスチックのような爪を立てて叩いた。赤い爪は今日もテカテカ、ツルツルとしていた。
「えー、どうって?普通だよ、小綺麗なバーだった。あそこ前は何の店だったっけ?」
「前は、カサブランカっていう、たまにジャズライブとかやってて。」
「あ~、あったね。畳んじゃったんだ?あそこのバーテン、モテてたよね。」
「あら、そうなの、あたしより?」
富士子ママはニコリと笑って、けれど、小さなカウンター席の高科の反対側の端で話しの続きを引き取った客がしているそのバーテンの恋模様の話には興味を惹かれる様子もない。ただ「華」を訪ねて以来高科の胸の中にあって吐き出せない何かに富士子ママは気づいていてそっと見守るためにそうやって押したり引いたりしてくれているのだ。
「レーズンバターが美味かったよ。」
と高科は言った。
富士子ママは高科を見つめている。
「美味しいよって、ちゃんと言えた?」
富士子ママはほほ笑む。
「言ったよ」
「コーちゃん、いいことはちゃんと伝えないとだめよ。」
「伝えてるよ」
「伝えてないわよ。富士子ママ、今日もきれいだね、って言ってくれないのはコーちゃんだけよ。」
「”富士子ママ、今日もきれいだね。”」
「そうそう、その調子。」
結局あの後、高科は『駿太郎じゃない?』という言葉を何度も飲み込んで、バー華を後にした。ハナさんは重たいドアに寄りかかりながら高科を見送ってくれた。
首を傾げて
「また来てくださいね」
と、きっと今夜だけでも数えられない位言ったセリフを高科に投げかける。
「レーズン…」
嫌いだったよね?いつから食べられるようになったの?それとも今もそれほど好きじゃないの?
「ん?レーズン?レーズンバター、お口に合いました?」
「あぁ、とても。美味しかった。」
「よかった、いつも置いてあるので、次いらしたときも」
ハナさんは微笑んだ。すごい技だな、と高科は純粋に感心する。ハナさんのその微笑みは言葉にしないでも戸口に立つ客をバー華からこの夜の街へと送り出す微笑みだった。高科は、まだ帰りたくないんだとか駄々をこねたい訳ではない。ただ言えない一言がある。聞けない一言があると伝えたいだけなのに。
「また」
と高科は言ってバー華を背にした。
◆ ◆ ◆
「駿太郎、って、覚えてる?」
高科はネギを刻みながら良子に話しかけた。良子は冷蔵庫から食材のトレーを重ねて取り出してキッチン台の上並べていく。
「覚えてる、覚えてる。駿君、元気かなあ。」
良子がさり気無さを装っているのが高科には分かった。良子は高科の父方の叔父である秀春の妻で高科との血のつながりはない。高科は小さい頃から夏休みになればこのペンションに来てひと夏を暮らした。良子とは血のつながりはないが、ひねくれ過ぎて一本になっているような高科が心を開くことのできる数少ない身内だった。大学を出てペンションの後継ぎとなった今は母親も同然で、実際、客のほとんどは親子で営んでいると思っているだろうと思う。けれど、良子はやはり母親というのは違う。たぶん母親ではないからこうやってなんでも言える。良子は、そして秀春は、この世界で自分を理解してくれる、生した親よりも理解してくれる、そういう存在だ。
「駿だったと思うんだ。」
高科は刻んだネギをタッパーに放り、また次のネギを刻みながら言った。良子はトレーを並べる手を止めて高科を見ていた。
「駿、だったと思う。」
高科はネギを刻む手を一度止めて自分自身に確かめるようにそう言った。良子はトレーをもうひとつふたつ並べて、高科の後ろ側を通ってキャビネットの扉を開けた。
「駿君に、会ったの? 駿君は」
と、良子はキャビネットから高科を振り向いて続けた。
「康煕君に気づいたの?」
「分からない。」
「そっか。」
沈黙が続いた。良子は静かに仕事を続けている。ネギを刻み終えた高科がタッパーの蓋をのせて
「バーの、カウンターの中にいた。」
と言うと、良子は仕事の手を止めて高科を見た。ほんの少し驚いているように見える。それから、
「そっか。」
と良子はもう一度そう言って手を動かし始めた。ボウルに調味料を計って入れている。良子が何か言いかけたその時、「コーキー、」と高科の名を呼びながら秀春がキッチンに入ってきた。
「なんかPW、って出てきた。よく分からないんだけど。」
「分かった、やっとく」
最近導入した動画配信の設定のことだ。高科は手を洗って難しい顔をしている秀春にOKとサインを出す。キッチンを出ていく高科に良子はいつものように笑いかけた。でも、いつもよりもほんの少し心配そうに見えた。
世で言う週末、土日がが終わると、火曜日、水曜日あたりは高科家ではそれこそが週末のようなものだ。シーズンオフになれば週末は少し長くなる。その日も高科はなんとなく東京へ夜遊びに出かけようとしていた。珍しく良子が出掛けの高科を見守っている。駿のことだな、高科は苦笑いで良子を振り向いた。
「良子おばさん」
と高科は小さい頃よく呼んだようにそう良子に笑いかける。良子は腕を組んで勝手口の壁に身体を持たせかけていた。
「大丈夫だよ。」
「心配してないわよ、そういう意味では」
「じゃ、どういう意味?」
「分からないけど」
良子は手を振り下ろした。
「あ、そうだ…」
高科はふいに少し残っていたクラッカーをのことを思い出した。高科はドアノブから手を放してもう一度室内へ戻る。戸棚から持ってきたクラッカーの箱を掲げて、
「持って行っていい?」
と良子に尋ねた。良子はうん、と頷く。
「ちっちゃい頃、よくそうやってキッチンのものを手にして冒険に出かけたよね」
と良子は目を細めた。
「あぁ、うん、あったね。結構遠くまで行ったよ。」
「マヨネーズを持って出たこともあったよね。」
「あったかも。」
「へんなキノコ食べないでよ?って私、何度も何度も言って。」
「そうだね。」
「もう、へんなキノコを食べちゃうような子どもじゃないのね、当たり前か。」
わかんないよ、へんなキノコならきっともう食べてしまっていて、だからこんな風に夢みたいな夜を追いかけているのかもしれない。高科はそんなことを考える。
「ま、いつもどおり、適当に帰るからね。先寝ててよ。」
クラッカーの箱を振る。
「はいはい。行ってらっしゃい。」
箱がカサカサと音を立てる。良子が手を振った。
◆ ◆ ◆
まだ開けていない新しい箱がなかった訳ではないのにと高科は項垂れた。意気揚々とクラッカーの箱をカウンターにのせたその時に気づくとは何たる不覚。高科はバー華のカウンターに突っ伏したい気持ちでいっぱいになった。ハナさんは高科の注文したお酒を作りながら不思議そうにそんな高科を見ている。
「どうしました?」
グラスを渡しながら尋ねる。
「いや、ちょっと。失敗した。」
「お仕事?」
「クラッカー」
「クラッカー?」
「うん。これ…。ハナさんのレーズンバターに合わないかなって思って持ってきたんだけど、ちょっと、この、中途半端に開けた方を掴んできちゃって」
「そうなんですか?へぇ、気になる。頂いてみていいですか?」
ハナさんは楽しそうに言って高科からクラッカーの箱を受け取った。ラップに包まれたレーズンバターを取り出してスライスしたもの数切れ高科の前にも出す。
「ちょっとだけど」とハナさんはウィンクをした。
「へぇ、美味しい。外国のクラッカー?ですよね。あ、あれに合うかも~」
とハナさんはまたカウンターの下にもぐりこんで食器のようなタッパーを開けた。小鉢にすくってそれをまた高科の前に置く。
「これもね。お気に召したらお替りしてね。」
とハナさんは微笑む。
それはどう見てもキノコだった。
「キノコ…!」
と高科はつい呟いた。
「あ、キノコ、ダメでした?シメジ茸のアヒージョなんです。」
「いや、いや、ダメじゃない。ダメじゃないんだけど。」
ハナさんおススメの通りにクラッカーにそのシメジ茸のアヒージョをのせて食べてみた。
「美味い。」
「ね、合うと思った。うちのクラッカーだと少し塩気が多くなっちゃうからダメなの。これだと美味しい。」
ハナさんは手についたクラッカーをポンポンと手をはたいて落としてニコニコと笑った。カウンターの中に長いこといる人の笑顔だなと高科は思う。
幼い程の恋を手放したあの頃、彼のこの肩が、腕が、腰が、彼の後姿さえ逆光に立つシルエットさえ、高科の胸を潰すほどだった。高科を好きだと言った駿太郎。別の誰かに好きだと言われて迷っていた駿太郎。毅然と、二つのものを手にすることはできない、と言った。それは、駿太郎も自分もまだ若くて幼くてまっすぐで、赦すことを知らなかったからだ。
あれから二十年の来し方を思う。この二十年をこの男はどうやって生きてきたのだろう。カウンターの中に初めて立った日はどんな日だったのだろう。カウンターの中から見送った背中の中に忘れられない背中がいくつあるのだろう。
あの頃の高科を見つめたように、あの頃の高科を抱いたように、誰かを見つめて、誰かをかき抱いて、そしてあなたを手放すよと伝えて来たのだろうか。それとも、手放さないよ、と伝えたのだろうか。今、誰かの手を。
頭がぐらぐらした。へんなキノコのせいだろうか。
「お気に召しました?」
ハナさんは微笑む。
「おかわり、頂くよ。」
高科もほほ笑んだ。慣れているやり方。これ以上もこれ以下もない、けれど自分が一番魅力的に見えるやり方を高科ももう知っている。
◆ ◆ ◆
駿太郎が叔父の秀春を「春さん」と呼ぶのを許せるようになったのは、結局夏のアルバイトが終わって2か月も過ぎた頃だった。
「駅のロータリーで、こちらに歩いてくる春さんを見たとき、高科がもう一人いる!って思ったんだ」
駿太郎は大学の構内のプールサイドと呼ばれる(実際に、プールサイド脇にあった)インドカレーが美味しいカフェで、器用にレーズンを次から次へとスプーンにのせながらそう言った。そう、この頃には駿太郎はレーズンを取り除くのがとても上手になっていた。カレーの上の最後の一粒を皿の淵でちょんとのせて、駿太郎はそれを高科の口元に運んだ。高科があーんと口を開けると、駿太郎の口もほんの少し開く。それが見たいために高科は必要以上にぱかんと口を大きく開けるのだった。
「高科の未来を見れてラッキーだな・・・。年を取った高科、見てみたいな。10年後、20年後、30年後位?」
なんだ、そうだったんだ。駿太郎があの時秀春をずっと見ていたのはそういう意味だったのか。それを知った時に。
駿太郎が叔父を春さんと呼ぶように、自分が駿太郎を「シュン」と呼ぶように、駿太郎にも自分を下の名前で呼んで欲しいと考えていた訳ではなかった。それは、駿太郎が自分よりも本当は年が上だと知っていたからなのかもしれないし、それとも単純に駿太郎が呼びたいように呼んでくれたらいいと思っていたからだろうか。今は思い出せない。ただ、駿太郎はずっと、ずっと、高科を、「タカシナ、」と呼んでいた。ことの、最中でさえ。
「高科・・・」
好き。
イイ。
高科。
タカシナ…
◆ ◆ ◆
初夏、ハナさんが高科を「コーさん」と呼ぶようになった。艶の混じった微笑みを堪えて彼が「コーさん」と自分を呼ぶとき、高科は、大学時代に一人の男子学生に恋に落ちた高科ではなく、週の真ん中の人のまばらな夜の街に繰り出してくる一人の男になる。彼のことを実業家だと思っている人もいたし都内の企業に勤めるビジネスマンだと思っている人もいた。独身だけれどバツがついているらしいという人もいたし、否まだ別れてないだとか、どっちにしろバイだから手に負えないと噂する人もいた。
彼らが噂する言い分の、半分は確かに高科のことを言い得ていたし、半分はどうしたらそういうことになるんだろうというようなこともあった。それでもこういう町の中の噂にいちいち訂正もしないメクジラも立てない、本当かただの噂か、それくらい謎に満ちている方が魅力的というものだ。
ハナさんは、高科が駆け引きめいたことを言ってもサラリとかわす。それはやはり年月を感じさせる。
「ハナさん、火曜日が定休日なの?休みの日は何をしてるの?今度温泉でも行かない?」
「やだ。俺まだ死にたくないもん。」
「やだなぁ、ハナさん、俺も不惑だからそこまで絶倫でもないよ。」
「はいはい、そうじゃなくて。コーさん、モテるから。刃傷沙汰は勘弁だよ。せっかく自分のお店を持てたのに。」
「ハナさん、二軒目を持つなら、俺が。」
「本当?コーさん、さすが。銀座の鳩居堂が空いたらお願いするね。ちょっとくらいは自分で出すからたくさん飲みに来てよね」
細い白い手がカウンターをダスターで拭う。濡れたコースターを取る時爪を立てたのかかすかにその音が聞こえた。あの爪がその昔…。
「へんなキノコ、頂戴。」
「へんじゃないけどね。」
── 小さい頃にね、よく、家の周りを探検してね。へんなキノコ、食べないのよ、ってよく言われたんだ。
── へぇ・・・。自然が多かったんですね?
── うん、そう。田舎だからね。
── へんなキノコかぁ、ワライダケとかねえ。よく聞きますけど、本当にあるのかなあ。
── ワライダケ?ワライダケは実際にあるんだよ、毒性はそこまでじゃないけど、でも幻覚を見せる成分が入ってるんだっけ?楽しくなっちゃうらしい。抗うつ剤みたいな成分が入ってるのかもね。
── そうなんだ…。ワライダケくらいなら大丈夫だとしても、毒キノコで亡くなる方だっていますもんね。おかあさん、心配だったでしょうね。
── (おかあさん、じゃないけどね。良子さんだけどね、駿太郎も知ってるだろ、それとも忘れちゃった?)
── ちなみに、そのキノコは大丈夫ですよ。スーパーで売ってるシメジ茸ですから。
◆ ◆ ◆




