2. バー華
「バー華」の木製のドアは、夜の始まりの中で遠目には黒く見えたが、近くでみると宵闇のような青色だった。そのドアは見た目よりも重い。ギギギギと古い建付け特有の音を立てる。看板は新しいから居抜で買ったか賃貸なのかもしれない。以前はどんな店だったろうか、この道を何度か通ったこともあるんだろうけれども、もう覚えていない。高科はドアを後ろ手に閉め中を伺った。カウンターの中の人物と目が合った。
時が止まる、という表現がある。実際それまでも時が止まったように感じる瞬間をいくつか経験したんだと思うけれど高科がその時感じたのは時が止まるというよりも、時間が歪曲する、というような感覚に近かった。
(駿太郎…!?)
そこにいるのは、高科の知る「雰囲気のある美人」に余りにもよく似ていた。
「いらっしゃい」
少し首を傾げる、その傾げ方までが。
初めて彼に話しかけた日の景色が切り取られてカウンターの中の美人を彩るような気がした。講義中に風で飛んだルーズリーフ。講義室を出て行った彼を追いかけて渡した。不思議そうにしていた。慣れない状況をのんびりと理解した駿太郎の表情。「ありがとう」と首を傾げた彼。
カウンターに立つ男性は三十代前半くらいに見える。白いシャツのボタンを上まで止めず、首筋は程よく見えてそして隠れていた。衿のフォルムが少し変わっているようだけれど衿の立て方のせいか個性的というよりはさりげなかった。洗い物でもしていたのか腕まくりしている。
高科は意識して深く息を吸って吐いた。小さな店だった。カウンターに一人、丸いスタンド席にふたり、奥にソファー席があった。高科はまっすぐにカウンターに向かった。
「こんばんは。はじめて、ですよね?」
既にカウンターに座っている男からひとつ空けた席におしぼりを出しながらその人は言った。声もよく似ている。高科は無遠慮に、探るように相手を見つめた。
(違うのか…?)
高科が様子を伺っていると、カウンターの中の彼はただ静かに微笑を湛えて手を動かし始めた。高科は気を引くみたいに一度咳払いをしてから
「富士子ママに、聞いたんです」
と伝えると、彼はあぁと高科を見て小さく頷いた。
「ママには本当によくして頂いて…。よろしくお伝えくださいね」
と微笑みを深くする。その姿は高科が知っている彼にしてはほんの少し妖艶すぎるような気もした。
◆ ◆ ◆
常連たちは彼をハナさんと呼んでいるらしかった。「ハナさーん」と店のどこかから彼を呼ぶ声がすると、ハナさんは「はーい」と極めてビジネスライクなのにも関わらずどこかほっとする答え方で返事をした。ちょうどインターホンが鳴って受話器で受け答えをするまでにとりあえず返事をしておくというような答え方で、高科はそれをいいなあとすぐに思った。ハナさん、と自分も呼んでみたい。「シュン」とあの頃彼を呼んだみたいに。「駿太郎だよね?」と高科は訊ねることができない。今目の前にいる彼が駿太郎ではないか、やっぱり駿太郎だろうと確信めいた想いを深めれば深めるほど、駿太郎なはずがないそんな訳ないじゃないか、という想いも同じくらい沸いた。年月を数えてみる。もう二十年も経ったのだ。
高科はコースターの上でグラスを傾けている自分の手許を見た。適度に中年の手だと思った。親指の付け根に琥珀色の酒が映っている。ふと見るとスタンドメニューに「レーズンバター」という文字が見えた。
「レーズンバター…? ママ、レーズンバターがあるの?」
今がチャンスだったのだ、高科はうっかり呼んだ「ママ」という呼びかけに舌打ちしそうになった。
カウンターの中の美人は肩を揺らして
「ママぁ?ママ、はちょっとなぁ。ハ・ナ、です。えぇ、レーズンバターね、ありますよ。」
と答え、どうします?と目顔で問う。
カウンターの隣の男が
「ここのレーズンバター、美味しいですよ、ハナさんのお手製なんです」
と高科に奨めた。
へぇ、とカウンターの中を見やる。駿太郎は、否、ハナさんは得意気に微笑んで「そうなんでんす、好評ですよ」と高科に言って高科にくれた同じ分量だけ隣の男にも微笑んだ。「レーズン、苦手じゃなかったっけ?」と話しかけてみたい。けれど、どうしてかそんな簡単なことができなかった。
バー華特製のレーズンバターにはレーズンの他に胡桃が入っていた。手作りならではの贅沢な味がする。こんなに洒落た手作りのレーズンバターなのに添えられたクラッカーはどこのスーパーでも売っているN社のソルティクラッカーだった。高科なら「一体このクラッカーはどこのだろう?」と思われるクラッカーを選ぶけどなと考える。それとも口慣れたクラッカーだからこそ良いのだろうか。この手作りのレーズンバターが引きたつのかもしれない。
視線を感じて目を上げると、カウンターの中のハナさんがこちらを見ていた。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、とても美味しい」
「それなら良かった」
難しい顔をしていたのかもしれない。何か考え事をするときに眉を寄せるのは高科の癖だった。
「それじゃなくてもコワモテだって言われるのに、すぐに顰め面をしてしまうんだ。癖で。」
高科は言い訳をするみたいに言って半分齧ったクラッカーを口の中に放り込んだ。
「ありますよね、ちょっと真面目な顔してると『怒ってるの?』って聞かれちゃったりね。」
と、ハナさんは頷いて、カウンターの隣の男も「あるある、僕もね・・・」などと相槌を打った。高科はいまそこでつながっている会話に愛想笑いをしながら、思い出しかけている記憶を探る。
◆ ◆ ◆
「怒ってるのかなって思った」
と駿太郎は目を伏せた。
「怒ってない。」
と高科は答えて、その声は、けれど、怒ってなどいないと伝えなければと思うばかりに明らかに荒くなった。駿太郎が少し肩を竦めた。
「ごめん。えっと…、怒ってない。」
高科はつとめて穏やかにしようとしてゆっくりともう一度そう言った。吐く息を含んだ声は少し小さく聞こえる。
「うん。」
駿太郎は俯いたまま「うん」ともう一度言う。まるで自身に言い聞かせるみたいな肯定の重ね方が幼子のようで可愛かった。高科はこの男が本当は自分よりも二つほど年上だと知っている。
「あのお客さんが自分でそう呼んでってお前に言ってたのも聞いてたし、お前だって別にあのお客さんに馴れ馴れすぎる程くずした態度でもなかった。つか、むしろ感じよかった。」
「…なら、どうして怒ってるの?」
「だから怒ってないって!!!」
そう言った高科の声はむしろ怒気を含んでいる。違うんだってば、そう思うのにうまく伝えられない。自分でもよく分かっていないからだ、そのことだけは分かっている。
「・・・んくーん」
叔父の秀春が駿太郎を呼んでいる。駿太郎はすっと頭を上げて声がする方に振り向いて「はーい!」と答えた。それから高科を振り返って目で「ごめん、あとでね」と言うとスリッパの音を立てて陽光が燦燦と戯れる食堂を横切って行った。チェックアウトラッシュが終わった朝と昼の間の時間。デッキ側の窓を大きく開け放している。風はまだ朝の涼を残したままだった。
「駿くーん」
と秀春が駿太郎をもう一度呼んだ。「はいはーい」と駿太郎がもう一度答える声はもう遠くなった。高科は思わずチッと舌打ちをした。だいたいあの「駿君」がいけないのだ。 ── いけない?いけないってなんだ・・・?
秀春が駿太郎を「駿君」と呼ぶのが、高科は本当は少し気に入らない。正直に言うとちょっと苛々する。なんでだろう。大事な友達をとられてしまうような気でもしているのだろうか。
この夏の過ごし方は想像していたよりもずっと嬉しかった。大学に入って初めてできた友人を自分が一番好きな居場所へ誘えて良かった。大きな荷物を持って東京駅に現れた駿太郎を見た時にその嬉しさは大きくなって、揺られる電車でうとうとしては、二人押し込まれた座席で駿太郎をつぶしてしまわないか気を使って、その度に嬉しさがじわじわと重みを増した。いつもは一人で降り立つ駅に駿太郎と降り立つ瞬間、嬉しさは爆発寸前になった。爆発しなかったのはその後の小さな苛立ちがあったからだ。
いつものようにほんの数歩、自分は駿太郎の先を歩く。振り向いたらいつも駿太郎はほんの少しだけ足を速めて「追いついたよ」と言うように自分を見上げる。その瞬間、高科はいつもニコリと笑いたくなる。なんだかよく分からないけどそういう気持ちだ。
駅舎の影に立ち、ロータリーを見渡すといつものバンがいつもの場所に停まっていて叔父が車のキーを回しながら手を挙げた。自慢の叔父を見せようと駿太郎を振り向いた時、駿太郎は自分を見ていなかった。叔父の秀春がこちらへ近づいてくるのをじっと見つめていた。
「よく来たね。」
と秀春が言って、それから「コーキ、ほら、紹介してよ」と高科を小突いた。
「平賀 駿太郎です」
と駿太郎が礼儀正しく挨拶をして、そうしたら秀春はもう
「駿君か。駿君、2か月間、宜しくね」
ともうずっとそう呼んでるみたいに自然に駿太郎を「駿君」と呼んだ。
高科だってまだ「ヒラガ」と彼を呼んでいるのにだ。
この夏のほとんどすべてのことは想像以上に素晴らしいのに、苛々することはもう一つあった。駿太郎が秀春を「春さん」と呼ぶことだ。叔母の良子だって秀春を「春さん」と呼ぶ。父の兄弟はみな「秀」がつくから親戚も叔父も叔母もいとこもみんな秀春のことは「春」「春おじさん」「春さん」と呼ぶのだ。だから駿太郎が「春さん」と呼んだってそれは特別なことでもなんでもない。でも、駿太郎が「春さん」と秀春を呼ぶと胸がざわざわとして「春さんって、呼ぶんだ?」とその度に思うのだ。
叔父夫婦が駿太郎を「駿君」と呼ぶので長居の客がたまに彼を「駿君」と呼ぶのを聞くと、高科は自分だってとなぜか対抗心を燃やして駿太郎のことを「シュン」と呼ぶようにした。できるだけ自然にと心がけたのは最初のほんの一回か二回だけだ。自分が彼を「シュン」と呼ぶのはごく当たり前のことなのだ、とてもしっくりと来た。
駿太郎のことを「シュン」と呼び始めたら秀春が「駿君」と呼ぶことも最初程は気にならなくなった。ただ、ほんの少しだけは苛々する。駿太郎が「春さん」と呼ぶことも相変わらず気になる。駿太郎が「よしこさん」と呼ぶことは少しも気にならない。
問題はこの一週間滞在していた客だった。秀春の同級生である彼は毎年家族で来て一週間程滞在していく常連客だ。中木 英明というのが彼のフルネームで秀春も良子も高校時代からの呼び名でキーと彼を呼んでいた。中木がチェックインしたのは先週の金曜日で家族は水曜日からチェックインしていた。奥さんと中学生と高校生の娘たちだ。その娘たちに今年はお手伝いの男の子が一人増えた、と聞いていたらしい。そう、なかなかな美形の男子大学生が。
「あぁ、君かあ」
と中木は高科に「やぁ、コーキ君、元気?」といつものように挨拶をした後、そう言って少しのけぞるようにして駿太郎を上から下まで見た。それからうんうん、と頷いて「コーキくんの同級生だって?」とか「専攻はなに?」とか一通り会話を弾ませて部屋へ行った。
夕食の時だ。中木のテーブルで話し込んだ秀春が「駿君」と駿太郎を手招きした。駿太郎を改めて紹介しているらしい。会話の中で駿太郎が秀春を「春さん」と呼んだのを聞き留めたらしい中木が言った。
「それそれ、それいいよね。俺も春と名前似てんのよ、ヒデアキって言うんだ、字は違うけど。俺のことも、「アキさん」って呼んでよ」
中木の娘たちがキャッキャと騒いでいる。
「お前なんか”キー”で十分なんだよ。」
秀春がそう受け答えしたところまでは聞こえて、高科は一つ隣のテーブルから重ねた皿をキッチンへ運んだ。
翌日になると、真面目な駿太郎は中木を「アキさん」と呼んでいた。ついでに言えば、中木の奥さんの名前も二人の娘たちの名前も覚えていた。オーナーの同級生、毎年長逗留してくれる常連の名前を憶えて名前で呼ぶ、特別なことではない。
そして今朝。
「その、何とかっていう銘柄のお酒をアキさんが飲みたいんだって。それで今夜出すからって春さんが。俺、何回聞いても覚えられない、そのお酒の名前」
チェックアウトラッシュが終わったカウンターで現金を丁寧に数えなおしてキャッシュボックスに入れる。カウンターにスプレー洗剤を吹きかけながら、駿太郎が言った。ダスターで天板をぎゅぎゅぎゅっと擦る指先が白い。細い髪の毛が踊るように揺れていた。
「アキさんって、呼ぶんだな」
心の中で思っただけだと思ったのに、それが唇から零れ落ちた。
「え?」
駿太郎は一瞬驚いた顔をして、それから少し考えるみたいに首を傾げた。駿太郎がよくやる仕草だった。
「あ、ごめんなさい。」
と駿太郎は何か思いついたように謝った。
「なんで謝んの?」
高科は駿太郎から目をそらしてキャッシュボックスのコインケースを重ねた。
「失礼だったのかな、って。」
「そうじゃ、ない。」
「でも、ごめんね。」
「なんで?」
「だって、高科、」
駿太郎はカウンターにのせたダスターを手に取ってきゅっと絞るようにした。
「だって、高科、なんか怒ってるのかな、って。」
タカシナ、タカシナ、ハルさん、ハルさん、アキさん、ハルさん、タカシナ。
何だろう、この気持ちは。
高科は訳の分からない苛立ちを覚えている自分自身に苛立ちを覚え始める。
「怒ってないよ」
怒ってなんかない。そう自分に言い聞かせるように高科は声にだした言葉をもう一度確かめた。
◆ ◆ ◆




