「バー華」~紫陽花の章~
開閉式のライティングデスクの上にデスクトップパソコンのモニターが置いてあった。その横に、投げ入れで生けた紫陽花の花瓶を置いて高科はベッドの上に座り、ドアの前に立っている駿太郎を振り向く。駿太郎はどうしていいのか分からずに部屋の出入り口で高科を、いや、紫陽花を、見守っていた。
花瓶の紫陽花は、青味がかった紫と赤みの強い紫と両方入っていた。ペンションの庭、庭といっても、どこまでが庭でどこからが原生林なのかしらないが、庭の奥になだらかに波打って群れて咲いていて、良子が庭の手入れをしながらハサミを入れたものだ。
その日、──ある友人がペンションでハウスウェディングを挙げた、その翌日── 駿太郎は、ペンションの仕事が落ち着く時間まで待って居ようと庭のベンチに座ってぼんやりと庭を、空を眺めていた。その景色は何もかもが懐かしく、そして何もかもが目新しかった。考えていることが多すぎた。そして思ってもみなかったことが目まぐるしく起きて、今の今も夢の続きにいるような気がしてならない。
高科の腕の中にいる自分。
それはずっと長い間、思い出の中にしかなかった。
高科とは大学時代に付き合っていた。ただの友人であったときを含めても一年に満たない。それなのに高科の存在はなぜかずっと駿太郎の中に住み続けた。
そして思い出の中の高科の腕は、肩は、もっとごつごつとしていたように思うし、自分はもっと、華奢でしなやかだった。時を経て、高科の腕も肩も少したくましくなっていて、それから声もほんの少し違う気がした。今の方がちょっとだけ優しい。
高科の手が、高科の腕が、自分を慈しむのを駿太郎はやはり夢なんじゃないかと思う一方で、記憶の中とどこか違うそれが現実感を伴って迫ってくるのを感じた。そして、胸が潰れそうに苦しい。その痛みがこれまでと違うこともやはり現実だと教えてくれている。
離さないよと伝えるように自分に巻かれていた腕がやっと駿太郎を放したとき、
「見ぃちゃった。」
と良子の声が聞こえた。駿太郎は慌てて、高科を押すようにして体を離した。
「ごめんね。そっと・・・と思ったけど、遠回りしようとしたら、康煕くんと目があっちゃったんだもんで…。」
良子は庭の飛び石をひとつひとつ確かめるように踏みながら二人がいるベンチの方へ向かってきて、ブーケのように束ねた紫陽花の花を二人へと差し出した。
「ダイニングに飾ろうかなあと思って切ってきたの。綺麗でしょ。あげるわ。」
駿太郎は束ねた紫陽花を受け取った。
ねえ、と良子は二人の間をすり抜けてベンチに腰を掛けた。
「紫陽花の花を、心変わりとか移り気だとかって言う人もいるけれど、私ね、すべてのものは変わるじゃない、って思うのよ。それこそ、愛情だって変わっていく、濃く、深く、なるのにね。」
それにね、と良子は立ち上がって、両手でこぶしをつくってとんとんとん、と自分の腰を叩いた。
「紫陽花の花の色は変わって、花は萎れて、暑い夏が過ぎて、秋が来て冬が来て春が来て、それで雨が降り続いて、また紫陽花の花が咲く。そうやって長い間、変わらないものがあるとすれば、それは、」
と、今度は両手の人差し指を二人に向けて
「愛だろ、愛。」
そう言ってにこっと笑うと、アー腰、腰痛い、と、また腰をとんとんとんと叩きながら二人に背を向け芝を横切って行った。
「シュンは今日はよく花をもらう日だね」
と高科が良子の背を見送りながら言った。
「ほんとだね」
駿太郎は紫陽花の花に顔を埋めてみる。雨の香りがした。花弁の脈が見えるほど近くにこの花を見たのは初めてのような気がする。紫色のグラデーションが綺麗だ。
季節が移ろっても
あぁ、そうか、そういう意味なのか?
「バイオレットフィズの、カクテル言葉はね、」
駿太郎がそう言うと、高科は笑って言った。
「知ってる、『私を覚えていて』、でしょ?ん?忘れないで、だっけ?」
「よく知ってるね。」
「昨日、フナイさんがそう言ってたから。」
そう言って高科は少し眉を寄せて難しい顔をした。
そっか、と、駿太郎は青い雨の香りを胸に吸い込んだ。
「フナイさんと、付き合ってるの?」
「・・・は?」
「いや、あの、店のオーナーなんでしょ、フナイさんて」
「うん、まぁ、そうだけど。」
「パトロン・・・?っていうの?」
「あぁ…。ふふ。そっか。いや、まぁ、そうだけど、そうじゃないよ。俺は雇われてるだけだし、あの人、奥さんいるよ。」
「そうなの?」
「高科こそ…。あの子、付き合ってるんじゃないの?」
「あの子って、さっきも言ってたけど、誰?」
「あの、昨日、ほら、キッチンの裏で、花あげてたじゃん。」
「あぁ、あれは・・・。あれは、花をあげてたんじゃなくて、受け取ってたんだよ、その、カラーだよ。花屋の佑介ね。」
「え?」
「昨日、パーティの準備中に急に思いついたからさ、ラインして、どっかでカラーの注文あったら一本くらい都合してもらえねえかって。それを持ってきてくれたの。」
「あ…そうなの?」
「なんだ、妬いてくれた?」
高科は悪戯気に目を眇めた。そしてふと目線を駿太郎の首元に移す。ん?と自分の首元を見下ろして、高科を見上げた。高科は長い人差し指でそっと、Tシャツの上から鎖骨の当たりをつい、と押した。
「昨日着てたシャツの、このあたりに、」
Tシャツから目を上げて高科は言った。
「キスマークがついてた。」
「・・・はぁ?ついてるわけないよ」
「そういう、夢を見たんだ。」
夢?と駿太郎は高科を見上げた。高科の濃い茶色の瞳にゆら、と炎が揺らめいた気がした。
「駿太郎?」と呼ばれて駿太郎は我に返った。ベッドに腰かけた高科が揶揄うみたいな笑顔を自分に向けていた。
「なんか、中学生とか高校生とかみたい。緊張してるの?」
「うん、まぁ。」
駿太郎は曖昧に答えて、部屋の中央に向かう。一瞬考えて、ライティングデスクの椅子を引いて座った。
「そっち?なんでここに座らないの。」
と高科がベッドの自分の座っている横をポンポンと叩いた。駿太郎は答えを探して首を傾げた。なんでかな、何となく。そう思うけど駿太郎は何も言わなかった。焦れたように高科がベッドから立ち上がって、一歩、二歩、と駿太郎の座っている椅子へ歩み寄る。駿太郎は高科の動きを追って目の前に立った高科を見上げた。
椅子に座った駿太郎を見下ろして高科は腕を首に回した。高科の腕が体を屈めて駿太郎を椅子ごと抱く。駿太郎はその腕に頬を寄せた。高科の血液が流れる音が聞こえるような気がした。ざー、ざー、とくり、とくり、・・・・。そっと口づけてみる。高科の腕がピクリと跳ねた。
高科を見上げると目があった。
しばらく見合って、高科が口を開く。
「キスマーク、上書きしてもいい?」
「だから、キスマークなんて、ないってば。」
「うん。でも、俺の夢の中では確かにあったんだよ。」
「そう。じゃ、それは・・・、高科がつけたキスマークだったんじゃない?」
「俺が?」
「そ。」
「そう・・・かなぁ?」
「そうだよ。」
高科は片眉をくいっと持ち上げて、訝しげに駿太郎を睨んだ。肉厚な唇を真一文字に引いて拗ねた表情を作る。その子どもじみた顔に駿太郎は思わず微笑んだ。
「可愛いな。」
駿太郎は腕を伸ばして高科のこわい髪をくしゃりと撫ぜた。
「なんか、可愛いよ、お前。」
高科はぷっと噴き出して「もういいおっさんだけどな」と笑った。
こんな日が来るなんて、想像したこともなかった。
いつか、どこかの街角で、高科を見かける日があるだろうかとそんな想像をしたことはあったけれど、それはやはりただ夢の続きのような現実感のない願望ですらないもので、今はただ考えることをすべて放棄して再会したそれ自体がただ奇跡だ、とそう思う。
高科の唇が駿太郎の額にそっと触れた。唇はそのまま少し留まってゆっくりと離れた。高科の息がかかる。それから高科は駿太郎の頭を抱いて、「駿太郎」と泣きそうな声で呼んだ。まるで、あの日の続きのように思える。これが最後だ、と記憶に刻み込んだあの日の続きのように。同じことを思っていたのか、高科は駿太郎を抱いたまま、耳元で言った。
「駿、初恋の話を聞かせて」
そう、あの日、高科はそう言って駿太郎に選ばせた。高校時代に自分を好きだと言った男と再会して今もまだ自分を好きだというその男の気持ちはきっと本物で、高校時代につきあっていた女の子からもらったマフラーを一人暮らしの部屋に持ち込んでいた高科の気持ちは信じることができなかった。好きだと思う気持ちが揺らいでいた。恋心はまるで天秤に乗せて図るみたいなものだとその頃はなぜかそんな風に思っていた
のだ、たぶん。こちらの皿に自分の恋心をのせて、あちらの皿に相手の恋心を乗せて。
「そんな、昔の話はもう忘れてしまった。」
駿太郎は答えた。事実、もうどれが初恋だったのかももう分からなくなってしまった。あの時の高校時代の同級生だったかと言われたらそうではないような気がするし、では高科だったのかと問われたらそれを初恋と呼んでいいのか惑う。
「それなら一番最近の恋の話。」
「そんな話、聞きたい?」
「聞きたい。全部。」
駿太郎はいくつかの恋に思いを馳せてみる。高科の手を放してから、重ねたいくつかの恋を、ひとつ、ひとつ思い出す。そしてそれが確かに恋だったろうかと少し考える。
高科の肩越しにベッドが見えた。ひと夏と、ひと冬をこのペンションで過ごした頃、駿太郎自身が寝起きした部屋と同じ間取りにあるそのベッドは、高科に別れを告げたあの時を思い出させた。やはりあれが、最初で最後の恋だったのではないだろうか、とも思う。
いや、違う。そんな都合の良いこと・・・。
確かに自分はこの男の手を振り払って、いくつかの恋をした。
肌を重ねて、朝を迎えることもあった。
そして確かなのは、と駿太郎は考える。
前を歩く男の肩の高さや、学食のテーブルでいただきますと合わせる手の大きさや、自販機の飲み物を取り出す腕の筋や・・・・些細な仕草や表情に胸をときめかせた、清らかだった自分はもう朽ち果ててしまった。
高科の手が、駿太郎のTシャツの裾をまくり上げて脇腹を這う。思わず小さく息をこぼすと、高科は駿太郎を撫ぜる手に力を込めそれからどこか急いた手つきでジーンズのベルトをカチャカチャと緩めた。
『キスマークがあったんだ・・・』
不意に高科の言ったその言葉が浮かぶ。
「キスマーク・・・」
と駿太郎がつぶやくと、高科は手を止めて駿太郎を見つめた。
「キスマークがあったの?」
「そうだよ。」
「・・・どこに?」
「ここ」
高科は人差し指でぐいっと、駿太郎の鎖骨の下あたりを押した。消えないキスマークが、もしかしたら体中にあるのではないかという気がしてきて、駿太郎は高科の手を掴んで下ろした。見られたくなかった。
高科は聞き分けのない子にじっと耳を傾けるように、膝を折って俯く駿太郎の目線を捕えようとする。駿太郎は頑なに高科と目を合わせるのを拒んで目を瞑った。
「どうしたの?」
高科の声が低く響く。駿太郎は首を振った。見えないキスマークだらけだ。
「見られたくないよ」
「駿太郎?」
「お前に見られたくない」
「なに?どうしたんだよ?」
高科はそっと腕を解いて部屋の電気を消しに立った。スイッチの音とともに暗闇が部屋に落ちる。窓辺からうっすらと月の光が忍び込んで来ていた。前の晩にはシティホテルの窓から一人で見上げた月だ。
「よし、これで俺も中年の腹を隠せるな。」
と高科は笑って駿太郎の前にもう一度膝を折った。そうじゃないんだよ、高科。けれど駿太郎はそれを口にしたら本当になってしまいそうで言えない。
「高科。」
「うん。」
「暗くしたから、もういい?」
高科はもう一度駿太郎のTシャツの裾から手を入れて、少し伺うみたいに駿太郎の腹を、背を弄った。それから小さな音を立ててキスをする。駿太郎が少し落ち着いたのが伝わったように、高科の大きな手が、駿太郎のデニムをぐっと下ろして足から抜いてぽいと放った。その手は駿太郎の腿を探る。手はまた伸びて、駿太郎の背を摩る。
「高科。」
「ん?」
「・・・。あの、な、俺は、キスマークだらけなのかもって思ったんだ。」
溜息のような息をついて、けれど、高科は駿太郎の首元を唇で撫でるのをやめない。
「消えて、見えなくても。俺の体中に。お前と別れてから、お前が知らないいろんなことが、お前には言いたくないこともたくさんあって。」
高科はゆっくりと頭をもたげて、暗闇の中で駿太郎を見つめた。
「だから。それで。」
拙い言葉しか、思い浮かばなくなった。言いたくない、見られたくない、知ってほしくない。だけど、知ってほしい。でも、だけど、でも。
高科は駿太郎をぎゅっと抱きしめた。
「いいんだよ。」
駿太郎は泣きたくなる。思えばこの男の腕の中で涙をこぼしたことがなかったという事実に不思議な気持ちがする。高科がそっと駿太郎の頬を拭って、ベッドへ誘った。
◆ ◆ ◆
花弁みたいだ、と高科が目を細めた。
「はなびら?」
明るい朝の光の中で見ると、確かに高科には皺が増えた。こんなところにホクロなんかあったっけ?と高科の肩を撫でると、高科は駿太郎の首、肩、胸、とその指を滑らせる。それは昨夜の痕跡だった。白い肌に赤く花弁が散ったようだった。
「紫陽花の花弁みたい。」
と高科が重ねて言う。陽の光をうけた紫陽花がライティングデスクの上で凛と背筋を伸ばすように花瓶に生けられていた。高科の位置からだとちょうどその花瓶の花が駿太郎の身体越しに見えるはずだ。
駿太郎は高科を振り向いてケットの下に潜り込んだ。花はいい。無条件に愛でられて。そういえば、と駿太郎は前の日に自分の胸の中で拉げてしまったカラーの花を想ってもう一度ケットから飛び出した。
「なんだよ、せわしいやつだな。」
と高科が駿太郎をケットごと抱きしめる。
「カラー、昨日の、カラーの花、大丈夫かな。」
自分をくるむ腕をどけて、ケットにくるまったままベッドを降りて花瓶を覗き込んだ。カラーは紫陽花の花に抱かれるようにそこにある。まるでそれ自体が大きな一つの花のようだった。
切り花ではあるけど、と高科が肘をついた手に頭を乗せて言った。
「多少傷ついても生きてるなら、それでいいだろ。」
その傷さえも愛でる人にとってはかけがえのないものであったりするものかもしれない。
「きれいだ。」
駿太郎がそう言うと、
「お前もな。」
と高科が言った。
そっと触れた手を放すと、花は頷くように花瓶の縁をなでて揺れた。
終わり




