1. 雰囲気のある美人
富士子ママが言うには「雰囲気のある美人」。
「バー華」の看板は小さくドアの左側にささやかに灯っている。燻したような金銅色のアルミのボードに洒落たフォントで書かれたアルコールメニューがボードと同色の鋲で止められていた。メニューを書いた紙は五線譜のようだ。
不惑に差し掛かる高科康煕がこれまで出逢った中に「雰囲気のある美人」がたった一人いた。若かったあの頃、もしかしたら若者はみなそうなのかもしれないが、高科は人生に対して傲慢だったと思う。どうして手放せたのだろう。若かった高科はこの先まだいくらでも出会えると思っていた。運命だと思えるそんな恋をできる人に。愛していると心から思えるそんな人に。
高科はバー華のドアノブに手をかけた。まだ春浅い夜気を纏うドアノブは冷たい。一息ついて、高科はドアを引いた。「雰囲気のある美人」が高科の記憶に留まる相手ではないと確かめるために。
◆ ◆ ◆
数週間前のことだ。
「コーちゃんは理想が高すぎるのよ。どこにそんな人がいるのよ。」富士子ママは馬鹿ねえと笑う。
「いたんだよ、確かに。」と高科は肘をついた腕に重心をのせた。濃い眉を少し寄せ、厚めの唇を片方だけ持ち上げる。男らしい色気があった。
「コーちゃんももう不惑だっていうのに。若い頃ってそういうもんよ。青春っていう位、青いフィルターが掛かってるの、アタマがお花畑なの。そんなことも分かんないくらいコドモじゃないでしょ、あんただって。」
富士子ママは今日は黒い着物を着ていた。江戸小紋というんだと思う。江戸小紋の中にもいろんな柄があって、ただ、とにかくそれは高科の実家の九州の母親が「江戸小紋よ」と言って何かあると着ていた着物と同じ種類だよな、と高科は思い出していた。富士子ママの赤く塗られた爪は高級なプラスチックのようになめらかに光っていた。赤い爪の指はミックスナッツが盛られていた小さな竹籠に敷いてあったナプキンを摘んで丁寧に広げ、手慰みにそれを小さく小さく折りたたむ。
コドモじゃない、確かにね、と高科は苦笑いをしてカウンターの青年にグラスを預けた。青年は小さく頷いて受け取る。
高科は記憶の中の「雰囲気のある美人」を思い出してつい微笑みを溢してしまう。華奢な指が掴んで放さない自分のタイパンツの裾。大きなモニターに幾度も繰り返すDVDのメニュー画面が切り替わるたびに高科の膝に額をのせて眠る男 ──そう、男── の額から頬にかけて光を投げかけたり、影を作ったりしていた。長い睫が震えているように見えて高科は目が離せなかった。どうしていいか分からなかった自分を思い出すとつい笑ってしまう。
あれは大学生の頃。高科の叔父が経営するペンションで過ごした夏だ。大学で知り合った彼を誘ってアルバイトに勤しんだ。
高原の夏特有の緑が映える庭に設えたウッドベンチに彼は細い肢体を投げ出してよく空を見ていた。時折腕を空に伸ばす。何かを掴むみたいに。短い夏を惜しむような風が吹くと彼の柔らかい毛はふわりと撓んで、彼は華奢な手で煩そうにかき上げたりした。その時はまだ触れたこともなかった彼の首筋、肩、腰、膝頭、踝、高科は目で撫でて、触れたい、触れたい、触ってみたいと思う。そのあまりの魅力に目をとめた天使が今にもこの男を天に召してしまうのではないかと思うほどだった。
けれど彼ははかなげに見えて、実は頑なな、芯の強さのある人でもあった。大学に入学して数か月周囲はどんどんグループを作っていく。そんな中、彼はいつもひとりでいた。講義室の最前列に迷わずに座る伸びた背筋。あるきっかけで友人になって、同じ講義を取っている時はもちろん、別々の講義室へおもむく時も、講義と講義の間も、放課後も、いつも一緒にいた。ひとたび仲良くなればまるですべてを預けるように頼りにしてくれて。自分を見上げる目。好きだと伝えてくれる目。それから付き合うようになって、ふたり手を携えて快楽の海に溺れて息も絶え絶えなのにその先へその先へと海の底に潜り込んで行く強欲さもあった。
二人の恋の最後の時にすら彼にははかなさなどなかった。迷って揺れる心を自分の手で取り出して見せた。彼の目はあの時でさえ高科を好きだと言っていたのに。
「もったいなかったなー」
高科は恋を手放すたびに言う一言をまた言った。富士子ママだけが知っている。もったいなかったのは今手放したものではなくてもうずっと前に手放した、その男のことだったということ。
彼と出逢った春も、彼と過ごした夏も、今はもう遠い遠い昔の話だ。
幾度も春が過ぎ、幾度も夏が過ぎた。幾度も秋は行き、幾度も冬を越えた。季節はめぐり、めぐった。
富士子ママの小紋の袖からちらりと覗いている。
その色は春を思わせる。淡い、淡い、桜の色だ。
◆ ◆ ◆
「コーちゃん、好きなんじゃないかなー、ああいう美人。たぶん好きだと思うわよ。難攻不落なタイプだから、玉砕してまたここで愚痴りなさいよ。イイ男が振られて泣くのって、あたし、だーいすき!!ぎょっくさい!ぎょっくさい!」
ふふふふ~んと歌うように富士子ママは水割りを飲み切った。
「ふうん。でも俺、カウンターの中にいる人を口説くのって、なー。なんかルール違反な気がして」
高科は気が乗らないな、とグラスを揺らした。
ドアベルが鳴る。富士子ママは大きな声で新しい客に声をかけた。
カウンターの中にいる人と付き合ったことも実はある。ペンションを経営する叔父を手伝っているから、仕事柄客商売の醍醐味も苦労も分かっているし長続きした方じゃないかと思う。むしろ相手が会社員のようなかたい仕事だと休みも合わずすれ違いが多くて長続きしないことが多いのではないか。でも、いずれにしても何かが違う。じゃぁ何が違うのかと問われると説明はできない。何を相手に求めているのかなんて、そんなこと分かってたら人は惑わずといわれるこの年までひとりでいたりしない。
難攻不落って、実は俺のこというんじゃない?
と高科は一人ごちてクラッカーに噛りついた。よく知っている味のレーズンバターが口の中で溶ける。よく知っているのはこの店でよくそれを口にするからだし、叔父のペンションでもそのレーズンバターを出しているからだ。シーズンオフののんびりした夜にはよく冷蔵庫からそれを取り出して一人で飲んだりもする。
そういや…と高科はレーズンを乗せた赤い舌を思い出した。
◆ ◆ ◆
苦手なの?と訊ねるとほんの少し眉を寄せて「ん」と言った。それはまだ付き合う前のことで、彼のその小さな受け答えになにかほんの少し艶を感じた自分に戸惑った。今、確かに自分は思った、「こいつ、こんな風に喘ぐんかな?」と。赤い舌にのせたレーズンを摘んで皿の端に避けるその姿を見守る高科は、そんなことを思う自分をいぶかしんで知らないうちに顰め面をしていたらしい。
「ああ、ごめんね」
と彼は高科の顰め面の意味を誤解して少し俯いて謝った。
「や、違う、違う。」
高科は彼が皿の端に置いたレーズンを摘んで口に入れた。あの赤い舌先にのっていたレーズンを。えっ?と一瞬驚いた顔をした彼は
「レーズン、好きなの?」
と高科に訊ねた。
「うん。」
でも、本当は特別好きな訳ではなかった。ただ、彼のあの赤い小さな舌にのっていたそれを口にしてみたかっただけだ。彼は遠慮がちに、そして不器用に、カレーにポツポツとのったレーズンのひとつをほんの少しのカレーごと掬って高科の口元に運んだ。高科がぱくりと食いつくと、彼はつられたようにほんの少し口をあけた。さっきレーズンをのせた赤い舌がちらりと見えた。
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