01:やり直す
感想をお待ちしております。
下校中に包丁を持った女に腹を裂かれ、肉を食われたところまでは覚えている。
整った顔立ちをした長い黒髪の女が、クレアの腹に顔面を押し付け、一心不乱に肉を食い始めたのである。最初は何が起こっているのか理解できなかった。そして、理解する間もなく彼女は死んでしまった。
意識を失う寸前、女はクレアを見つめながら「美味しい」と言った。血で赤くなった歯を剥き出しながら、笑みを浮かべていた。歯並びがとても綺麗だった。
人間の肉を食らう。そんな狂った存在がクレアの人生に終止符を打った。
許せない、というより、信じたくないというのが一番の本音だった。
人はいずれ死ぬ。命は永遠ではない。クレアも例外ではなく、その寿命が尽きれば、二度と覚めない眠りにつくものである。だが、彼女はまだ若い。たった十六年しか生きていない。命の灯はこれからもしばらく燃え続けるはずだった。それなのに、「体を食われる」という世にも奇妙な形で、たった一つだけの生命を絶たれてしまったのだ。
こんなはずではなかった。ついこの前までは、贅沢かつ優雅な暮らしを送っていたのに。
父が亡くなって、屋敷を捨てて、財産を失って、使用人に裏切られて……。
転校先では辱めを受けた。プライドも心も傷だらけになった。
受け入れがたい現実。残酷な運命。それに抗うことを決意した矢先にあの食人女が現れた。
わけがわからないまま、整理がつかないまま、クレアは死んだ。
……そして、目を覚ました。
目を覚ました……のである。
どういうことだろうか。
――クレアはまだ生きていた。
切り裂かれたはずの腹部を手で触る。全くの無傷だった。痛みもない。処置を受けた痕跡もない。
服装は学校の制服のままだ。あれだけ出血していたのに、血痕は付着していなかった。包丁で服を破かれたはずだが、穴一つ空いておらず、縫い合わせた形跡もない。全身は便器の水で濡れていたが、それもすっかり乾いている。嫌な臭いもしない。
気を失っている間に何が起こったのだろうか。彼女はどのくらい眠っていたのだろうか。
「ようやくお目覚めのようですね」
白いドレスに身を包み、赤い髪を腰まで伸ばした少女が目の前にいた。
右手には木製の杖を握っている。彼女の背丈よりも高い杖だった。先端はグルグルと巻かれており、童話に出てくる魔法使いが持っていそうな形状をしている。
「あのー、聞こえてますー?」
どうやら彼女はクレアに向って話しかけているようだった。
ここはどこなのだ? 自分は死んだはずではなかったのか? というか、この少女は誰なのだ?
キョロキョロと周りを見回すクレア。状況が呑み込めない。
ここは灰色の壁に囲まれた謎の空間だった。天井は無く、頭上には真っ暗な闇が広がっている。夜空とは異なり、星が一つも見えない。雲もない。あらゆるものを吸い込んでしまいそうな、無機質の黒だった。
仮にここが「あの世」だとしたら、どうして自分と少女しかいないのだろう。他の死者たちはどこにいる?
「龍ヶ崎クレアさん。残念ながら、あなたは死んでしまいました」
やはりそうか。そうだったか。ま、あれほどの重傷を負って生還できるはずもなかろう。
クレアは自身がすでに死んでいるという事実を聞かされても驚かなかった。もちろん、ショックを受けていないわけではない。納得もしていない。でも、必要以上に騒いだり喚くこともしなかった。あくまで冷静でいようと思っていた。
それはさておき、この少女には聞きたいことが山ほどある。まずはきちんと説明してもらおうか。
「なぜ私の名を知っている? お前は何者だ? ここはどこなのだ?」
「私は女神です。死者の魂を導く存在です。女神は何でも知っているのです。だからあなたのこともバッチリ知っています。そして、ここは審判の場。死者の魂の行き先を決める場所です」
嘘か誠か、少女は自らを女神と称するのであった。
さっきの人食い女といい、今日は変な奴と立て続けに遭遇してしまうな、とクレアは思った。
「死者の魂を導く存在か。それに、私のことを知っていると言ったな。ならば、やはり私は地獄へ連れて行かれるのか?」
クレアの生前の行いを知っていれば、この女神は問答無用で地獄行きの判決を下すはずだ。きっと閻魔大王のところへ連れて行かれるのだろう。クレアはある程度の覚悟はしていた。
しかし、少女の反応はクレアの予想と違っていた。
「あなたを地獄に、ですか? いえ、そのつもりはありませんよ。あなたのような逸材を地獄送りにするのは、あまりにももったいないですから」
女神を名乗る少女は苦笑いをした。
もったいない……? どういう意味だろうか。
「確かにあなたは地獄に落ちて当然のクズ人間ですが、私はそこまで鬼ではありません。志半ばで、若くして亡くなったあなたには、それなりに同情しているのです」
「女神のくせに人間に同情するのか。なかなか面白いことを言うではないか」
「まだやり残したことがあるでしょう? こんなところで終わりたくない。あなたはそう思っているはずです」
その通りだった。このままでは終われない。死んでも死にきれない。クレアは何も納得していないのだ。
もしやり直せるチャンスがもらえるなら、今すぐにでも生き返らせてほしい。
「ですので、私はあなたにリベンジの機会を与えたいと思うのです」
女神はドヤ顔をしながら言った。
「ほう。望むところだ」
「ただし……」
「ん?」
「元の世界に帰ることはできません。他の世界で人生をやり直していただきます」
「他の世界だと……?」
どういうことだろう。クレアがいた世界とは異なる世界が存在しているというのか?
つまり、いわゆる異世界というものなのか。
「それはどんな世界なのだ? 治安は? 生活水準は? 言語は? 私は日本語しか話せないぞ」
「言葉に関しては心配無用です。その世界の人々は、日本語と同じ言語を使いますから。生活水準は近代レベルです。具体的には、蒸気機関車が走っていた時代を想像してくだされば結構です。治安は……そうですね。殺人、強盗、略奪……何でもありで楽しいですよ!」
「治安が悪すぎる! もう少し何とかならないのか!」
何とも物騒な世界ではないか。そんなところで生き残ることができるのか?
クレアは不安を覚え始めた。
「文句言わないでください。クズはクズらしく、クズが集まる世界で生き抜いてください」
「クズが集まる世界……?」
「ええ、そうです。クズなのです。その世界はあなたのようなクズが連れて行かれる場所なのです。クズによるクズのための異世界生活。クズのあなたにはピッタリです。いいですか? クズ。クズを貫き通すことが、その世界で生き残る術なのですよ。わかりましたか? クズ」
「ああああああ! クズクズうるさいのだ! 黙れ!」
クレアは自分がクズであると自覚していたが、改めて他人に指摘されると腹が立つのであった。今すぐこのメスガキをぶちのめしたい、とすら思えてくるのだった。
「でも安心してください。漏れなくクズなのは、あくまで、あなたのような転生してきた人たちです。その世界の原住民の皆さんは良い人もたくさんいますからね。治安を悪化させているのは、私が厳選したクズの方々なんです」
「なるほど。貴様はクズを寄せ集め、定期的にその世界へ送り込んでいるというわけか。原住民にとってはこの上なく迷惑な女神だな」
「ふふふ。だって面白いんですもの」
女神は無邪気な笑顔で言った。
どうやら一番のクズはこの女神だったようだ。
「どうします? 行きますか? きっと楽しいですよ。私もあなたも」
「ふむ……」
どうするべきだろうか。異世界へ行くか、行かないか。
一度は死んだ身だ。普通なら、もう立ち上がることもできないはずだった。しかし、この女神は再生の道を提示してくれているのだ。
クレアの野望はまだ果たされていない。このまま大人しく引き下がることなどできるはずもない。
答えはもう、決まっている。
自分を侮辱した者たちへの復讐ができないのは残念だが、自由と名誉を取り戻すチャンスは残されている。つまり、転生先の世界で億万長者となり、さらには民衆を支配する王となればいいのである。
この女神はクズにピッタリの世界だと言った。ならば、自分はクズらしく、クズの限りを尽くしてやるまでだ。クズの世界を統べるクズの王に君臨してやろうではないか。
「貴様の話に乗ってやろう。私はその世界でやり直す」
「決まりですね! やりましょう!」
異世界へ行く。異世界で栄光を掴む。
それがクレアの下した決断だった。
お読みいただきありがとうございます。
感想をお待ちしております。