00:プロローグ
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彼女は自分がこの世で一番偉い人間だと信じて疑わなかった。他の誰にも負けない真の勝ち組であると思っていた。
だが、実際は誰にも勝ってなどいなかった。彼女はただ恵まれていただけだった。
親が金持ちであるという、たったそれだけのことを、まるで自分の手柄であるかのように考えていたのだ。
旧財閥の一族、龍ヶ崎家の一人娘として生まれた彼女は、幼い頃から何一つ不自由なく育てられてきた。
父は彼女をとても愛していた。娘を喜ばせることが生き甲斐だと言っていた。
欲しいものは何でも手に入った。父は彼女のどんな願いでも叶えてくれた。
手に入らないものはない。望みは必ず満たされる。この世のすべてが彼女の思うがままに動いているようだった。
世界は自分のためにある。いつの間にか、そんな風に考えるようになっていたのも事実だ。
家庭では甘やかされ、学校や公共の場でも優遇されてきた。そのおかげで彼女は超が付くほどのワガママな娘に育ってしまった。また、周囲の人間に対して、いつも横柄な態度を取ってばかりだった。
乱暴で自己中心的で無慈悲な性格のお嬢様。
それが龍ヶ崎クレアという少女だった。
新米のメイドには特に厳しかった。
クレアはメイドにいつも無理難題を押し付けていたものだ。
ある日の午後。小腹を空かせたクレアは、新米メイドのアリスを自室に呼びつけ、こう言った。
「何か甘い物を持ってこい。今すぐだ」
「は、はいなのです! お嬢様!」
主人の命令を受けたアリスは、スイーツを調達するために慌てて屋敷を飛び出した。それから五分ほどで戻ってきた。
「お待たせしました……なのです! お嬢様の大好きなティラミスをご用意したのです!」
駆け足で買い物に行ったため、アリスは息を切らせている。顔はほんのりと赤い。
ところが、クレアは礼を言うことも彼女を労うこともしなかった。
険しい表情でティラミスを見つめるクレア。好物のスイーツであることは確かなのだが……。
「いつもと見た目が違う。これはどこで買ってきたのだ?」
「近くのコンビニなのです。すぐに食べたいとおっしゃったので……」
「馬鹿者!私は上級国民なのだぞ? 庶民とは違うのだ、庶民とは! そんな安物を買ってくるとは、何を考えているのだ!」
「ま、誠にごめんなさいなのですぅ!」
アリスは何度も頭を下げながら謝罪する。
「はぁ……。デザートもロクに用意できないなんて、お前は本当に使えないメイドだな。お仕置きしてやる。パンツを脱げ」
「ふぇぇぇぇぇぇ……」
「お尻ぺんぺん三百回!」
「ひいぃっ……!」
――私は偉い。私が一番。だから何をやっても許される。
彼女の辞書に「遠慮」や「気遣い」といった言葉は載っていない。いつでもどこでも自由気ままに振る舞う。たとえ、相手がどのように感じていようとも……。
そう、それは遊園地に行った時のことだった。
「お嬢様、観覧車の待ち時間は三十分らしいのです」
「それがどうしたというのだ」
「え?」
「道を空けろ。私が最優先だ」
「……す、すごいのです! 列に並んでいる庶民の方々が、無条件で順番を譲ってくれているのですぅ!」
「ふっ……。愚民どもを見下ろす観覧車は実に愉快だな。見ろ! 人がゴミのようだ」
「高いところは苦手なのですぅ……。オロロロロロ……」
「観覧車の後はメリーゴーランドに乗るぞ」
「は、はいなのです!」
「どうだ。貸し切りのメリーゴーランドは楽しいだろう」
「新感覚なのですぅ!」
クレアに文句を言ってくる者はいなかった。どんなに憎くても、どんなに疎ましくても、誰も口出しできなかった。
彼女の父が亡くなったその日までは……。
「きゃははは! 汚ぁ~い! しかもマジで臭すぎなんですけどぉ!」
「ちょっと、それはさすがにやりすぎだってぇ。クスクス」
「写メ撮って拡散しなきゃ!」
ここはとある公立高校の女子トイレ。時刻は午後五時を過ぎた頃。
薄暗いこの場所で、クレアは全身びしょ濡れになっていた。
洋式便器に顔を無理矢理押し込まれ、便器の水で浸されたモップを体中に押し付けられたりしたためだ。
秋が深まるこの季節。水に濡れると体が冷えてしまい、すごく寒い。
目の前には三人の女子生徒がいて、震えるクレアを指さしながらケラケラと笑っている。
窓から差し込む赤い夕日が彼女たちの横顔を照らす。悪魔のような笑みだった。
(外道め……。よくもこの私を……!)
クレアは下唇を噛みながら、女共をキッと睨んだ。
「……あ? 何その顔? あんた、自分の立場わかってんの?」
すると、クラスの中でも特に力のある者、いわゆるリーダー格の女子生徒がクレアの腹部に蹴りを入れた。
「うっ……! ぐぅぅぅ……」
小さく呻き声を上げるクレア。衝撃のせいで上手く呼吸ができない。
「あんまり調子乗んなよ? 転校生のくせに生意気なんだよ。大人しくウチらの言うこと聞けって言ってんの。じゃないと、次は本気で殺すからね?」
女子生徒は憎悪と怒りを込めた目でクレアを見下ろしていた。
殺す。そんなセリフを彼女に向って吐ける人間なんて、今まで一人もいなかった。
だが、この女は軽々しくそれを言ってのけた。
(そうか。私はもう、「偉い」わけではないのだ……)
今までのクレアは父の力によって守られていた。人々は彼女に暴言を吐くことができなかった。
でも、今は違う。彼女は野晒しにされた一匹の子羊である。たとえ狼に食い殺されようとしていても、誰も助けてはくれない。
父という後ろ盾を喪失したクレアは、この世界にとって何の価値もない「ガラクタ」なのである。
世界は自分のために存在しているのではない。自分はただの人間。地位も名誉も何もない。平均……いや、それ以下の……。
地獄は始まったばかりである。奈落の底に落ちたクレアは、これからずっと、ひどく苦しみ、もがき続けることになるのだろう。
これはきっと、贅沢の限りを尽くし、傍若無人に振る舞い続けたことに対する報いなのだ。
「じゃあ、また明日ね。明日もたっぷり遊んであげるから」
「逃げたら殺すよ」
「バイバーイ!」
遊びに飽きた悪魔たちは、クレアをトイレに残して帰っていった。
彼女は無言のままだった。
静寂が空間を支配する。
彼女はまだ震えていた。寒さのせいではない。これは怒りだった。
やがて、積もりに積もった心の叫びが、少しずつ魂を宿し始めていく。
「……クソが」
何なのだ、これは……!
確かに自分は報いを受けて然るべき悪党かもしれない。天罰が下ったと考えるべきだろう。でも、やっぱりこんなの納得がいかない。どうしてここまで酷い目に遭う必要があるのだろうか。そう考えると、何もかもが許せなくなってくる。
もはや冷静ではいられなかった。こみ上げてくる怒りを抑えることができなくなった。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなぁあああああ!」
足元に転がっていたアルミ製のバケツを思いきり蹴り飛ばす。
ガラガラガッシャ―ン! と、物凄い音がトイレに響いた。
「なぜ私がこんな屈辱を……! いくら何でも理不尽ではないか!」
悔し涙が目に滲む。
――こんなことで泣いてたまるものか。私は、私は……。
それでも、涙をこらえることはできなかった。
クレアは床に座り込み、声を殺しながら泣いた。
父が死んで、彼女の生活は一変した。
当主が消えた龍ヶ崎家は社会での影響力を失い、危機感を抱いた使用人たちは父の遺産を持って、散り散りになって逃げてしまった。
財も人も失ったクレアは、当然これまでの生活を維持することができなくなった。
名門のお嬢様学校から公立の学校へ転校することになり、住んでいた屋敷も売り払うこととなった。そして、彼女は母親と二人、古い小さなアパートに移り住んだ。
誰もが羨むお嬢様だったクレアは、すっかり庶民に成り下がってしまったのだ。
庶民による庶民の生活。学校の送り迎えをするドライバーを雇う余裕はない。食事を用意するのは父が連れてきた凄腕の料理人ではなく自分自身である。身の回りの世話をするメイドや執事も、もういない。
彼女はありとあらゆるものを失った。何も持たない状態こそが本来の自分の姿であるということを思い知った。
もちろん、こんな生活に納得などしていない。不満と鬱憤だけが募っていく。だから、クレアは今まで通りの自分を貫き通すことにした。
転校先でも彼女の態度は変わらなかった。クラスメイトは虫けら同然だと思っていたし、誰もが自分に従うものだと考えていた。ところが、その甘ったれた認識は通用しなかった。ここは彼女の知る世界ではなかったのだ。
この世界で一番偉いのは、力を持つ者である。財力、知力、腕力など、力の種類は様々だ。そして、クレアはここでは無力に等しい。財力はすでに失われており、女でしかも華奢な体格をしているので、腕力も無い。
転校早々、クレアはクラスを牛耳る女子生徒に目を付けられた。どうやらその生徒はクレアの態度が気に食わないらしい。もちろん、クレアも彼女のことが気に入らない。低能で猿並みの知能しか持ち合わせていないくせに、どうしてそこまで偉そうなのか。コイツは自分を何様だと思っているのだろうか。
「転校生さぁ、ちょっと焼きそばパン買ってきてくれない?」
「なぜ私が貴様のために昼食を用意しなくてはならんのだ?」
「あん? 何その態度?」
「それは私のセリフだ。少しは身の程をわきまえろ、愚民」
と、言った瞬間、クレアの顔面に右ストレートが飛んできた。
生まれて初めて殴られた。痛い。
口の中が切れてしまったみたいだ。血の味がする。
「愚民って誰? もしかして、ウチのこと?」
「他に誰がいるのだ……グフッ!」
もう一発殴られた。
さっきよりも強い力で。
「いいから買ってきて。ね?」
「あ、あ、あああっ……」
クレアは恐怖で震えていた。目には涙が浮かんでいた。
この時になって彼女はようやく理解したのだ。この教室を支配しているのが暴力であるということを。虫けらなのは自分であるということを。
本当にこの先もずっと、自分は地獄のような日々を送り続けるのだろうか。生きながら地獄を見続けるのだろうか。だとしたら、もう耐えられない。いっそのこと死んでしまった方がマシなのではないか。
――いやいや、何を考えているのだ私は。この私が屈することなど、あってはならないはずだ。私を辱めた者たちに復讐するまでは、絶対に死ぬわけにはいかないのだ。
復讐だけではない。いつか再び、自由と名誉を取り戻す。その時までは何が何でも生き抜いてみせる。
「まずは復讐の計画を立てるぞ。クラスを支配するあの女を打ち倒し、彼女に代わって私が権力を握るのだ。相手は低能。知力では私が圧倒的に有利!」
今のクレアは財力も腕力もないが、知力だけはクラスの他のどの連中よりも長けている。ならば、頭を使うしかない。頭脳の差で奴らを屈服させるのだ。
トイレの床にへたり込んでいたクレアは力強く立ち上がった。
もう涙は枯れている。
今、彼女の胸に宿るのは、栄光を奪還するための志だった。
「帰宅したらすぐに「復讐ノート」の作成に取りかかろう。……あ、その前にシャワーを浴びないと。便器の薄汚い水で制服が臭くなったではないか。ちくしょうめ。高貴なる私を穢すとは許せんな」
学校を出ると、すっかり日は暮れていた。秋の風が吹き、濡れた体がより寒く感じられた。このままでは風邪を引いてしまう。早く帰らねば。
夕闇が迫る帰り道を一人で歩く。人通りが少なく、殺風景な路地裏だった。
ここでクレアは突然、背中にある違和感を覚えた。
背中に何かが刺さっている……?
「いっ……! 痛い……!」
何だ? 何がどうなっている? 背中に何が刺さっているのか?
「ああ、可愛い……。ホントに可愛い。ハア、ハア……」
「……!」
悪寒が走る。
いつの間にか、彼女の背後に長い黒髪をした女が張り付いていたのだ!
女の生ぬるい吐息がクレアの頬にかかる。女の黒髪が首筋に絡みつく。
その女はクレアを後ろから包み込むような形でまとわりついていた。
(コイツ……! 変質者か……!)
しかし奇妙だ。女からは体温を感じない。普通の人間なら、こんなに密着されれば温もりが伝わってくるはずなのに。
彼女はクレアの背中に何か刃物のようなものを突き付けているみたいだ。おそらくこれが痛みの正体だろう。
「は、離せ!」
クレアは女を振り払った。
一体どんな顔をしているのか。きっと気持ち悪い顔をしているに違いない。そう思った彼女は、すぐさま女の顔を見た。
すると……。
(な、何だこの美人は……!)
思わず言葉を失った。どうしてこんなに優れた容姿をした女が、こんな変質者じみた真似事をしているのか。まるで理解できない。
「食べたい……食べたい……。美味しそう、美味しそう……」
女の手には包丁が握られていた。それがクレアの背中に刺さっていたようだ。
幸い、傷は浅いみたいだ。刺されたというより、刃の先端を軽く押し付けられていただけだと思われる。とはいえ、立派な傷害事件であることには変わりない。問答無用で現行犯逮捕だ。
「貴様、何を考えているのだ? なぜ包丁を持っている? 私に何をするつもりだ?」
「ふ、ふ、ふ、ふ……」
気色の悪い笑い方をする女。目はうつろで、視線が定まっていない。何を考えているのかさっぱりわからない。
だが、殺意だけは明確に伝わってくる。あの包丁でクレアを殺すつもりなのだろう。
「……い、今なら見逃してやる。だが、これ以上危害を加えるというのなら、警察に通報するぞ!」
「いい。それでもいい、よ。あなたを食べた後なら、ね……」
「狂っているのか、貴様……!」
とんでもない狂人に遭遇してしまった。
(私を食べるだと? 食人とは良い趣味をしているではないか、この女)
「可愛い……。ハア、ハア」
「私を馬鹿にしているのか?」
「いただき……ます……」
「さっきから何を……」
ズブリ。
「えっ……?」
何かが腹部に突き刺さる。
グチュグチュ。クチャクチャ……。
腹部に刺した「それ」をかき回す女。
ボトボトと何かが落ちていく。これは……内臓か?
クレアの内臓が、彼女の腹から、落ちて、いく……。
彼女は腸を地面にぶちまけていた。腹部を横にバッサリと斬られていることがわかった。
腹を掻っ捌いたのは、やはりあの包丁だった。刃が血で真っ赤になっている。
気づくと女がクレアの腹に吸い付いていた。傷口に顔を埋めながら、血をすすり、肉を食い漁っている。
「美味しい……!」
狂女は口元を血で汚しながら、ニッコリと笑っていた。恍惚とした表情でクレアの目を見つめている。まるで食べ物を恵んでくれた人間に感謝しているようだった。
言うまでもなく、彼女は絶命した。
その後、女がどうなったのか。それは誰も知らない。
何と言うことだ。
復讐を果たすまで……栄光を取り戻すまでは、絶対に死ぬわけにはいかなかったのに。
散々な結末だった。自分の人生が、こんなわけのわからない形で終わってしまうなんて。
彼女は何を呪うべきなのだろうか。何を恨めばいいのだろうか。一体誰が、こんなエンディングを用意したのだろうか。
その答えは……。
お読みいただきありがとうございます。
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