美大生、異世界に行く。
俺は昔から少し鈍いところがある。
忘れ物が多いとか、ちょっとしたミスに気付かないとか、瞬間的な理解力が足りないとか、そんな程度だけれど。
幼いうちはドジで済まされていた、その細々とした問題点が原因で、年齢が上がるにつれ周囲から浮くようになった。
本来は成長していくうちに自然に改善していくことなのだろうが、俺はどうも直せなかった。気を付けよう、次はこうしよう、と努力しても、身体に染み付いた習慣の如く、なかなか直らない。上手くいかない。周囲の人間はそんなミスの繰り返しが嫌になったのか、俺から離れていった。
考えてみれば当たり前のことだ。
社会に出て、仕事で同僚にそんな問題点があれば、そりゃ嫌にもなるだろう。尻拭いをさせられるのは自分なのだから。
比例して、幼い頃から両親の重い期待を受け続けてきた学力の方も、どんどん周りに追いつけなくなっていった。「昔は出来たのに」なんてのが両親の口癖になった。
俺は逃げる様に趣味に没頭した。
ひたすらに絵を描くこと。両親からは「そんなもの、何の役に立つんだ」と罵られていても、それは俺の生き甲斐だった。
だから、昔から厳しく頭の硬い両親と縁を切ってでも、美術系の進路に進むと決めた。
それからは、描いては評価を受け、修正し、また描いて……繰り返しながら、苦しくも充実した毎日だった。根気強く熱い指導をしてくれた講師は、俺のうっかりミスに呆れながらも何度も教えてくれた。そのお陰か、本番の試験では多少のミスはあれど全力を出せたように思う。
そうして、数々の障害を乗り越えて、受験戦争をまさに死に物狂いで走り抜けた俺は、今日、第一志望大学の入学式に向かう――――はず、だったのに。
気が付いたら知らない場所にいた。
勿論、大学内にある入学式の会場にも足を踏み入れたことはなかったが……想定とはかけ離れた、物置の様な暗い部屋。目の前の机に、設計図の様な図形が描かれた紙が積まれている。所々崩れて、黄ばんだ紙が散乱していた。天井にはポツンと申し訳程度の明かりがぶら下がっている。
予想外の出来事に、理解が追い付かない。まさか、入学初日から道でも間違えたのだろうか。それにしたって道中の記憶がない。まさかあの奇跡のような合格通知自体が夢だったのだろうかと、頭の中であれこれと思考が廻る。
――いや、しかし、これはどう見たってアレ……いや、え?何故このタイミングで……?
全身の力が抜けてふらつきそうになるのを何とか耐える。
折角辿り着いたのに。
「縁を切ってやる!」とまで怒鳴られ家を飛び出した後、あの偏屈な両親とも多少のわだかまりはあれど和解し、毎日休むことなく絵を描き続け、やっと手に入れた現役合格。大学入学だけではまだ道半ばに過ぎないが、ようやく立てたと思ったスタートライン。
どうか間違いであってくれ。道を間違えただけであってくれ。そう願えば願う程、目の前の現実が真っ向から否定してくる様な感覚。心臓が早鐘のように鳴っている。
ーーだって、これは、こんな状況はそうそう無い。というか有り得ない。部屋の隅に寄せて置いてあるのは工業製品の類ではなくおかしな形状をしたガラクタで、ケーブルの様な管が床に散乱している。足下の床には大きな正円の図形。緻密に描き込まれた大きな図形は、まるで、魔法陣のようなーー。
そこまで考えて、ハッと思い付いた。ここは大学の研究室か何かではないだろうか。芸術を極めた教官の集まる大学だ。これだけおかしな部屋の現状も、アートだと言われてしまえば納得出来る。
そう思えば、益々それが真実のように思えてきて、俺は安堵の溜息をついた。
何だ、大学の中であまりに緊張しすぎて道を間違えたのだ。十分に余裕を持って家を出たから、まだ時間はある。
早くここを出ないとーー
「いでぇっ」
そう、ドアノブに手を掛けた所で、反対側から勢いよく扉が開かれた。扉を開けようと近づいていた俺の顔面に扉の角が直撃する。
「うわっ、びっくりした〜」
「うお、ぉおぉ」
顔を抑えて蹲り、痛みで反射的に呻いた俺を見て、扉を開けた人物ーー場違いな格好をした三つ編みの少女が驚いた声をあげた。
いや、場違いな格好というよりも、寧ろ場に合った格好ではあるのだが……認めたくない。
「ごめん……大丈夫〜?」
三つ編みの少女が、その亜麻色の細くふわふわとした髪の毛を揺らして、俺に手を差し出す。その手には分厚い茶色の手袋がはめられ、袖口の隙間からは真っ白な肌が覗いていた。
脳に響くような鈍痛と、目を背けたくなる様な現実に、涙が出そうになるのをぐっと堪える。大丈夫、まだ決まった訳じゃない、と半ば現実逃避をしながら、見知らぬ少女の手をとった。
「あぁ、大丈夫大丈夫……」
異世界召喚に可愛い女の子。
ふと気付く。これ夢じゃね?と。